30.「堕落の系統から復帰されるには、‥‥だから妾です」 | 御言 missing link

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30.「堕落の系統から復帰されるには、‥‥だから妾です」
  
 きょうのテーマは、他の方のブログにおいても、とりあげられてきた内容の一つで、かなり問題視されやすいテーマです。また、御言の根拠も多くはありませんので、憶測も入ってしまいます。ですが、可能な限り、客観的に読んで頂き、冷静に内容の吟味をお願いできればありがたいです。

 では、御言です。

「それで、アブラハムの妻はサラであり、アブラハムの妾はだれですか?(「ハガルです」)。ハガルの長子がイシマエルでしょう。サラは高齢になり、子供を生むことができずに、どれほど嘆息したでしょうか。ハガルはイシマエルを生んで、アブラハム家庭の主軸になっていたのですが、サラが有り難く思ったでしょうか、憎んだでしょうか?
 だれが、これを一つになれないようにしたのでしょうか? だれがアブラハムの中に、二つの分かれ道をつくっておいたのでしょうか? ハガルですか? アブラハムの妻の名前は何ですか?(『サラです』)。サラです。死なずに生きて御旨を成しなさいという意味で、サラという名前までつけてあげたのに、ハガルをどれほど憎みましたか。
 それで、だれが追い出したのですか? アブラハムが追い出したのですか、サラが追い出したのですか? ハガルとイシマエルを残して家門の伝統を受け継がせ、イスラエルの伝統を建てることを、どれほど切なる思いで期待したかという事実を知っているのです。泣きわめき、這いつくばりながら「出ていかない!」と言うのを、追い出したのがサラだというのです。そのようなことが蕩減されなければなりません。分かりますか? 信仰の先祖が、よく信じることができませんでした。よく信じることができず、正しく行動することができませんでした。」
(祝福家庭35号 P20「以北出監54周年・霊界統一解放4周年」記念式でのみ言)

 この御言を読みながら、少々以外に感じたのは、最初の方にある、
「ハガルはイシマエルを生んで、アブラハム家庭の主軸になっていたのですが」
 の部分と、3つ目の段落にある、
「ハガルとイシマエルを残して家門の伝統を受け継がせ、イスラエルの伝統を建てることを、どれほど切なる思いで期待したかという事実を知っているのです。」
 の部分です。
 妾であるハガルとその子イシマエルに、非常に重要な役割があったようです。
 また、第2段落の最初に、
「だれが、これを一つになれないようにしたのでしょうか? だれがアブラハムの中に、二つの分かれ道をつくっておいたのでしょうか?」
 とありますが、それに対し、
「サラです。」
 と言っておられます。そして、
「ハガルをどれほど憎みましたか。」
 とあります。サラはハガルを憎んではいけなかったようです。
「だれが追い出したのですか?」
「追い出したのがサラだというのです。」

 とありますから、サラは、ハガルを憎んでもいけなかったし、ましてや追い出してもいけなかったようです。ですから
「信仰の先祖が、よく信じることができませんでした。よく信じることができず、正しく行動することができませんでした。」
 と言っておられます。
 ですが、重要なのはその次の
「そのようなことが蕩減されなければなりません。」 
 ではないかと思います。
 何が蕩減されなければならないのかといえば
「正妻であるサラが妾ハガルを憎んで、ハガルとその子イシマエルを追い出したこと」
 となります。 
 もし、この「蕩減」が、その後十分にはなされることなく、その多くを残しながら歴史が流れてきたとしたら、それを最終的に、しかも完全に、「誰が、いつ、どこで」なすというのでしょうか。

 では、次の御言です。

「‥‥‥それで、妾として、妾の女を連れて神のほうに戻っていかなければなりません。そうなると、妾は本妻の、正妻の怨讐です。地獄にみな同じく入ります。抱き合って転んでそこに行こうというのです。大変なことです。これをなだめて一つにならなければならないという、復帰された家庭にはそういう内縁があることを知っているのだから、神様はそれを収拾するために、『怨讐を愛せよ』ということを発布せざるを得ませんでした。分かりましたか?(はい)。」(女性訪韓修練会御言集 P114)

 最後の方で、
「復帰された家庭にはそういう内縁がある」
 と言われていますが、その内縁とは
「妾として、妾の女を連れて神のほうに戻っていかなければなりません。そうなると、妾は本妻の、正妻の怨讐です。‥‥‥これをなだめて一つにならなければならない。」
 ということのようです。

 次の御言です。

「ラバンは、サタン側に立って言うのです。『神様、神様の家庭を復帰していくには、正妻では復帰されないことをあなたは知っています。それでも正妻で復帰するのだったら、サタンと共に人の家でもって交代に愛する立場に立ちますか?』と。絶対にできないのです。怨讐の立場です。怨讐の立場でもって憎む怨讐の立場から手を着けるようになっているのです。分かりますか? それは愛の一家という独特の一人の旦那さんを中心として二人の女の怨讐圏、愛の相対関係の怨讐以外にはありません。だから正妻と妾の関係です。分かりましたか?
 それで、ラケルが妾ではなくて、本妻になって、ヤコブと一つになっていたらそれでいいのに、堕落の系統から復帰されるには、正妻ではできないのです。分かりますか? 正妻の怨讐の女からです。それは分かりますね?(はい)。だから妾です。妾は正妻をさておいて、二番目のもっと過去より高い愛をもってつなぐのです。そこに復帰伝統に一致する内容があるのです。
(女性訪韓修練会御言集 P115)

 上の御言を、あくまで、聖書の解説ととることもできるでしょう。しかし、だとしたら、何のために文先生は、聖書の謎解きをしたのでしょうか。
「先生はこんなこともわかるんだ! すごいだろう。メシアとはそいうものだ。そういう歴史の上に立つ先生なんだ。」と主張されるためでしょうか。 
 それも絶対無いとは言えませんが、私は、文先生はどこまでも私心のない方だと信じています。ですからどうしても上述のように思えないところがあります。
「堕落の系統から復帰されるには、‥‥‥」とありますから、私達の救いや後世の救済に必要だから語られたのではないでしょうか。
 
 そうだとすれば
「堕落の系統から復帰されるには、正妻ではできないのです。分かりますか? 正妻の怨讐の女からです。それは分かりますね?(はい)。だから妾です。」
 の部分は、とても重要なことを言っておられるのではないでしょうか。
 そして、堕落人間の救いには、「妾」は必要不可欠なのかもしれません。それが、文字通りの妾なのか、あるいは妾に象徴される他のものなのかは、まだ明確にはわかりませんが。

「皆さんが妾です」という御言もあるようです。
 ただ、その御言をもってしても、レア・ラケルに代表されるような歴史的事実としての本妻・妾の関係を否定することはできません。また、「文字通りの妾」と「妾とは私達を象徴した表現だ」とする内容が、内的なものと外的なものの関係である可能性もあります。
 また、時に、摂理は、象徴・形象・実体という形をたどることがありました。象徴的なものの存在が、そのまま実体の存在の否定になるとはかぎりません。妾が私達を象徴する表現だとしても、それが実体の妾の存在そのものを否定する根拠にはならないと思います。
 
 さて、ここまでくると、どうしても、ある一つの「疑い」に触れざるをえなくなります。触れたくないのですが。
「文先生に、妾がいたのか」という「疑い」です。
 上に提示させて頂いた御言をもってしても、「文先生には妾などいたはずがない」と、言えればいいのですが。いろいろな方のブログを見ますと、状況証拠的には「文先生に妾がいた」となってしまうようですが。

 最後に、もう一つ御言を。

「どうして、『イエス様が聖霊によって身ごもった』と、大騒ぎするのですか? (マリヤは、)ザカリヤの家に行って、三か月暮して来たのです。そこに行って、赤ん坊を宿したのではないですか? ちょうどユダが、再び祝福を受けたことと同じです。分かりますね?(はい。)
 このように、天のみ旨が、すべて血統を転換させて、取って代わって復帰されたという事実を認めるようになるときに、今日の文総裁は、この世界途上において、このようなことをすべて蕩減しなければならないのです。
 ですから、ヤコブが、そのように結婚したことも、先生が離婚するようになったのも、天がさせたのです。レアとラケルのように、二人(の姉妹)が、一つになることができなければなりません。
 そのためには、聖進の母親が、そのように妹を育てて、そのようにすることができる、このような立場を助けてあげなければなりません。ところが、それをしないで反対したのです。すべて破綻したのです。」
 (ファミリー2003年11月号 第15回「八定式」におけるみ言葉 P34)

 文先生のご家庭においても、この問題に関して、実体として蕩減的な内容があったのでは、と感じられます。

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