29.「神様は、完成アダムを通してエバと一つになり、‥‥‥」? | 御言 missing link

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29.「神様は、完成アダムを通してエバと一つになり、‥‥‥」?

 最近の私の記事の中には、
「中心家庭――直系を受け継ぐ一中心」
 という御言の一語が頻出しているため、「何でこの一語にこれほどこだわるのだろう」と思われる方も多いのではないかと思います。途中から記事を読み始められた方は、特にそう感じられるのではないでしょうか。

 今回は、第11や14の記事と多少重複する部分があるのですが、今後の記事の展開上、重要ですので、再度このことについて確認させて頂きたいと思います。

 次は、数年前、私が参加した原理本体論修練会での講義の一節です。

「文先生は、神様について『鼓子(コジャ)の神様だった』と言われたことがあります。『鼓子』とは、男として結婚できる能力があるにもかかわらず、それができない、ある意味で悔しい状態を言います。神様は完成したアダムを通して、エバと結婚したかったのです。完成したアダムと一つになり、さらにそのアダムを通してエバと一つになりたかった神様でした。」
 
 少々疑問の残る内容でした。文先生の「初愛」の御言からすると、こういう表現もあり得るかもしれませんが、今でも、この内容には???が付きます。ですが、きょうはこの方向性を尊重するところから考えていきたいと思います。
 
 アダムを創造された神様の目的に関して、次ような御言があります。

「本当は、未来の実体の神様の現れを目標としてアダムを造った。だからアダムは実体をもった神様である。この世界を造った、創造したすべての、その主管というものは、完全に知らなければできない。完全主管をなすには、その創造したる神以外に完全主管はできない。完全に知らないというと完全主管はできないから、完全に知っている神以外にない。だから神以外は完全主管はできない。アダムは被造物である。被造物自体が創造の全般をつかさどって、それを完全主管するということは不可能である。だから、そのようなアダムを前に立たせて、そのアダムの中に神直接臨在して、アダムという肉体を、神の共鳴体と同じような立場に立たせて、神直接この大宇宙を主管しようとした。 (祝福家庭と理想天国Ⅱ 血統的転換 P64 1970年10月13日)

 最初のところに、
「アダムは実体をもった神様である」
 とありますが、私自身は、まだこの意味での「アダム」には到底なれてはいません。
 最後の、赤で強調した部分の「アダム」「私」に置き換えてみます。

「だから、そのようなを前に立たせて、そのの中に神直接臨在して、という肉体を、神の共鳴体と同じような立場に立たせて、神直接この大宇宙を主管しようとした。」

「あー、程遠いなあー」の一言です。努力すれば、実感が伴う日がくるのでしょうか。

 さて、原理本体論修練会に出られた方は分かるかと思いますが、この修練会では、「夫婦生活の奨励」のような講義がありました。それは、

「人類史上、本然の夫婦生活の喜び・刺激は、神様が一度も共鳴し、受け取ることができなかったが、ご父母様の勝利圏で、それを神様と一緒に享受することができる時代になった」
 というような内容だったと思います。(本体論修練会に参加してから数年たちますので、この理解は正確でないかもしれませんが。)
 
 私は、まだまだ神様の共鳴体になっているという実感に至っていませんし(もちろん時々ならありますが)、それは妻も同じだと思います。共鳴圏になっていない私たち夫婦が、いくら一つになったとしても、その刺激が神様に届くとは思えません。
 自分が感知するしないに関わらず、祝福家庭であれば、神様は感じられるというのならよいのですが。

 この話が、理想家庭の中心テーマなのかどうか、また、神様と文先生の最大の関心事なのかどうかはわかりません。ですが、原理本体論修練会は、ややもすると、そうとることができるような内容でした。現に、参加者の中には、家庭をもって数ヶ月といった、若い人も多かったのですが、時間があると、みなそれぞれ家に電話をかけていました。そして「早く帰りたい」と言っている人もいました。

 私は、この原理本体論の講義の中の、上述のような夫婦生活の話は、若い本然のアダム・エバがいよいよ現われたか、あるいは、現われることが確実になったということの、形を変えた宣布のようにとらえています。

 ところで、第14の記事でも申しあげたことですが、創造目的としては、本然のアダム・エバの完成だけでなく、その子女、つまり神様の孫までが完成圏の対象でした。

「神様において、新しい朝を迎える一番の栄光の時とは、肉体をまとうことができる時です。その次には、愛することができる人(夫婦)をもつ時であり、その次には、孫を愛せるときです。息子、娘よりも孫を愛せる時のほうが、より大きな栄光のときです。(天国を開く門 真の家庭 P67、祝福家庭と理想天国Ⅰ P936 1978.1.22 第14の記事でも提示)

 ところが、堕落により、その孫を見ることができませんでした。
 そのことに対して、文先生は
「三代を継続させられなかったことが堕落です」
 と言っておられます。

「その次は何ですか。(三大王権です) 三大王権とは何ですか。霊界と肉界、未来がありません。一代が神様であり、二代がアダム・エバですが、三代をもてませんでした。四位基台を築けなかったのです。それゆえ、中心がありません。軸がなくなりました。中心がなく四方へと回っていくのです。未来(子孫)が自分勝手に、ばらばらになるのです。垂直線がないのです。それが堕落です。三代を継続させられなかったことが堕落です。あなたたちはそれを知らなければなりません。三代の継続です。
(祝福家庭 7 P20  家庭盟誓について 第14の記事でも提示)

「三代の継続」ということが、創造の初めから重要だったわけです。
 重要というよりも、むしろ「三代の継続」ということは、最初から創造の原理の中に織り込まれていたと言っていいでしょう。
 神様から見れば、ご子女様が三代目ですが、文先生を「地上の神」(第5の記事)と見れば、文先生の孫にあたる方が三代目です。文先生にも、同じ原理が適用される可能性は否定できないと思います。
「息子、娘よりも孫を愛せる時のほうが、より大きな栄光のときです」
 という内容が文先生にもあてはまるはずだと思うのです。
 あるいは、「神-アダム・エバ(神様の子女)-子女(神様の孫)」という「三代の継続」という原理が、神の似姿である人間にそのまま「アダム・エバ-子女-孫」と受けつがれていったはず、と見ることもできるでしょう。
 このことに、「蕩減」と「本然」の差異ということも加えて考えると、さらに複雑になるかもしれません。
 この辺り、次の2つの御言も踏まえて、皆様にもご検討頂けると有難いです。

「二世時代は何かというと、先生を一代とすれば祝福を受けた人々が二代なのです。分かりますか? その次に、二世の祝福を受けた人々が三代です。そして、この三代は同じ運命なのです。 (ファミリー93/4 P7 第26回「神の日」 1993年 1月1日 ソウル本部教会)

「神様が一代ならばアダムが二代であり、アダムの息子・娘が三代です。地上においてその三世圏を代身して、先生が一代ならばあなたたちの父母が二代であり、あなたたちが三代です。それゆえ、あなたたちが天の国に責任をもたなければならず、地上の国にも責任をもたなければなりません。」 (祝福家庭20号 P20~23 第18回「愛勝日」での御言 2001年 1月2日 中央修練院)

 また、文先生の御言の中には、時々「孫」という言葉が出てきます。

「新しい歴史的な数多くの一族において血筋が替わって分かれていたのですが、正分合の原理の理想に従い、真の父母により、神様の時代、父母の時代、孫の時代という三時代を通して、孫を中心として四位基台を完成するのです。これが一つの種となり、一つの中心の根と枝になり、一つの幹を中心として一つの芽となって、花が咲き結実した実が、堕落していない本然のアダム家庭の実と同等な価値を成し遂げることにより、神様の代身として地上に君臨するのです。(2008年10月14日 第9回「霊界統一解放式」の記念行事のみ言 KMSネットニュース 2008.11.14) 

 少々気になるのは、2行目の
「真の父母により、神様の時代、父母の時代、孫の時代という三時代を通して、孫を中心として四位基台を完成するのです。」
 の部分です。
「神様の時代、父母の時代」ときたら、次は「子女の時代」だと思うのですが「孫の時代」となっています。(神様から見たときの「孫」ととらえることもできるのでしょうが。)
 そして、
「孫を中心として四位基台を完成するのです。これが一つの種となり、‥‥神様の代身として地上に君臨するのです。」
 と言っておられます。孫の代まで行って、はじめて完成した種になるということのようです。
「孫、孫、先生の孫を見よ」と言っておられるように感じてしまうのは、私だけでしょうか?
 私には、この
「孫を中心として四位基台を完成するのです。これが一つの種となり」
 の「孫」が再三申し上げてきた
「中心家庭――直系を受け継ぐ一中心」
 なのではないかと思えてくるわけです。
 再度その一語が含まれている御言を提示しておきます。

「皆さんは今は教会の祝福を受けましたが、国の祝福、世界の祝福をすべて終えてから、その次にはそうすることができる(完全に自由にすることができる)時代に入ります。しかし、中心においては、先生の家庭においては神に対する伝統を受け継ぐ後孫、中心家庭――直系を受け継ぐ一中心があると思います。その中心一人だけいれば、その一人を中心として一つになることによって、すべてが上へと上っていくことができます。そうして先生はすべてのことを成したことになります。その時は中心を中心として先生の後孫たちも一つになります。(荒野)時代に皆さんが一つになるのと同じように、三代祝福圏を越えてそれが可能であって、それ以前においては絶対的に先生一代を中心としてそのような運動をしなければなりません。」 (御旨と世界 P943 「私を中心とした父母と子女と万物世界」 第11の記事でも提示 )

「中心家庭――直系を受け継ぐ一中心」
 を中心として
「すべてが上へと上っていく」
 つまり、成長期間の完成期、または縦的8段階を本当の意味で上がっていくことができると理解できます。

 これまで、私達は、「氏族メシアさえ勝利すれば、あとは完成に至る」と考えてきました。
 ですが、文先生が、
「その時は中心を中心として先生の後孫たちも一つになります」
 と言っておられる「中心」と無関係に完成できる道があるのでしょうか?

「あれば、いいな」と私も本音では思っていますが。

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