16.「ああ、わたしは真の父母でありません」 | 御言 missing link

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16.「ああ、わたしは真の父母でありません」

 今回の内容は、もともと先回の内容と一つだったのですが、長くなったため2つに分けました。そのため、今回の内容から読まれた場合、論の展開に飛躍を感じるところがあるかもしれません。何分、ご寛大にお願いします。

 第11や第14の記事の中の「中心家庭――直系を受け継ぐ一中心」「三代圏の継続」ということが否定できない内容だとします。そうすると、文先生が時々、ご自身のことを「来られたメシア」ではなく「来られるメシア」と言われた背景には、「文先生から始まる三代圏」を総称して「メシア」と言われた可能性があるのではないか、というのが先回の内容でした。あくまでも仮説ですが。

 では、きょうの内容です。
 
 原理講論には、
 
 洗礼ヨハネの失敗により、イエス様ご自身が一旦その位置(洗礼ヨハネの位置)に下り、イスラエル民族をまとめ直さなければならなかった。その際、奇跡と御言が出発のため摂理だった。そして、その後に、メシアとしての使命を遂行されようとした。

 といった内容の説明があります。そして、同様のことが、文先生にも当てはまることについては疑問はないと思います。それが、文先生がご苦労されてきた理由の一つであることも。

 では、御言です。

「主が来られるときに、世界の宗派がたくさんあるものを連合する運動を中心として、エリヤのような代身として、再臨主が来られる前に洗礼ヨハネのような存在がやってきます。そして全部統合運動をして、一つの世界をつくるのです。それで、全て統合運動、家庭連合、主教連合、世界連合体制になります。そうして、以前の統一教会の名前は何ですか?『世界基督教統一神霊協会』です。これらを一つにしなければなりません。」(ファミリー 98年7月 P24)

 やはり文先生もイエス様と同様に、洗礼ヨハネの立場に下りられて、本来しなくてもよかったはずのご苦労をされた期間があったようです。(??と思われた方は、赤字の所を中心に再読してみてください。)

 以下、太字の「 」の部分は、すべて文先生の御言です。

「『真の父母の名を持ちたい』と思って、だれよりもそれを慕い、どれほど涙を流したかということを知らなければなりません。
 名です。名。実体は、夢にも見ませんでした。神様も、そのような心を持っていらっしゃったとしても実体を持つことができない神様でいらっしゃるのです。それなのに、その神様の御前で『私が実体の主人になる』と考えることができるかというのです。・・・
 名前一つを守ることが、このように難しかったのですが、実体権解放の王子のほうが、何百倍も難しいという事実を知らなければなりません。そして、世の中の家庭すべて、一族を中心として‥‥‥ 」
(ファミリー 02年7月 P24)


 文先生が、本来の基盤を失い、最底辺から出発され、しかも真の父母として勝利されることがどれほど大変なことだったのかということを私達はよく知っています。
 その大変さ故、たとえ、実体は後になったとしても、どんなことがあっても名だけは死守しなければならないというのが実際のご事情だったようにもとれます。
「すべてを勝利された真のご父母様」を否定する気持ちも、不信する気持ちもありません。
 ですが、私達の責任如何によっては、文先生が、当初予定されていた栄光の玉座に完全に戻ることが、最終的には難しかった、ということはなかったのでしょうか。

 また、上の御言の最後の方に
「実体権解放の王子のほうが、何百倍も難しい」
とあります。私達は、この「実体権解放の王子」とは文先生のことだと思うはずです。しかし、

「そのように、思いのままに朝食を食べ、昼食を食べ、夕食を食べ、好きなように歩き回りながら、“私ができることをやろう” と、活気に満ちた『解放の王子』ではないということを知っているので、今まで悲しみと苦痛の道を行き暗闇の道を光明の道に代置する道を教えようと、どれほど苦労したでしょうか? 」 (ファミリー 04年2月 P18)

 第10の記事でも提示させて頂いた御言です。ご自身を「解放の王子ではない」と言っておられます。(「解放の王子」を否定してるのではなく、「活気に満ちた」の方を否定しているという方もいるかもしれませんが。)

「何百倍も難しい解放の王子」とは誰のことなのでしょうか?

「『いつ誇れる文総裁の生涯になるのか?』というとき、霊界にいっても安心することができず、『真の父母の名』を解怨するための努力が、霊界にいっても残るという事実が無念です! 無念であるというのです。(ファミリー 04年2月 P52 )

「『真の父母の名』を解怨するための努力」とは、一体、何を意味するのでしょうか?

 次の御言は、読んでいて一瞬、自分の目を疑いました。

「ですから真の父母は、天の国や地獄の国の解放の権限を持った王の中の王です。だれがですか? (「真の父母です」)。だれがですか? 真の父母がどこにいますか? (「ここです」)。 ああ、わたしは真の父母ではありません。わたしは真の父母ではありません。信じてはなりません。(「お父様です」)。」(ファミリー2000年1月 P22 第40回「真の子女の日」 記念礼拝のみ言)

 ここで、なぜ
「わたしは真の父母ではありません。信じてはなりません。」と言われたのか、私にはよくわかりません。私達を試しておられるのでしょうか?
 ただ、少なくとも「解放の権限を持った王の中の王」ではないと言っておられるのでは、ととることはできるかと思います。
 つまり、あえて客観的に、素直にとると、文先生は、ご自身のことを
   「解放の王子」、「解放の権限を持った王の中の王」
ではないと言っておられるということです。
 そうすると、「解放の権限を持った王の中の王」としての「真の父母」はどうなるのでしょう? 
 上の御言が語られた2000年の段階ではまだそうではなかったが、その後「解放の権限を持った王の中の王」となられたのでしょうか? 王子でなかった立場から、王になるのは不可能ではないにせよ、難しいことのように思うのですが。
 それとも、ここも「三代の継続」「三代で完成」と考えるべき内容があるのでしょうか?
 今の私には、断言できるほどの根拠がありません。

「それで、1960年を中心としてイエス様は父母だろう。イエス様は神様が送られた第2番目の父母である。この父母が失敗したものをもとがえししないというと第3の勝利した父母は生まれてきません。 (御旨と世界 P169 「真の父母と我々」)

「もとがえし」する方は文先生のはずですが、では、なぜ、「もとがえしをしないというと第3の勝利した父母にはなれません」ではなく、「第3の勝利した父母は生まれてきません」なのでしょうか? 表現の問題で、深い意味はないのでしょうか?

「それは、修理すべき責任を持った“真の父母”という人が来て、神様のように数千年間かけて役事するのではありません。アダムが一代で完成することができなかったので、一代で解決しなければなりません。
 ですから、それは、どれほど途方もないことでしょうか? それは、皆さんには分かりません。摂理をよく知り、み旨に対する代表として立った先生は、そのことをよく知っているのです。それは、話したくありません。話したくないのです。それは、わたしよりもかわいそうなかたが神様であられる、ということを知っているからです。
 不孝息子が、自らの立つ場を見いだせないほどに恥ずかしい歴史である、ということをよく知っているので、話すことができないのです。分かりますか?
(米国五十州巡回講演」 祝勝会 01・4・18 ニューヨーク州 イーストガーデン)
 
 解放の王子としての栄光や喜びをすべて捨て、修理すべき責任を負い(この御言の中の「一代で完成」、「一代で解決」という言葉は、「三代の継続」、「三代で完成」という言葉と矛盾します。「修理」と言っておられるところに意味があるのではと思います)、しかもその修理を後世に残さないよう一代で完成しようとされながら、絶えず十字架の道を来られた文先生です。
 しかも、神様に対してはどこまでも「不孝」を嘆かれ、お詫びし続けた文先生。そして「解放の権限を持った王の中の王としての真の父母ではない」とさえ言われた文先生です。

 ですが、神様は

「レバレンド・ムーンの家庭は、神様に尋ねてみれば、真の家庭であると言われます。看板を付けて宣伝しなさいと言われます。」(ファミリー07年12月 P45 平和のメッセージ13「神様のみ旨から見た環太時洋時代の史観」解説 2007.9.23 マンハッタンセンター)

 この御言を、賛美と称賛で読むことができないひねくれ者は私だけかもしれません。ですが、今回のような御言のたどり方をしてみると、私には、満身創痍の文先生に、「それでも、すべてを勝利した。もう十分すぎるほど十分‥‥‥」と神様が涙しておられるようにも感じられてしまいます。このような御言のたどり方が間違っているのかもしれませんが。

 今回は以上です。

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