15.“come”は“came”なの? | 御言 missing link

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15.“come”は“came”なの?

 まず、次の御言をお読みください。今までの記事の中で取り上げた御言も含まれています。
 できれば、先回の記事の「三代圏の継続」ということを、念頭におきながら読んで頂ければと思います。

「神様とあなたたちは、本来神様が理想としていた血統が連結されていなかったのです。人類を救わなければならない神様は、この血統を連結させて再創造摂理を終結させるために、メシアをこの地上に送って小羊の婚宴をしなければならないのです。(祝福家庭18号 P48 「第1次入籍のための祝福家庭婦人特別修練会」)

来られるメシアの前に女性たちは、絶対的な信仰、絶対的な愛、絶対的な民の道理を持たなければなりません。)」(祝福家庭18号 P48 「第1次入籍のための祝福家庭婦人特別修練会」)

「自分の心と体の戦争、この戦争をやめさせ、戦争を停戦させることのできる主人がいたならば、自分が千年、万年、僕になったとしても、その道を求めて行こうと叫ぶ人がいなければなりません。それゆえ神様が、メシア、救世主というかたを送るのです。(ファミリー98年1月 P14 「真の子女の勝利圏を相続しよう」)

「では、メシヤをどこに送るのが神の願いだったのでしょうか? 堕落した世界の個人の前に送るのではなく、堕落した家庭の前に送るのでもなく、堕落した氏族の前に送るのでもなく、堕落した民族の前に送るのでもありません。民族と国家が一つになった立場で、主権を持った国に送ることを願っておられるのです。カイン国家を屈服させるために、一つの国にメシヤを送るのです。
 メシヤは一つの国に送られて、そのような使命を果たさなければならないということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。分かりますか? 国家以上なのです。国家以上の立場から世界を復帰するために来られるのがメシヤであり、国家以下の立場で勝利するために来られるメシヤではありません。」
(み言選集 55「今後私たちがなすべきこと」72年5月9日)

 これらの御言を、文先生のことを良く知らない人(仮にAさんとします)に、読んでもらったとします。ちょっと想像してみてください。私達が気づかない意外な反応が返ってくるかもしれません。

私;「Aさん、これらの御言を読んでどう思いましたか?」
Aさん;「メシアが来ると言ってますね」
私;「そうなんです。もう来られたんです。」
Aさん;「そうですよね。このお話をされてから、それなりに年数がたっていますから、もう来ていてもおかしくないですよね。」
私;「そういう意味ではなくて、この御言が語られる前から来られていたんです。」
Aさん;「えっ! でも何度か『来られる』と言ってますけど。」
私;「それは『来られた』という意味です」
Aさん;「えー! でも、『神様がメシアを送る』というところもありますよ。」
私;「それも『すでに送られた』という意味です。」
Aさん;「『神様はメシアを国に送る』と言ってますけど、じゃあ国はあるんですか。」
私;「これから造るんです。」
Aさん;「じゃあ、それができたらメシアが来るわけですね。」
私;「だから、もう来たって言っているじゃありませんか!」
Aさん;「えー? 誰なんですか? どこにいるんですか?」
私;「この御言を語っておられる当の文先生です。」
Aさん;「んー‥‥‥???」

 といった会話になるでしょうか。このような会話が、そう遠くない将来、教会員と一般の人の間で実際に交わされることがあるかもしれません。
 それが問題視されるようになれば、教会は、すべての御言の『来られるメシア』を『来られたメシア』、『神様がメシアを送られる』を『神様がメシアを送られた』に変えようとするかもしれません。
 ところが
「先生の語った内容、先生の書いた内容を、自分勝手に加減して訂正しようというような思いを持ってはなりません。」(ファミリー 93年9月「日本人特別修練会における御言」 1993年4月16日アメリカ・ベルベディアにて)
 ということでした(記事NO.12 で提示)。
 ある先輩食口に、この「来られる」について聞いたところ「ご自分の位置に侍っておられるが故の文先生特有の言い方だ」とか、「大きな大会や講演においては、来賓に配慮され、このような表現をされることがあった」と言っていました。
 それ以外にも他の説明、解釈は可能かもしれません。しかし、今後、このような事態に際して、いちいち、対外的に説明し続けないといけないのでしょうか。

 将来、文先生の御言が、聖書と並んで、いやそれ以上に、一般社会や大学の神学部等で研究される時代がくるでしょう(と、私は願っています)。そのとき、私達が信じている結論とは違う結論が出てきたりはしないでしょうか。
 もちろん、上の「メシア」が、「=文先生」であることを否定しません。ですが、もし、先回の「三代圏の継続」、第11の記事の中の「中心家庭――直系を受け継ぐ一中心」という観点も否定できないとするならば、「文先生から始まる三代圏」を総称して「メシア」と言っておられるのでは、と考えることができるのではないでしょうか。

 私達は、キリスト教から受け継いだ「メシア」という言葉の響き、定義、イメージに縛られていたりはしないでしょうか。それを一度はずして、純粋に御言に立脚した観点からとらえ直してみる必要もあるように思います。私達にとっては、キリスト教神学が権威なのではなく、文先生の御言が権威だと思いますし、キリスト教神学が文先生の御言を縛ることはできないはずです。
 そうであれば、上の御言の中の「来られる」、「送られる」は過去形の言い換え以上の意味があると思います。

 最後に、
「中心家庭――直系を受け継ぐ一中心」「三代圏の継続」って、どういうことだったっけ? という方もおられるかもしれませんので、2つだけ、御言を再度提示しておきたいと思います。不要という方は、飛ばしてください。
 
「皆さんは今は教会の祝福を受けましたが、国の祝福、世界の祝福をすべて終えてから、その次にはそうすることができる(完全に自由にすることができる)時代に入ります。しかし、中心においては、先生の家庭においては神に対する伝統を受け継ぐ後孫、中心家庭――直系を受け継ぐ一中心があると思います。その中心一人だけいれば、その一人を中心として一つになることによって、すべてが上へと上っていくことができます。そうして先生はすべてのことを成したことになります。その時は中心を中心として先生の後孫たちも一つになります。(荒野)時代に皆さんが一つになるのと同じように、三代祝福圏を越えてそれが可能であって、それ以前においては絶対的に先生一代を中心としてそのような運動をしなければなりません。」
(御旨と世界 P943 「私を中心とした父母と子女と万物世界」 )

孫が2つの国の王の愛を受けることのできる赤ん坊として生まれることによって、神様が見えるものと見えないものの、すべての愛の結実を持つのです。その愛を受ける三代は、そのまま地上で完全な種として出てくるのです。わかりますか? 完全な種としてこの地上に蒔かれたので、結婚すればそこでそのまま自動的に神様の家庭が拡大し公式的に発展するようになっているのです。そのような家庭は、血統が通じているので、神様の生命の要素が自動的に連結されるのです。種が同じなのです。それゆえ三代圏をもたなければ、開放的な種になることはできません。(祝福家庭18号 P63 「第1次入籍のための祝福家庭婦人特別修練会」)

 私としては、

「中心家庭――直系を受け継ぐ一中心」
「その中心一人だけいれば、その一人を中心として一つになることによって、すべてが上へと上っていくことができます。」
「そうして先生はすべてのことを成したことになります。」
「三代祝福圏を越えてそれが可能であって、」
「孫が2つの国の王の愛を受けることのできる赤ん坊として生まれることによって」
「その愛を受ける三代は、そのまま地上で完全な種として出てくるのです。」
「三代圏をもたなければ、開放的な種になることはできません。」


 の部分に特に強い関心をもっています。

 実は、今回の内容は、ここまでで半分くらいです。このまま続けると長くなりますので、今回はここで“To be continued”とさせていただきます。

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