11.後継者
今回は、「文先生の後継者」というテーマに触れてみたいと思います。
文先生が聖和された今、その後継者となる方が現われて、人類救済に責任をもって下さるとしたら希望です。そう考えるのは、文先生に対する背信でしょうか。
では、まず、御言です。
「皆さんは今は教会の祝福を受けましたが、国の祝福、世界の祝福をすべて終えてから、その次にはそうすることができる(完全に自由にすることができる)時代に入ります。しかし、中心においては、先生の家庭においては神に対する伝統を受け継ぐ後孫、中心家庭――直系を受け継ぐ一中心があると思います。その中心一人だけいれば、その一人を中心として一つになることによって、すべてが上へと上っていくことができます。そうして先生はすべてのことを成したことになります。その時は中心を中心として先生の後孫たちも一つになります。(荒野)時代に皆さんが一つになるのと同じように、三代祝福圏を越えてそれが可能であって、それ以前においては絶対的に先生一代を中心としてそのような運動をしなければなりません。」
(御旨と世界 P943 「私を中心とした父母と子女と万物世界」 )
「皆さんが受けた祝福は国の祝福ですか、統一教会の祝福ですか?(統一教会です)。これから国の祝福を受けるとき、皆さんが良心的に妻と夫と子供の報告を書いて、条件に合格して、再び(国家的)祝福を受けることができます。それに合格できなければ参加できません。・・・・
その次は世界時代において祝福を受けるとすれば、皆さんは身内(族属)となるでしょう。そこに合格して初めて、天国に入ることの入籍が始まります。何の話か分かりますか。その時までは、先生の家庭と完全に一つにならなければなりません。
その時が過ぎれば、先生の後継者が一人立ちます。世界が一つになり、先生の家族が一つになり、全部が一族圏にならなければなりません。そして先生の家庭においてもすべてを集めて会議をし、この原則に誰が一致したかを公的な会議によって決定します。(略)
その人が決定されたのちには、世界は法的時代に入ります。天法、神の憲法時代に入っていくので、いくら神に近い人でも、法にかかれば、法的処理として処罰を受けなければなりません。その法にかからない後継者を探して永遠に続くのです。分かりましたか?(はい)」
(御旨と世界 P945 「私を中心とした父母と子女と万物世界」 )
どうでしょうか? やがて後継者が立つこと自体は間違いないようです。
そして、その方を中心として
「すべてが上へと上っていく」
ありますし、また、
「三代祝福圏を越えてそれが可能であって、」
とも言っておられます。
では、次です。
「堕落した人間の前には復帰の過程が残されているので、その過程を父母になり得る人が全部修めなければなりません。その次にはこのような過程を、ある中心家庭が現れ、世界を代表して修めてくれなくては、皆さんが神様の前に帰っていく道がないのです。だから、皆さんは公式路程を経ていかなければなりません。公式だけ知って、そのまま行えば解かれるのです。」 (祝福家庭と理想天国Ⅰ P956 「完成のための公式路程」)
いかがでしょうか。
ここで、この御言の中の「父母になり得る人」と「ある中心家庭」は、同一の方を指すのでしょうか、それとも異なる方を指すのでしょうか。
私は、「その次には」とありますから、素直に受け取って、別だと考えています。また、今回の最初の御言にも「中心家庭」という言葉がありましたが、文先生が同じ定義(「中心家庭――直系を受け継ぐ一中心」)でこの言葉を使っておられると仮定すると、「中心家庭=後継者」ということになると思います。
そして、前者の「父母になり得る人」とはほかならぬ真のご父母様のことで、堕落した人間の前にある復帰の過程を全部修めてくださった方、となるのではないでしょうか。
まとめてみますと、
真のご父母様の後に、「ある中心家庭」が現われる
その「ある中心家庭」が現われないと、私達が「神様の前に帰っていく道がない」
その中心家庭を中心として「すべてが上へと上っていく」
となるようです。
ここで、「すべてが上へと上っていく」というのは、ただ単に、今より良くなることを言っておられるのでしょうか?
「~を中心として上っていく」というと、私には、成長期間の完成期、または縦的8段階がイメージされてきます。
さらに、この「神様の前に帰っていく道」を示してくださる方、あるいはもたらしてくださる方、その方を中心として「すべてが上へと上っていく」といえば、どうしても私にはある言葉が浮かんでしまいます。
「メシア」。
「堕落人間出身の完成人間」はまだいないように見受けられます。私が知らないだけで、おられたらそれは希望です。いないとしたら、そのみ旨を成すために、「誰か」が来られるかもしれない、と考える人たちが出てくるのは無理もないことだと思います。
ましてや、そう期待できるような御言があればなおさらです。
そしてこのような議論は、歴史上かつてもありました。「来る」とした人々と、それを否定し「もう救いは完成しているから来ない」とした人々。
歴史は、どちらに軍配を上げたでしょうか。
私は、「来るかもしれない」という疑問があることに対し、情的に反発するのではなく、それを尊重し、御言を根拠にしながら取り組んでいきたいと思っています。
私自身は、最初は「ありえない」と思いましたが、さまざまな状況を見ると、むしろ「誰か」が来て欲しい、と願う期待感の方が強くなっています。
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