9. 「心と体の闘い」 | 御言 missing link

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9. 「心と体の闘い」

 先回は、「為に生きる」ということとその裏返しといえる「自己中心」ということをテーマにしました。
 もう一つ、「心と体の統一」ということも、文先生が強調してこられたことの一つとして重要だと思います。今回は、そのことについて考えてみたいと思います。
 まずは、関連する御言です。

「皆さんは、心と体が闘っているでしょう。(『はい』)この闘いが存在する世界には、神様がいることができません。 (祝福家庭18号 P43 第1次入籍のための祝福家庭婦人特別修練会)

「ですから私たち個人を中心としてみるとき、心と体が闘っています。復帰された人は心と体が一つになっています。皆さん自身を見るとき、心と体が一つになることができないのです。 (ファミリー97年3月号 P11 第14回愛勝日のみ言)

歴史上の聖賢たちの中で『私は人類歴史において、人間たちを代表して、体と心が闘わず完全に統一を成したので、私を見習え』と言う人がいましたか? 学校の教育で見れば、倫理生活について責任を持たれた教授たちも多いのに、何が重要かというのです。
 体が重要か、心が重要か? 心も重要で、体も重要です。もっと重要なことは、私の体と心の統一圏です。それが重要なことです。それがだめな人は、いくら世界が統一されたとしても間違った人です。」
 (真の父母 P37)

 いかがでしょうか。

私達は心と体が闘っていて、統一することができない
それは、歴史上の聖賢たちといえどもできなかった
私達の世界に神様はいることはできない

 といっておられます。そして、
  
心と体の統一は重要なことで
復帰された人は心と体が一つになっている

 とも言っておられます。
 さらに、次の御言を読んでみてください。

「しかし、皆さんが神様の血統を受けられなかったという証拠が何かと言えば、心と体が闘っているというということです。心と体が闘わない人、手を挙げてください。一人もいませんね! それが神様の息子ですか。神様と関係のない人です。深刻な問題です。
 この戦争はアダム・エバから始まって今日まで続き、今から皆さんの息子・娘に引き継いで、数千万年、この闘いが続き得る可能圏に立っているということを知らなければなりません! 
 この戦争! 休戦をしたことがあるでしょうか。この戦争を休戦して、停戦してみましたか? 皆さんの心と体が停戦しましたか? (「停戦しませんでした」)。停戦したという人、手を挙げてください。そのような者たちがつくる世界の平和や幸福というものはあり得ません。絶望です。世界が絶望であり、破壊です。
 自分の心と体の戦争、この戦争をやめさせ、戦争を停戦させることのできる主人がいたならば、自分が千年万年、僕になったとしても、その道を求めて行こうと叫ぶ人がいなければなりません。それゆえ神様が、メシア、救世主という方を送るのです。このような闘いを停止させるためにこられるかたが、メシアであるということを知らなければなりません。何をもってですか? 銃や剣をもってですか? (「違います」)。真理をもってです。何の真理ですか? 真の愛の真理です。偽りの愛で分けておいたものを一つにするためには、体を押さえつけて、それを越えていける力を持った、真の愛の真理でなければなりません。」
(ファミリー98年1月 P13)

 いかがでしょうか。

この心と体が闘っている状態は、神様の血統を受けられなかった証拠である
神様と関係がない
この心と体の戦いをやめさせることのできる主人が、メシア、救世主である

 と言っておられます。
 ここで一つ疑問があります。私達の認識では、

歴史上の聖賢といえども解決することができない
本然の人間にはない
それを解決しなければ、数千万年も、その闘いが続く可能性がある
そしてそれを解決するために来られる方がメシアである

 ということになると、一つの言葉が浮かんでくるように思うのですが、皆さんはどうでしょうか。

「原罪」ですね。

 先回の記事で確認した「自己中心」、今回の「心と体の闘い」、そして「原罪」。私には、文先生が御言を通して指し示しておられる方向が同じように思えてきます。
 これについて、「原罪がすべて罪の根なのだから当たり前だ」という方もいるでしょうし、「間違っている」という方もいるかもしれません。
 私もここで、「原罪=自己中心=心と体の闘争」だと言い切る確信はありません。
 ですが、もし、これまでの信仰生活をもってしても、いまだ、自己中心や心と体の闘争の解決に近づけていないということであれば、ここは一考の余地があるように思います。
 私達は「原罪」や「自己中心をはじめとする堕落性本性」および「心と体の闘い」に関して、それらを互いに区別してとらえなければいけない、特に「原罪」は特別視しないといけない、と考えてきたのではないでしょうか。
 聖書の中には「原罪」と言う言葉はないようです。「原罪」はキリスト教神学が創った言葉のようです。
 そして、文先生は、キリスト教を取り戻すためにキリスト教神学の上に乗り、「原罪」とうテーマに決着を付けたと考えることはできないでしょうか。
 現に、文先生の御言も、特に2000年以降、原罪という言葉が少なくなり、「血統」や「心と体の統一」という言葉の方が多く使われているように思います。このことは、2001年の真の神の日に「2000年のキリスト教歴史が終わった」と祈られたことにも関連しているように思います。

「愛する天のお父様、たった今、キリスト教歴史2000年を終え、3000年に向かって出発する2001年の新しい年を迎えました。」(ファミリー01年2月 P6 第34回「真の神の日」午前零時の御言)

「原罪」だけを特別視することが、「自己中心をはじめとする堕落性本性」および「心と体の闘い」の解決に近づけない一因ということはないでしょうか?
「原罪」という言葉の文字の奴隷になっているということはないでしょうか?
 いずれにしても、上の御言によれば、この「心と体の闘い」はメシアと無関係に、自力解決することは難しいようなのですが、ただ、解決するための方向性として、次のような御言があります。

「統一教会の食口は、これからは、心と体を中心として見る時、いつも公的な思想の前においては、心の基準の前に、体は完全に一つにならなければならない。これが問題である。それがなされていないのである。心で願うその目的を中心として、体はいつも動揺することなく、一つにならなければならない。いかに難しい環境だとしても、その難しい環境を中心としての目標は、心と体を中心とした目標と変わりがない。先生はいくら悲惨な立場におかれたとしても、その悲惨な立場を克服してきたし、そのような思想をもって成してきたのである。そこには少しの動揺もなかった。
 それと同じく、皆様は、心を中心として神のみ旨、神の摂理世界、神の創造理想、そういったことを中心として、体はどんな犠牲を払ったとしても、一致化させるのに、喜んで甘受できるこのような人にならなければいけない。ここには讒訴はない。これに反する時、必ず病気になるか蕩減を受けるようになる。だから心を中心として体が一つにならなければならない。」
 (み旨と世界 P488 「統一式のみことば」)

 最初の部分に、
「いつも公的な思想の前においては、心の基準の前に、体は完全に一つにならなければならない。」
 とあるように、「公的な思想の前において」ということですから、
言い方を変えれば「為に生きる」という方向性で、体を一つにしていこうと努力することが、大切なのだろうと思います。
 漠然と「自己主管」を心のうちで唱え、いたずらに自らに「戒め」を課そうとしても難しいのかもしれません。
 そして、文先生が「君達は、心と体が統一できない」と何度も言われたのは、「いつになったら統一できるんだ!」と責めているというよりも、
「このような闘いを停止させるためにこられるかたが、メシアであるということを知らなければなりません。」

 とあるように、そのために必要なことに早く気づきなさいと言っておられるように思えます。

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