8.「自己中心」VS「為に生きる」 | 御言 missing link

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8.「自己中心」VS「為に生きる」
 
 文先生が強調されてきた内容の一つに、「為に生きる」ということがありますが、それは今更、私が言うまでもないことだと思います。

 これは、なかなか身につきませんね。特に宗教は、
  「自分の信じる世界に引き込むこと」=「本当の意味で為に生きること」
 と確信していますから、私はそこに厄介さが潜んでいるように感じています。

 先回の記事の中で確認したように、私達はあまり、「御旨意識」をもって生きてはきませんでした。
 そして、
「どのように個人完成するのかわからずにいるのです」
 (ファミリー 01年11月 P45)
 という御言の通りの状態だと思います。
 
 今回は、「為に生きる」という内容と、その裏返しといえる「自己中心」ということについて考えてみたいと思います。
 どちらも、そのまま一般社会で使われている、少なくとも通用する言葉のためか、それを文先生が強調されても、かえって、それについて深く考えることはあまりなかったのではないでしょうか。

 では、御言です。

「堕落によって人間は、どのような病気になってしまったのでしょうか。堕落人間の病気とは『愛の病気』です。すなわちサタンを中心とした愛によって、サタンの虜となり、サタンの血統を受け継ぐことになってしまったことが、堕落人間の病気なのです。言い換えれば、堕落の結果すべての人間は、サタンの血統をもった、サタンの子として生まれるようになってしまったということです。
 では、この『愛の病気』は、どのようにして始まったのでしょうか。この病気の始まりは、そもそも自己中心の思いによってもたらされました。自己中心こそが堕落の動機となったのであります。自分を中心として考え、自分を中心として愛を求めようとしたことによって、堕落がもたらされたのです。
 自己中心の愛が堕落をもたらしたのですから、復帰するためには、神を中心とした愛、すなわち自己中心でない愛を求めなければなりません。エデンの園においてアダムとエバと天使長が、自己中心ではなく、神を中心として愛し合ったならば、堕落はあり得なかったことでしょう。この地上で自己中心でない愛、神を中心とした愛をもって、互いに愛の関係を築いた人々が最後に行くところが天国です。これが神のみ言たる原理の基本の基本であります。」
 (み旨と世界 P550 歴史的父母の日)

 どうでしょうか。
「自己中心こそが堕落の動機となったのであります」
「自己中心の愛が堕落をもたらした」

 と語っておられます。

 では、次の御言です。

「アダムとエバの堕落以後、人間がかかった病気は何ですか。サタンを中心として愛の病にかかり、間違ったその愛の病によってサタンの血統を繁殖してきたのです。言い換えれば、サタンの血統を受け、サタンの直系の子女として生まれたことが病気だというのです。
 ところで、その愛の病はどのようにして出発したのでしょうか。自分だけを中心として、自分だけを考えるところから出発したというのです。神様が立てた秩序と天地の道理、環境などすべてを否定し、自分を中心として愛したところから堕落の病が生まれ出たというのです。それゆえに、この病を治そうとすれば、自分を否定して神様だけを絶対的に中心として生きなければならないのです。天使長やアダムとエバが神様を中心とした愛を願ったならば、堕落しないで理想世界を築いたことでしょう。」
 (祝福家庭と理想天国Ⅰ P773 祝福の意義と価値)

 ここにも、同様の表現として
「自分だけを中心として、自分だけを考えるところから出発した」
「自分を中心として愛したところから堕落の病が生まれ出た」

 と語られています。

 さらに、次の御言です。

「では、悪とは何でありましょうか? 悪とは、この世界への利己心の顕現であります。神の利他的な与える原理は、神ならぬ利己的な奪う原理へとゆがめられてしまったのです。仕えるよりも仕えられることを望む邪悪な立場が、その時から打ち立てられたのです。悪の根源はサタンであります。彼は神に仕えるべき立場におりました。しかし、彼は、もう一つの神のような態度をとり、人間を自分自身の利益のために従属させたのです。神は、この宇宙における絶対的なプラスの力であります。そして、サタンもまた、もう一つのプラスの力をとろうとするのです。二つのプラスは、互いに反発し合うものです。サタンは、堕落した天使長であり、神と人間に対する忠実な僕としての立場を離れて、神に挑戦し、神と競争したのです。彼の動機は利己心でありました。彼の利己心から悪と罪の源が出てきたのです。
 事の次第はこうでありました。つまり、エバはサタンの最初の犠牲となり、自分自身を利己的な存在へと変身させて、神の最初の娘としての位置から落ちてしまったのです。そして、エバとサタンは一緒になって、首尾よく、アダムを彼らの利己的な世界へ引き込むことに成功したのでした。この悲劇的出来事により、神は、エデンの園において、人間から孤立させられてしまったのです。かくして、人類歴史は、神のいない、悪なる立場から出発したのでありました。人間の悪なる歴史の土台は据えられ、サタンはこの世の支配者となったのです。利己心は、人類歴史の出発において存在するようになり、そして今や世界は、殺人と虚偽と盗みとに満ちているのです。罪悪世界におけるこれらすべての行為は、利己心から起こってくるのであります。悪は、自己自身の利益ために他を支配するものであり、善は、他の利益のために自己自身を犠牲にするものであります。」
(み旨と世界 P266 人間に対する神の希望)

「堕落は、神様を中心としてアダムとエバが一つにならなければならないのに、神様の僕である天使長と一つになったことをいいます。神様の血統を受け継がなければならない人間が僕の血を受け継いだことです。ですから堕落した人間がいくら神様を『父』と呼んでも実感がわかないのです。これは神様であろうと何であろうと関係なく、すべてを自己中心にだけ連結させて考える堕落性本姓が遺伝したからです。
(祝福家庭と理想天国Ⅰ P439 創造本然の男女の愛)

 ここには、
「彼の利己心から悪と罪の源が出てきた」
 とあります。(ここでは「利己心」という言葉が使われていますが、「自己中心」と同義ととらえていいと思います。)

 そして、その結果、
「神は、エデンの園において、人間から孤立させられてしまったのです。」
「すべてを自己中心にだけ連結させて考える堕落性本姓が遺伝した」
「今や世界は、殺人と虚偽と盗みとに満ちているのです。」

 とあります。

 神様のことを誰よりもよく知っておられ、誰よりも愛された文先生ですから、その神様を孤立させた一番の原因が「自己中心」であり、そして、そこから「悪と罪の源が出てきた」のであれば、文先生はこの「自己中心」を一番の本質的な恩讐と見ておられたかもしれません。

 では、さらに、次の御言です。私達がどうすべきかということについて、少し触れておられます。

「皆さんは、愛を受けよう、人に何かをしてもらおうと思うでしょう? 堕落したので、それは不可避なことです。堕落していなければ、神様に似たので、為に生きようという愛になるのです。」 (ファミリー2007年12月 P23 平和のメッセージ13「神様のみ旨から見た環太時洋時代の史観」解説 2007.9.23 ニューヨーク・マンハッタンセンター)

「今、皆さんが怨讐として対すべきものとは何でしょうか。それは、皆さんに与えられた物質を自分だけのためのものだと考える、邪心です。ですから、皆さんは、自分にひとかけらのパンがあれば、それを万人に分け合って食べることを願われる、神様の心を身代わりできなければなりません。食べる物があれば、それを食べる以前に、家庭のために与えることのできる心にならなければならず、社会、民族、国家、世界人類のために与えることのできる心をもたなければなりません。
 このような心を所有してこそ、人間は、正常な過程を経て完成できるのですが、今日、大部分の人たちは、これを忘却したまま生きています。これを皆さんは残念に思わなければならず、またそれが堕落の立場であることを知らなければなりません。
 (神様の祖国と双合七八禧年祝福を勝利しよう P42、御言選集 3 P127 1957.10.13)

 さて、驚くことに、御言の中には「神様も自己中心だった」というものがあります。

「我々人間のすべての特質は、神から来ているのであります。我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。」 (「御旨と世界」 P262 人間に対する神の希望)

 この自己中心とは「喜びを得たい」という創造の動機を指しているのでしょうか。
「喜びを得たい」という創造の動機だけをみれば、自己中心のように感じられますが、そもそも、創造以前、お一人でおられた神様にとって、その段階では、自己も他もなく、唯一なのですから、「自己中心」も「為に生きる」も一つだったと思います(ここは神学的議論が必要かもしれませんが)。
 それが神様の創造の御業を経て、被造物そして人間が現われれば、そこには、自己と他の明確な区別が生じます。そのときに神様が心配されたのは、愛が未熟な段階において、その愛の向かう先が「自己」なのか「他」なのかということだったのではないでしょうか。「とって食べるなと」いう戒めには「為に生きることの確立」ということも願いとしてあったのではないかと思います。
 ところが、神様の期待に反して、人間の愛は「自己」に向かってしまった。ここに神様の言うに言えない、苦痛の根があるように思います。
 文先生が、「自己中心」、「為に生きる」を強調されてきた背景には、単なる私たちの行動の指針としての意味以上に、神様の恨を解くという深い内容があったのだと思います。

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