われわれは、誰かが、すべてを知っているだろう、と、思い込んでいる、すなわち、それが、誰か、は、知らないが、誰かが、全体を知っている、であろう、こと、を、あてにしている。
すべて‐全体を知っている者、こそ、真の主体性、であり、その究極の者、に形を与える、幻影、は、結局、神、という、超越的主体性、である。
しかるに、最終的には、神(全知)を想定している、ことが、まさに、すべて‐全体、は、正体不明、である、ことを、告げている。
われわれは、神の代理人を、僭称する(気取る)、下っ端エリート(主体性)にしか、出会わず、そうした、卑小な代理人を通じて、しか、全体(不完全な全体)を見ることができない。
歴史とは、見えない全体(世界)、との、格闘、の記録、に他ならず、その過程は、神(全知)に、到達するための、過程(道程)である、とされる。
こうして、われわれ主体‐自己は、滑稽な存在(卑小な仮象)、であり、それは、全体性(主体性)、と、個別性(自己性)、との、二重化‐ずれ、として、ある、が、全体も、個も、何であるか、よくわからない、のである。
こうした、主体‐自己に、一貫した、人格‐性格、など、ある、わけがなく、それでも、人格‐性格(心理的なアイデンティティ)を持つ、とされる、われわれ‐自我(主体‐自己)が、一貫した因果関係の世界‐日常的現実、を、持ちうる、のは、それらが、物語(一貫した同一性のイメージ)、としてある、から、である。
しかし、主体‐自己、が、相対立しつつ、共存している、ように、主体‐自己の、世界‐物語、も、その反映である、から、世界の全体は、論理(主体性)、と、影響(自己性)、の二重構造、を持つ。
世界‐全体、が、曖昧、なのであり、すなわち、われわれは、絶対的な主体性‐論理、の、極‐神、を、知り得ない、のである、から、その、不可視の点(完全な主体性の点)、に対する、もう一つの点、である、われわれ(影響‐自己性)、は、アプリオリに、有罪、であり、つまり、全体がわからない、以上、無罪を証明する術がない、どころか、真の無罪が、何であるかすら、知らず、完全な潔白が、あり得ない、という状態(罪‐不完全)、なのである。
もちろん、このことは、逆に、真の有罪もあり得ない、ということ、である、が、事態(有罪の可能性、の疑いを、晴らせない)は、同じまま、である。
よって、われわれ(主体‐自己)は、この、曖昧な身分(自己懐疑に、陥る‐苛まれる、存在様態)、として、宙吊りにされ、その、永遠の引き延ばし、において、無限延期される、無罪‐自由(もしくは、有罪)、の判決(最後の審判)、を、待ちわびる、のである。
要するに、われわれは、自らの、見せかけの無罪(自己申告の無罪)、を信じて、救済(真理への到達)を、目指す、のである。
カフカの小説(悪夢)のように、理由もわからず、ある日、突然、無自覚のうちに、自分が、訴訟に巻き込まれている、ことに、気づき、ひとたび、そうなると、訴訟そのものが、世界‐現実(人生)、となって、それ以外に、生きる場所(存在の形態)、が、なくなる、のである。
小説でなくとも、現にある(大いにありうる)、冤罪‐無実の罪、に巻き込まれた人の、運命‐悪夢、を思い出せば、事足りる。通常、誰もがそうである、ように、自分の無罪を証明する手立てが、何もない、場合、われわれは、不審の目の中で、途方にくれる。
したがって、生きること、が、訴訟、に所属する、ということであり、とうことは、無罪‐救済、を目指す、こと、であり、日常そのものが‐生きることそのものが、見せかけの無罪を、暫定的に堆積させる、こと、であり、その持続‐引き延ばし、の繰り返し、なのである。
といっても‐とはいえ、そのような、訴訟状態である、ということは、われわれと対立し、われわれを支配する、もう一つの論理(不可視の論理)、が、ある、ということ(の証拠)、であり、すなわち、それが、神(もう一つの論理)の存在証明、となる、のである(デカルトの神の存在証明とは、まさに、こうしたもの、であり、すなわち、常に、懐疑に陥る理性、のはたらき、は、神が存在することの証明である、とした)。
部分(個)、は、全体、との関係、において、ある(決定される)、のである、から、見えないもの(全体‐論理)、との関係、によって、可変的であり、変形する、ということ、である。しかるに、単純そうに見える、事件‐現象‐存在、であっても、それ(個別の事象)を、見えない全体‐論理、との関係、によって、とらえようと‐とらえ直そうと、し始める、と、それ(個別の事象)は、多様化‐重層化、する。
つまり、同様のことであるが、われわれは、自己の内部で、主体‐自己として、対立‐分裂、し、常に、変形し、多様化‐重層化、する、ということ、であり、自己同一性の見かけは、単なる、物語に、すぎない、ということ、である。
だから、われわれは、始終、自分に確信が持てず、いつ、有罪である(あなたは、間違っている)、と、宣告されるか、わからない、という、不安‐心配‐妄想(被害妄想)に怯え、その可能性に、びくびくしている。たとえば、警官に、話しかけられる、だけで、何もしていないのに、後ろめたいような気になり、どぎまぎし、おどおどしてしまう、のである。
そこに、冤罪を受け容れてしまう‐暗示にかかってしまう、余地‐弱さ、があり、有罪を押しつける者は、そこに、つけ込んでくる。
そして、だからこそ、すなわち、主体‐自己の実存が、不確定‐不安定、である、からこそ、われわれは、物語‐正当性の物語(確固たる同一性)、に、しがみつく(逃避する‐非難する)、のである。
物語は、われわれには見えないもの、を、イメージ化し‐内面化し、そうして、想像的に‐幻想的に、先取りする(偶像崇拝)、のである、が、そうすることによって、無罪を、決め込む(自己完結の円環を閉じようとする)、罪(有罪の忘却、という、罪)、であり、しかるに、物語の盲信は、超克(懐疑)という、スタンスを、失う、自堕落への傾斜、なのである。
自己の閉じた円環‐無罪の物語、を、破壊する、もの、こそ、われわれ(の論理)とは、独立した、別の、見えない論理(倫理)、なのである。
物語体系‐論理、と、見えない体系‐論理、とが、共存し、かつ、互いに、矛盾し、対立し、否定し合っている、から、こそ、主体‐自己、という自己意識(二重体)が、可能、なのであり、その、二重体の、緊張、を失えば、すなわち、物語への安住‐盲信に、汲々とする、ことに、埋没すれば、われわれは、単なる、自我の形骸化(みすぼらしい、心理的‐物語的自我)、へと退化し、動物的な生(快楽主義的な、生きるために生きる、だけの、生)、への、痴呆化(最後の人間‐末人、化)、によって、結局は、自己意識そのもの、を、見失う、ことになる。
われわれは、正体不明の、形も、大きさも、わからない、目に見えない、もう一つの焦点なのでもある(らしい)、ということ、なのであり、それこそが、主体化(自由‐狂気)、なのである。
この不確実‐不確定性、の、滑稽‐恐怖、を、忘却すること、が、物語(焦点の単一化)、である。
この、滑稽な‐怖ろしげな、二重関係が、いかに、不安であっても、不快であっても、忌まわしいものであっても、自分と対立するもの(他者性)、から、離れられない、ことが、自己意識(主体‐自己)、なのである。
それを、回避し、人間的な、あまりに人間的な、焦点‐物語、へと、収縮し、心理‐性格、としての、のみ、人間‐自我、を描き、日常的な(単純な)因果関係のみを、世界‐現実、として、思い描く、物語、というもの、は、それ自体、ある種の、忠実さ、ではあっても、開かれようが、ない、閉域(同一性への、引きこもり)、なのである。
そのような、人間中心主義的な物語(閉域‐閉塞)、を、無視する、何かが、われわれの、知性‐感覚を、的確に、撃つ、ことで、主体化を、作動させ、こちらの知性‐感覚(論理‐焦点)、が、外部に、のり出していく時(すなわち、自分‐物語を見失う時)、まさに、それこそが、隠れた全体性(もう一つの論理‐焦点)、を、見せる、ことになる、のである。
ある日、突然、そうした事件が、発生する。しかし、誰一人、その原因を、考えよう、とはしない。その結果、事件だけが、どんどん先へ先へと、進行していく。
この、事件(主体化)、に対して、なぜ、という、問い、ほど、無意味なものは、ない、のである。
二つの論理‐焦点、の、ずれ‐戦い、の構図、のもどかしさ、こそ、自己意識のメカニズム、であり、歴史とは、ある中心(物語‐価値観の同一性)、が、別の、中心(物語‐価値観の同一性)、に、とって代わられる、時間の経過、ではあるが、それ自体、異なる、二つの論理‐焦点が、対立しながら、同時に、関係し合う、から、こそ、起こりうる、こと、なのである。
生きることは、自己を否定する、不可視性‐他者性(もう一つの、論理‐焦点)、との、対立‐共存、なのである、が、その構造(差異)を、物語は、具体的な‐可視的な、他人と、共存する、内面的な物語‐同一性(人間中心主義)、へと、回収していく(読み替えていく)、のである。
