私は、柳美里という人物-作家について、よく知らない、し、小説を読む習慣-趣味もない、ので、その著作も読んだことがない。
すなわち、特に関心もなく、柳美里について語る言葉を、まったく持たない、のである、が、たまたま見た、柳美里の息子に対する虐待、がテーマのテレビ番組(5月15日の夜9時にやっていたNHKスペシャル、なのだと思うが)についての感想(についてのみ)、を、ここに書こう、と思う。
私は、児童虐待について、特に興味-関心がある、わけでもない。たまたま、点いていたテレビが放映していた、このテレビ番組を、たまたま、そこに居合わせたので、見るともなしに、何となく見ていた、特に関心を持ったわけでもない、が、しかし、いくらか気になることがあった、ので、それを、ここに書きとめておこう、思う、のである、このテレビ番組の内容は、児童虐待が、テーマである、はずである、が、私には、そのテーマは、後景へと後退し、もっと別のことが、あらわれている、ように、見えた。
柳美里は、自分(の精神構造)が何であるのか、よくわからない、者、であるように、振る舞っている、が、実際には、柳美里が、すべてをコントロールしている、かのようであった。
すなわち、強く感じられる、のは、柳美里のうちに、秘められた、強い怒り(不満-痛み-不安)、であり、行なわれていること、は、柳美里の両親(長い間、柳美里と音信普通のままの、離婚した、両親)への復讐、である。
怒り、を、一方的に訴えた-表現した、だけでは、それは、相手には、伝わらない。相手に、自らの罪、を、自白-白状、させなければ、ならない。
立会い-仲介役の、心理カウンセラー(児童虐待の専門家)、は、あたかも、懺悔(自白-告白)、を、引き出す、聖職者のよう、な、役割を、演じさせられており、NHK-テレビカメラは、それを記録する。
テレビカメラの前に呼び出された、母は、娘の復讐をすぐに察知した、かのごとく、自らを呼び出した、心理カウンセラーの前で、不快な表情(あるいは、不敵な表情)を浮かべ、その対話(告白の要請)を断った、あと、二度とあらわれない。
母と娘との、かつての確執、は、明らかであり、自分と同様に、気位の高い、娘の柳美里が、自分に、歯向かい、復讐する者、である、ことを、すでに、幼少時から十代の頃(柳美里は、十五歳で、家出している、らしい)に、予見した、のであろう。母は、母で、柳美里に対する、怒りを持っている(いた)、ように見える。
テレビカメラの前に呼び出された、父は、無防備に、柳美里(と、心理カウンセラー、と、テレビカメラ)の前に、身(年老いた姿)を晒し、「何か、人生に、後悔はないのか」と、柳美里に詰め寄られ、自分の、過去、生い立ち、コンプレックス、弱さ、の、自白を、強要される。
明らかに、柳美里は、周到に、両親の、その口から、反省の、詫びの、後悔の、言葉が出るように、仕向けている。
柳美里が、自らの息子を虐待する(児童虐待は、親子間で、連鎖する、というのが、番組のテーマ-主旨、である)、のも、あたかも、そのための(復讐のため)、手段でさえ、ある、かのようである(息子のことについては、むしろ、あまり語られない)。夫への復讐、のために、我が子を殺害する、王女メディア、さながらに(余談であるが、柳美里は、実に、エキセントリックな-傲然とした、女王然としている)。
復讐は、そもそも、人間的な行為(人間味のある行為)、であり、人間への、奇妙な愛情でもある、わけである、が、小説家は、普遍性の名のもとに、それを行なう、者、でもある、のであろう。
柳美里は、以前に、自らの作品(小説)中で、友人-知り合いを、断罪し、その友人-知り合いに、名誉毀損、で、訴えられている、が、柳美里は、普遍性の名のもとに、作品は、正当化される、と、主張し、自らの行為を、正当化している。
柳美里は、普遍性の名のもとに、両親に、その罪深さ、を、告白-自白-自覚、させよう、とする、したたかな、ひどく頭のよい、怒れる女王、なのである。
柳美里が、そのことに、自覚的-意識的、なのか、無意識的、なのかは、どうでもいこと、である。どのみち、そうしたことは、わからないまま、なのであるから。しかし、行為は、そこに、露呈している。
NHKも心理カウンセラーも、柳美里に、動かされ、のせられている、かのようだ。すべては、柳美里のシナリオ-作品、であり、両親は、公衆の-世間の(テレビカメラの)面前で、自らの罪深さ、を、自ら、述懐しなければ、ならない、という、辱め、を受ける、のである。
柳美里は、かつて、子供の頃に、父に殴られて、鼻の骨をへし折られた、と言う。その恨み、は、大きい、のである。
こうして、虐待の話は、復讐譚へと、変貌する、のである。
そもそも、もし、我が子が、芸術家肌-革命家肌、である場合、親は、そういった気質の子供(反抗的な子供)、を、しつけ、と称して、きびしく、教育-虐待、しないだろうか。
柳美里の母は、「こんな子供を、産まなければよかった」、と、かつて、娘に対して、言ったことがある、という(そうした、言葉の暴力、だけでも、虐待、である)。
国(親)は、国民(子)が、極端な危険気質-危険思想、である場合(赤軍派やオウム教、などを、思い出そう)、国(普遍性)の名のもとに、それを、取締り、弾圧する。見ようによっては、それは、児童虐待、と、同じケース、である。親が、自分にとっては、不穏、に思える、我が子を、しつける-虐待する、のであるから、親にとっては、親の論理(支配者の論理)から見れば、そうした教育行為は、正当な行為、である、ということになる(たいていの、児童虐待を、親は、しつけである、と称している)。
以前に、東大卒の父親が、家庭内暴力を振るう、暴れる息子を、殺害した、事件があった、が、それに対する世間の評価はともかく、こうした、広い意味での虐待は、当の父親、にとっては、正当な行為-判断、と思われた、のであろう。
柳美里は、自分が、子供の頃に受けた、暴力(心理カウンセラーは、それを、虐待、と言う)、は、自分が、悪い、から、だ、と、思い込んでいる、ようである、が、現に、そうなのだ(彼女が悪い子なのだ)、としたら、どうだろう。
しかし、柳美里の、すなわち、小説家として成功した柳美里の、その後の視点(論点)、から、とらえ返せば、両親の暴力行為は、遡及的に、罪-悪、と、見做される。
その当時の視点、と、現在の視点、とには、ギャップ、がある。もし、柳美里が、成功していなければ、こうした断罪、は、ありうる、のであろうか。
ひとたび、革命が起きれば、以前には正当(常識-良識)であったこと、も、遡及的に、罪-悪、になる。
儒教的な、封建制度、も、西洋的な民主主義-人権、の視点からとらえ返せば、悪(虐待)、になる。
復讐とは、かつては、虐げられた者-抑圧された者、である、新しい支配者-主人-親、が、かつての、古い支配者-主人-親、と、交代する、こと、であり、その時点で、後ろ向きに、圧殺された過去に、新しい意味-解釈を、付与する、のである。
突然、まことに勝手ながら、論考を続ける予定(意志)はある、のですが、しばらくの間、個人的な諸事情(集中力や時間的余裕の欠落、など)、により、本ブログ-本論は、お休み‐中断、させていただきます。
再開の予定は、白紙の状態です(再開の折には、この記事は、削除します)。