福島第一原発の事故(2011・3・11)を見ていて、よくわかること、は、英知-人間の知恵、とは、永久機関の夢、である、ということ、である(古来、永久機関は、人類の夢、である)。
永久機関(同一性-閉じた自己完結的システム-循環する閉回路)は、しかし、夢(ユートピア-天国)であり、現実には、必ず、その、破れ目、がある。
まさに、今回の事故がそうであるが、そもそも、われわれ自身が、破れ目-主体化、である、ことが、永久機関(同一性-閉じた自己完結的システム-循環する閉回路)の条件である、から、破れ目は、必然的、なのである。
事故以前にも、もともと、放射性廃棄物が、システム-サイクルの破れ目として、過剰であり、自己完結していない。
永久機関は、常に、見かけ、であり、局所的-部分的-過渡的にしか、うまくいかない、とすれば、それを求めること、は、はじめから、エゴイズムである。
資本主義(自給自足的な-永久機関的な、共同体の破れ目-共同体間、こそが、資本主義である)は、まさに、そうしたエゴイズムであり、ある局所-部分(すなわち、特定の地域、都市、国家)、でだけ、功利的な循環システム(調和世界)が、うまく機能する、が、そのための、破れ目(犠牲-不都合-不具合)は、他所(貧しい地域、田舎、地方、あるいは、未来)へ、まわされる-押しつけられる(首都圏の電力確保-補給のために、まさに、現に、福島県-福島県民が、犠牲になっている)。
永久機関の夢、の、信奉者-信仰者、それが、うまく機能しない、時、その本体の信仰(永久機関の夢)、の威信、を守るために、必ず、それ(不都合-不具合)を、何かの-誰かの、せいにする(天災の、政府の、東電の、一部の悪意の・・・)、が、もともと、そうした諸原因をも含め、破れ目は、不可避的-必然的、なのである(地球温暖化、文明の副産物としての公害、貧富の格差の増大、人口爆発による飢饉、なども、そうした、文明-同一性の破れ目、である)。
こうして、永久機関の夢は、差別を、二重に、生み出す。
一つは、ある特定の場所に特化させた、永久機関の見かけ(取り繕い)、のため、の、犠牲-不都合-不具合、を、その外部に追いやり-押しつけ、それには、目をつぶる(要するに、幸福の、命の、権利の、優先順位、がある)。
もう一つは、永久機関(の見かけ)が、うまくいかない、ことが、露呈した時に、その機能不全の原因-言い訳を、現実の、何か-誰か、のせいにし、あたかも、それさえなければ、すべては、うまくいく、かのように-はずであると、言い募る-思い込む(東電の人為的ミス-不誠実、さえなければ、というように)。
したがって、世界-人類の幸福、は、はじめから、放棄されている。
永久機関(調和世界)が、部分的にしか、うまくいかないこと、は、わかっている、のであるから、たてまえ-夢想(世界-人類の幸福、を望むふり)は、さておき、誰もが、とりあえず-さしあたって、そこ(部分的にだけ可能な調和)にしがみつこうとする-それ(部分的にだけ可能な調和)を独占しようとする。
現に、およそ、宗教は、特定の共同体の、幸福-繁栄、しか、夢見ていない。
宗教-共同体、は、部分的な幸福-永久機関の夢、を求める、ために、必然的に、他者(他の宗教-共同体)に、不寛容-冷淡、であり、また、自らの夢-希望-欲望(部分的な幸福-永久機関の夢)が、うまくいかない-機能しない、場合、その体面-面目-威信を守るために、必ず、それを、他者(他の宗教-共同体)のせいにする(宗教戦争については、言うまでもない。やつら-異教徒-悪魔さえ、いなければ、われわれの幸福は、実現するはずである、のに、それを妨害しているのは、やつら-異教徒-悪魔、の陰謀、なのである)。
してみれば、われわれは、多くは望めない。
せめて、自分だけでも-自分の周辺だけでも、幸せになることを望み、その幸福に余力-ゆとりがあれば、他者にも、それを、分配する、という態度、以外には、とりようがない、ということになる。それが、エゴイズム-優先順位、である。
すなわち、生(命)の優先順位であり、自分の、ついで、両親の、ついで、兄弟の、そして、最後に、見ず知らずの他者の、というように、あるいは、支配者-金持ち-実力者の、ついで、平民-無名の人-無能の人の、ついで、動物の、ついで、虫けらの、というように、歴然と-公然と、優先順位がつけられる(政治とは、この、優先順位を決定すること、である)。
したがって、生は、この、優先順位を、上に上がることに汲々とすること、になる。こうしたエゴイスティックな姿勢に、それへの反省を、忘却-麻痺させる、慰み物としての、諸文化(音楽や物語や娯楽など)が、付随することになる。
普遍宗教は、共同体の外部-共同体間、を、目指すもの、であるが、理念の上ではそうであっても、既存の宗教は、そうなり得てはいない。
福音派は、聖書の言葉を、神の言葉、として、解釈を拒否し、一字一句、字義通りに信じる宗派、であるが、聖書は、使徒-人間たちの物語、であり、キリスト-共同体の外-神の言葉-主体化、の、内面化、である。
人生って、何だろう。生は、出来事であり、人生は、物語(一個の生が、生まれて、死ぬ、という、完結した物語)、である。
生-出来事を、回収-内面化する、物語-同一性は、生-出来事によって、絶えず、破られ続ける。
神が、人生を操っている、なら、その意図は、まさに、不明、である(聖書を、字義通りに-愚直に、信じる、以外に、ない、のかもしれない)。
しかるに、よく言われるように、神の天罰、というものがある、とするなら、まさに、それは、同一性-エゴイズム(独善的な夢想)への固執(強欲-驕り-既得権益の独占)を、暴力的に有無を言わさず-容赦なく、打ち砕くようにあらわれる、、災厄(自然の猛威)-破れ目、を、そう見做す-理解する、こと、なのである。
物語は、必然的に、すべて、過去形、である。
驕りとは、自分にとって、好ましい-望ましい、都合のよい状態が、永続する、と、思い込む、物語、である。
つまり、必ず、決まった答が出る、ということである。常に、きちんとした答えが出ないと、気がすまない、ということが、驕り、であり、幼稚なエリート意識、である。
同じ日常-生活が永遠に繰り返される、という、物語(信仰)、から、はじき出された、原発事故の被害者は、この、災難を、反転させて、ポジティブに-前向きに、とらえ返せば、人生-物語を見つめ直す-考え直す、絶好の機会、を、与えられた、特権者(主体化)、である。
ところで、まったくの余談であるが、真の水戸黄門は、うっかり八兵衛、ではないか、と、私は、にらんでいる。いわゆる水戸黄門-ご隠居は、ダミー-影武者であり、裏で-陰で、すべてを-みんなを、操っている、本物は、まさかそんなはずはない、と、誰もが、うっかり見逃している-見落としている、誰の目をも欺いている、この、いてもいなくてもどうでもいいような、不自然な人物-うっかり八兵衛、では、ないだろうか(それゆえ、かどうかわからないが、水戸黄門に扮するる役者が代わっても、うっかり八兵衛に扮する役者は不動である)。
突然、まことに勝手ながら、論考を続ける予定(意志)はある、のですが、しばらくの間、個人的な諸事情(集中力や時間的余裕の欠落、など)、により、本ブログは、お休み‐中断、させていただきます。
再開の予定は、白紙の状態です(再開の折には、この記事は、削除します)。