そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


自己意識‐人間、にとって、自然な生活、とは、主体‐自己、の、二重生活、でなければならない。
しかし、主体‐自己の二重生活が、あまりに困難、なために、人は、せめて、それを、物語(幻想)の中で、振るい落とそうとする。
しかるに、物語(同一性)においては、人間が、動物(的生活)に、戻っていく。居心地よく、家畜の群に、身を投じ、主体化(自由と責任)を怖れ、それゆえに、むしろ、自分で、でっちあげた、物語の鉄格子の中に、窒息する(退化する)、ことをも、よし、とする、のである。


無謀さ‐好奇心(青春)、が、幸福に値する、のは、主体化‐美しいものを見る能力、を備えている、ため、である。この能力が、失われると、物語、という、慰めのない、凋落‐不幸(老年)、が、始まる。
物語という、内面的な(内向きな)方策のみによって、得られた、偽りの、見かけの自由、は、誤謬‐混乱(不安‐絶望)、である。
本当に、永続的な、価値のあるもの(希望)、は、常に、外部からの贈物、としての、主体化、だから、である。人間は、外部に向かって、こそ、成長する、のである。


人工的に、つくられた、物語‐社会的風土、などではなく、自己自身を、外部に向かって、勝ち取らなければ、ならない。
物語とは、そうした、主体化(外部性)、に対する、防御‐攻撃、であり、自分にも、世間にも、弱みを見せまい、とする、駆け引き、にすぎない。
本当に、持続する力、は、脆弱さ、に耐えること、のみ、にあり、弱さから逃避する人間、だけが、忍耐を失い、粗雑‐粗暴(防御的‐攻撃的)、になる。
物語は、ただ、不能のゆえ、にのみ、自らの希望を、断念する。
冒険(危険を賭けること)、とは、持続、であり、主体化に、身を挺する、こと、である、が、見かけは、何の苦もなく、一日一日を過ごすこと、に他ならない。


物語とは、ごく、ありふれた、市民の住居、に、そっくり、の、牢獄、であり、そのことに、気がつかない、こと、によって、その、過酷さ、は、ひとしお、となる。そこでは、一切の、主体化‐脱出、も、立ち消え、になる。
目に見える、鎖が、なければ、鎖は、断ち切ることが、できない、のである。
この拘禁‐物語、は、ごく、ありふれた、極端にすぎる、ことのない、日常生活の形、に、編成されている、のである。


この、物語‐模写、の技術、が、改良される、につれて、われわれの眼は、弱くなり、自らを、超えさせる、だけの、主体化、の余地‐能力、が、なくなる。物語が、器官‐感覚、の代理物として、はたらき、器官‐感覚、を、萎えさせてしまう、のである。
物語の、拡大する、通信‐交通(流通‐消費)、の中で、日々、われわれは、個人の主体化(個別の主体化)、を失っていく。


われわれは、めいめいが、まさに、主体‐自己、の迷路(錯綜体)、に等しい、のに、物語(同一性‐一なるもの)‐規矩準縄、に従って、生活する、のである、が、われわれは、われわれが、そのような、物語、のうちに、生きている、ことを、告白しよう、とは、しない。
われわれは、社会の不正、精神の不正、国家の不正、など、何だかんだと、不正、について、語ろうとする(糾弾する)、が、それこそ、まさに、唯一の罪、つまり、そうして、饒舌に語る、われわれ自身、そのもの、である、物語、を、美化せんが、ため、に他ならない。
そこでは、すなわち、物語においては、私だけに、通用する、公正、としての、主体化、などというものは、一つの不正(暴力のパターン‐狂気‐盲信、の類)、に他ならない、とされる、のである。
主体化、は、脆く、物語‐社会の同調圧力、は、強い、ため、同時に、それらに、身を委ねる、ことにおいて、痙攣が生じ、顔を歪めさせる、ことになる。


語り手と聞き手が、物語として‐物語において、すべてを、知っている、ために、その交換である、コミュニケーション(の見かけ)、は、透明、なのであり、そのため、意志の疎通(の見かけ)、は、飛躍的に、向上する(ように見える)。
主体化は、語り手と聞き手が、どこまで、それに、介入するか、によって、世界の意味が、変わってしまう、ので、不透明、なのである。
近代主義社会(情報化社会)は、ある映像や音が、すべての人に、知覚された、かのように、提示するのである、が、それは、誰か、によって、知覚された、かのように、提示され、その、誰か、とは、知覚する、規範的な主体性(抽象的な、公共的な人格)、であり、そのような、規範的な主体性が、制度的な規則、そのものの、体現、として、前提されている、のであり、それが、物語的なリアリズム、なのである。


階級差を決定するもの、は、金や財産、ではなく、むしろ、物語‐規範的な主体性を、でっちあげる、情報操作の能力、であり、それが、金‐財産を生む、のが、情報化社会、である。
そこでの、無産階級、とは、操作すべき情報(物語)、も、それを、構築‐操作、する、ための、能力も、悉く欠いており、よって、言われた事‐与えられた物語、を、信じる、しかない、人々、である。
情報(物語)操作者、こそが、主体性(主人‐支配者)、の地位、を占める、のである、が、物語は、そうした、操作者の、仕掛け、に、気づいても、気がつかなくても、読める、もの、である。
操作者の存在‐たくらみ、に、気がつけば、世界は、拡がる、が、それ自体、すでに、物語の一環‐内部、であり、そうした、物語の重層性、こそが、物語、それ自体、なのである。


たとえば、恋愛して結婚する、という、物語、を、素朴に、信じ、それが、自然で、当たり前のことである、と、素朴に、思う、ことの、背後、には、普通、人が、わざわざ言わない、制度、があり、すなわち、恋愛と結婚では、表面的な形(生活の形態)、は、まったく同じ、でも、経済的な土台、が、全く、違い、結婚では、資本が、反復され、継承される、回路、が、出来上がっている、のに対し、恋愛は、そうではなく、まさに、結婚は、遺産相続、や、資本の流通回路、として、国家経済‐国家形態、の規定する‐を規定する、その、基本的な単位、なのである、が、そういうことに、気がつけば、恋愛‐結婚観は、変わり、場合によっては、そこ(制度‐物語)に、差別的な、法の不平等‐不備‐偏り、を認めて、それを、指摘‐改善しようと、努力する、ことも、ある、わけである、が、そのような、反物語的な抵抗、それ自体も、すでに、規範的な物語、である、ということ、なのである。