そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


世界(現実‐人生)、と、物語(言葉)、とは、別のところにある、と信じること、が、そもそも、物語、である。
現実なるもの、が、あり、それを、解読し、記述する、ため、にしか、物語‐言葉、は、なく、その、解読‐記述が、世界の一部を構成している、としか、思われていない、ということが、物語、なのである、ということである。


物語の実践こそが、まさに、現実性である、ことを、無視させる(忘却させる)、力の構造‐力学的な圏域、こそ、物語の、説話論的な磁場、なのである。
食事も、恋愛も、会話も、物語であり、要するに、自我‐人生、そのもの、が、説話論的な磁場に属している、のである、が、それを、そう、自覚させない、すなわち、本人は、それに関してはわからない、ように、あたかも、それが、自然である、ように、作用するもの、こそが、物語、なのであり、しかしながら、どこかでは、無意識のうちに、すべてが、物語としての、退屈な反復、に他ならない、ことに、自覚的である、がゆえに、人々は、様々な、物語のヴァリエーションを、つくる‐求める、のである(資本主義的な‐情報化社会的な、差異化‐商品化、は、まさに、それに、連動している)。


物語とは、そのような、表面的な戯れ‐ヴァリエーション(差異化‐逸脱化‐奇形化)を、もっぱら、繊細に、いつくしんで、そこに、自分の存在を、希薄に、拡散させ、その表面、以外の場に、快楽‐官能‐欲望、を、求めようとしない、徹底した、慎ましさ‐頑なさ、なのである。
しかるに、性急に、物語とは、別の、現実なるもの、を、求めようとする、こと、自体が、すぐれて、物語的(表面的な戯れ)、であり、そうした、反物語的な姿勢、自体が、物語の中心‐核心‐要、なのである。


すなわち、きわめて、現実的な場、にあっては、物語(自己同一性‐全体性)、というものは、視界に浮上する、わけではなく、物語とは、現実‐世界、から、視線を逸らせる、目的で、人を、逃避(現実逃避)へと、駆り立てる、制度的な思考、である、と、反物語的な姿勢は、言う、のであり、同一性を求めれば、必ず、抽象的たらざるを得ない、し、これが、同一性である、と、あらかじめ、思い込む‐決めつける、錯覚、なしには、同一性の模索、は、できない‐など、あり得ない、と言い、現実(具体性)を見ようとはしない‐現実は成型(整理)されるべきである、というのが、同一性の模索者(物語)、の、出発点、である、が、それは、非常に、抽象的な考え方で、実際の生活(人生)では、そのような、抽象性(抽象的な描写)に、あてはまらない、状況、に、いくらでも、出会う、と言う、のである、が、しかしながら、まさに、こうした、反物語的な展望、こそが、まさしく、物語(抽象的な見取り図)、そのもの、なのである。


つまり、まさに、そうして、物語は、全体性の見かけ、を、形づくる(獲得する)、のである。
そうした、物語の全体性、の見かけ、が、その配置‐構図、によって、認めない、のは、具体的な現実そのもの、などではなく、主体化、という、物語の、余白‐隙間(起源、としての外部性)、であり、物語は、それを、狂気‐傷‐病気、などの、一時的な、錯誤‐誤謬、のようなもの、として、一過性の気の迷い、の類、として、決めつけ、扱い、片づける、のであり、そのような、病んだ状態を、回避する、ことが、そして、病気という欠陥は、全治されるべきである、と、する、ことが、本来の、人間の健康な姿、である、とする、のである。


物語的な、現実の全体性の構図、においては、一方に、現実を再現しようとする、意志、があり、他方に、現実の再現(具体的な、今ここ、にはない、現実のイメージ)が、人間‐現実‐歴史、を、疎外させてきた、という、主張、がある、ということ、である。この、両者の、相互補完的な運動、こそが、物語、なのである。
前者における、それは、人間に、普遍的に備わる善意(知性)である、とする、再現‐物語、の、有効性、と、後者における、それは、歴史から目を逸らせる、力(虚構)である、とする、再現‐物語、の、無効性、との、バランスのとれた、説話論的な配置、こそが、物語、なのである。


すなわち、物語は、現実を意味に置き換える作業(解釈)、という、人間的に、最も、切実な欲望、であり、かつ、そのような、現実の印象、としての、適度に心地よい‐快い、イメージを、再現、とすることは、人間(現実の体験‐運動)とは、縁もゆかりもない、物語、という抽象的な説話装置、へと、あるいは、一部の、才能のある、特権的なエリートの、物語、へと、人間(現実の体験‐運動)を、従属させるもの、である、する、のである。
後者のような、反物語的な姿勢‐物語、の、役割は、人間(現実の体験‐運動)への、関心を装った、物語への興味、が、真に、具体的な事件‐出来事は、何一つ、起こらない、物語、に、あたかも、何かが、起こっている、かのように、錯覚させる、物語的な全体性‐物語り的再生産、への配慮、である、ということ、なのである。


要するに、物語の周到さ、は、自らの否定、をも、自前で用意する、ということ、であり、すなわち、物語‐反物語、が、物語、であり、しかるに、主体化とは、反‐物語、なのである、ということである。
物語(ものを考えること‐ものを書くこと)、の、根源にある、大きな力(動機)は、普遍的に、自分には欠けている、何かを、自分の中に、つくり上げようとする、意志、である。
物語は、自分の中にある、自身が触れることのできない、欠乏(主体化‐普遍化)、をこそ、内面化する、欲望、である。
しかるに、物語は、自らが機能し得なくなる点(自らの外部性)‐自らの機能ぶりを明らかにしてしまう点(自らの起源)、を、想定している、からこそ、物語(制度)、として、成立する、のであり、まさに、それゆえに、欠乏のない、見かけを、つくり上げようとする、もの、であり、すべてを、物語で、埋め尽くそう、とする、のである。


社会内に流通する物語、において、その、内部にも、外部にも、欠落、というものが、ない、ようにする、ことが、物語的な配慮(物語的な全体性)、であり、社会の表層を、覆い尽くす、物語‐反物語、の、その円滑な作動ぶり、において、欠落なるもの、など、捏造されたもの、に、すぎない、と、主張する、こと、が、物語的なリアリズム、なのである。