物語(物語的思考)から逸脱する衝動、としての、主体化は、物語内においては、物語が、物語それ自身の上に、反り返る、駄洒落、となる。
主体化とは、物語の説話論的な磁場から、自由な何か、であり、しかるに、説話論的な磁場に、規定(拘束)されない、その外部性、である。
したがって、説話論的な磁場の、内部に、位置づける、ことのできない、主体化は、物語的な思考にとって、不可視、であり、それは、常に、死産としてしか、生誕しない、ものである。
物語が、主体化を、内面化する場合、物語‐言葉の内にあり、物語‐言葉に触れている‐接している、ままで、主体化的な反省(外的な反省)能力、の内面化、として、物語‐言葉が、物語‐言葉、自身の上に、反り返る、ことで、物語‐言葉の、本来の機能とは、別のはたらきをする、物語‐言葉の過剰(重層化)を、つくり上げる、ことになる、のである。
すなわち、テクストとしての、物語‐言葉の物質性の強調、を、物語‐言葉の、派生物‐二次的な効果、として、生み出す、ことになる、ということである。
要するに、ごく単純化して言えば、物語の閉域において、その、息苦しさ‐閉塞感、を、忘れようとする時に、物語の逸脱化、としての、駄洒落文化へと、見せかけの逃避、を、することになる、のである。
俳句や短歌などの、詩、や、川柳やなぞかけや漫才などの、言葉遊び、とは、こうした、駄洒落文化、である。
通常、物語(規範的な物語)においては、言葉‐諸要素が、ツリー状に、透明化されていて、意味(シニフィアンとシニフィエの対立)、というものは、必ず、ツリー状に、中心化された体系、としてある。
そうした、言葉‐単語の連なり、を、規制している、固定された意味の体系、を、覆そう、とする衝動(内向化した主体化)、として、駄洒落文化(詩‐言葉遊び)はある、のである、が、それは、物語(意味の体系)とは、まったく違う‐とんでもなく違う、ところに、出て行こう、とする、のではなく、あくまでも、物語(意味の体系)を前提とし、物語(意味の体系)におさまりながら、その表層の上で、その表層を、横滑りする‐ずれる、過剰を生きる、ところに、生成する、逸脱の見かけ、なのである。
つまり、物語的な関係体系の中にある、言葉‐諸要素、自体が、横断的に、結合し合う、不確定で、多形的な、逸脱的な関係、の体系、を形づくる、のである。
しかし、このような、逸脱は、派生的な副産物、としての、変形的な、物語形成‐読解、であり、物語を前提とする、二次的な物語、として、物語それ自体、であり、すなわち、物語内における、字義性(意味‐必然性‐正当性)、に対する、テクスト性(物質性‐遊び‐非正当性)、という、対立関係、として、あらわれる、きわめて‐すぐれて、物語的な思考そのもの、なのである。
いわば、逸脱は、その全容をとらえられない(把握できない)、としても、手懐けられた、逸脱の見かけ(高尚な芸術‐娯楽、という、文化)、であり、すでに‐常に、その対立図式が、パラディグムを、構成しており、まさに、それ自体、物語そのものとして、人々が、それを共有している、のであり、つまり、比較の問題、として、規範的な(模範的な)物語がある、から、その、逸脱現象がある、という、公的な、パラディグム的思考、としてある、のである。
文学(詩や小説、など)、や、お笑い芸能(言葉遊び)、も、結局、こうした、物語‐言葉の逸脱的な、想像力‐物質性、の、冒険‐戯れ、であり、その、制度的なコントロール、なのである。
物語は、自分が機能し得なくなる、ということを、自身において、想定している(自覚している)、からこそ、制度としての自身を確立している‐できている、のであり、物語自身が、内面化できない、主体化、という、自身の欠落部分、を、想定し、あらかじめ、自身の逸脱現象、によって、それを、可視的に代理表現する、ことで、そうした、先取り的な先手を打つ、ことで、主体化そのもの(その衝動)を、封じ込めよう、とする、のである。
主体化が、まず、あって、その反省化、としての、物語が、発生する、のである、ため、物語は、主体化(自らの起源)に、触れることができず、しかも、主体化自身が、物語の機能ぶり(物語的思考)、そのものを、明らかにしてしまう、その外在的な視点の生成、である、ので、物語は、主体化を、隠蔽する必要、があり、そうして、物語の説話論的な磁場に属している、われわれ(物語的な思考)が、まさに、その事実に、関して、わからないままでいる(物語が、自然なものであると、思い込んだままでいる)、ように、配慮しなければ、ならない、のである。
物語とは、自らの機能ぶり、を、気がつかせない、ようにする、配慮、において、その機能を、嘘のような、円滑さで、作動させる、虚構、なのである。
そのため、われわれは、まさに、その、自然さにおいて、自分自身が、そのような、物語‐虚構の、一部として、その舞台として、その、虚構‐装置を、支えている、とは、自覚しない、のである。
物語として、何か、ポジティブなことを、言った、場合に、それを、すぐさま、ずらす‐揺るがす、ように、登場した‐演じられた、その、逸脱(想像力‐物質性)、が、すぐに、物語に、回収(反省‐内面化)されて、すぐさま、それ自体が、物語(逸脱の見かけ)として、副次的ではあるが、ポジティブな(気の利いた)、主人公(斜に構えた、アンチ・ヒーロー、であるとしても)になっている、のであり、そうして、すでに、物語化‐凡庸化、した、逃避‐逸脱(の見せかけ)、として、逆説的にも、むしろ、規範的な思考(むしろ、好ましいもの‐お洒落なもの)、とさえ、なって、猫も杓子も自らの思考に取り込んでいる、のである、が、それが、いまや、形骸化して‐惰性化して‐新鮮味を失って、退嬰的であり、鬱陶しくさえある、駄洒落文化、なのである。
