そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


芸術とは、主体化(われわれ‐物語の、真ん中にあいた、穴‐欠落)、である。だから、それは、ショッキング(トラウマ的)、なのである。
が、しかし、主体化‐欠落(という外部性)は、すぐに、物語化(反省化‐内面化)される。
そのために、芸術は、すぐに、ショッキングな効果、を狙う、形骸‐物語的惰性態(としての、文化的な営み)、と化す。
すなわち、芸術は、通常の‐日常的な‐規範的な物語を、壊したり、ひっくり返したりする、爆発(テロル‐ショック‐驚き)である、ということ(文化的イメージ)に、なる、のである。
つまり、芸術は、派生的な‐二次的な物語、として、物語、という、きわめて共同体的な文化、に、対する、批判、すなわち、物語批判、という、物語(文化)、と化す(堕す)、のである。


芸術は、主体化、という、物語において、見えないけれど機能しているもの、を、とりあえず、考えてみよう、とする、メタ物語、である。
ところが、そうした、主体化への注目(衝動)、は、絶えず、それを、実体化(可視化)、して、しまう、物語そのものと化す(堕す)、のである。
見えないけれど機能しているもの、に、執着する、という、真摯な姿勢、の、物語的な忘却、が、芸術家‐人、を、堕落させる、のである。


いずれにしても、人(芸術家)は、物語(文化的な体系性)、へと、向かわざるを得ない、としても、なお、その、見えないけれど機能しているものを、つきつめて、それとの、闘い、みたいなもの、に、形を与える、ことを、考える、こと、それが、芸術、である。
しかし、物語的な、反省化‐内面化、が、進むと、芸術とは、何か、ということ、を考え出し、芸術とは、これだ、という、答え、や、方法論、の、物語(まことしやかな文化‐教養)を、つくり出す、ようになる(アカデミックな学問、や、ジャーナリスティックな情報‐ノウハウ、のように)。


物語化は、芸術家自身、も、例外、ではなく、芸術家自身、でさえ、はじめから、芸術という物語によって、学び、芸術‐芸術家の物語を、敷衍し、そうした文化的物語によって、自分を支える(理論武装する)、ように‐ことに、なる。
自分の芸術は、こういうコンセプト(意図‐目的‐内容)、である‐のもとにある、と、人に(周囲に‐世間に)、言わなければ、ならなくなる、のである、し、人は(周囲は‐世間は)、そうでないと、納得しない。


自分が、このようなコンセプトで芸術をやっている、ということを、とりあえずのフィクション(物語)、として、やってみて、見えてくるものは、物語(文化的営み)という、とりあえずのもの、しか、見えてこない、であろう、けれども、そこで、それが、自分の、真の芸術である、と、錯覚してしまう、かもしれない、が、そう錯覚、するか、しないか、で、芸術家としての、資質、の分かれ目、になる。
実体化された、記号の体系、としての、作品、を、どこまでも、物語なのである、と、考えながら‐自覚しながら、なお、物語ではない、何か(見えないけれど機能しているもの)、を志向し、その間に、自分を、危く支える、ことしかできない、そうした自分を、維持できるか、どうか、が、本物(一流)、と、偽物(二流)、の、分かれ目、なのである。


もちろん、物語的思考は、そういったこと(危さ、自体)を、理解しない‐理解できない、のである、が、主体化と物語との間に、自分を危く支える、こと、こそが、倫理、であり、物語だけを信じてしまうと、単に、堕落する、他はない、のである(主体化の欠落、すなわち、他者の視点への移動‐転移、による、他者的な視点の確保、が、できなくなる、ことは、自己意識の崩壊、であり、現に、痴呆症‐アルツハイマーの、初期症状、である)。
信ずべき倫理、とは、物語、であり、それに対して、真の倫理、とは、空虚(不可視)、であり、主体化を、そのつど、再生産し、生成させる、こと、なのである。


物語‐芸術、とは、倫理‐芸術、で、勝負する、というより、文化に、こだわり、すなわち、題材と、美意識に、こだわり、芸術を、いまだに、独創性の表現である‐個性的な表現の媒体である、としか、考えていない、思考(思考停止)‐姿勢(ものぐさな態度‐紋切り型の決めつけ、の共有)、であり、それこそ、安易な‐安直な(陳腐な)、わかりやすい(白痴的な)、文化的な物語、なのである。
確かに、厖大な、物語‐芸術の、歴史(文化)、は、ある、けれども、そうした、歴史(誰もが、知っている芸術の物語‐文化‐教養)を、無視して、たった今、物語‐芸術が、発明された‐発明されつつある、といった、フィクション、を、戦略的に、採用する、必要がある、のである。


したがって、真の芸術作品、とは、物語に回収できない‐されない、何か、であり、つまりは、結果として、絶えず、新しく読解可能な、意味生成性を持っている、システムである、という他はない、もの、である。
一つの意味(物語)に、還元されてしまう、ことが、なく、他のもの(イメージ)、では、代わり得ない、何か(主体化という、ある種の、限界‐不可能性)、を、持っていなければ、ならない、ということである。
それゆえ、物語(物語的な思考)、からすれば、むしろ、真の芸術は、取りつく島のない、出鱈目に見えるもの‐不可解な、わかりにくいもの、であり、だからこそ、飼い慣らし得る(対象化‐イメージ化し得る)、という、錯覚を、人々が持つ、ことが、できる、ような、物語、が、必要とされる、のであり、物語(文化‐物語的な、わかった、ふり)の、まやかしの優位、のもとに、芸術を貶めなければ、ならない(単なる、偏狭な‐頓狂な、手慰み、や、一部の愛好家‐好事家、だけの、楽しみ、として、世間の片隅‐辺境に、押し込める‐片づける)、のである。


実際には、芸術は、いまだ、存在した、ためしなど、ない、もの(物語の0地点)、でなければならない、はずのもの、なのである。
物語とは、主体化の、大がかりな、無化、を、前提とした、非倫理的な連帯、によって、形づくられる、きわめて、無責任な風土(文化)、であり、連帯のための連帯(共有のための共有、共感のための共感)、という、物語‐紋切り型のイメージ、の蔓延化、という、見かけだけの一体感‐調和、にしか、興味‐関心、が、ない、のである。
文化的な感性‐流行の感性、というものは、この無責任‐無関心、が、その、無意味、であるがゆえの、付和雷同的な、集団的な納得‐もっともらしさ(本当らしさ‐現実らしさ‐真実らしさ)の体系の形成、において、むしろ、それが、規範‐正当性、である、かのように、単に、思い込んでいる‐錯覚している‐振る舞っている、状態の、共有、なのである。