そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回

主体化という、純粋否定、において、可能になる、その、物語化、としての、われわれ(主体‐自己)‐物語的思考、は、その根源的な純粋否定を、内面化した、否定性、を、部分過程、として(のみ)持つ、全体性(物語り的全体性)、を、形づくる。
こうした、二つの否定の水準において、われわれの自然は、二つに識別される。
すなわち、本義的な自然(純粋否定)、と、二義的な自然(物語‐秩序、としての、自然‐全体性)、である。


二義的な自然は、それ自身の規律と法則に従った、物語的全体性(世界‐宇宙)、としての、自然、のこと、であり、そこでは、いたるところで、否定性が、はたらいている、が、すべてが、否定である、わけではなく、否定は、予定調和的な全体性(の肯定‐保存)、の中の契機、にすぎない、のである。
つまり、否定‐破壊、は、いまだ、創造‐変貌(変化)、の、裏返し、なのであり、否定‐無秩序、とは、秩序の一形態、で、死‐腐敗、さえが、生の構造、に、他ならない。


本義的な自然は、主体化、によって、のみ、見出される‐垣間見られる、物語(類‐法則)を超えた、不可視の、本源的な自然、としての、純粋否定、であり、創造‐保存‐個別化、の、必要性、という、物語(物語的な思考)、から、解放されている。
主体化は、どこまで下降しても、達することのない、底、としての、発生期の錯乱‐原初の混沌、としての、本義的な自然の、相関物、であり、それ固有の、否定性において、二義的な自然‐物語、をも、否認する(否定する)。


この、不在なるもの‐否定の観念(本義的な自然)、は、物語的世界‐経験的世界、では、与件として、提示、されることは、なく、提示することも、不可能、である。
しかるに、われわれ‐物語にとって、問題なのは、派生的なもの‐物語(二義的な自然)、と、それを、可能にしているところの、不可視の、根源的なもの(本義的な自然‐主体化)、を、繋ぐこと、すなわち、物語、と、非物語的なもの、との、距離を、論証として、埋めること、である。


つまり、二義的な自然‐物語、で、否定性によって、惹起された、苦痛‐主体化、が、いかなる条件下で、直接的に、本義的な自然に、反響し、再生産されうる、のか、ということ、である。
すなわち、主体化の反復(反復し得ないものの反復)、の、意味、である、が、実践的な段階、において、われわれは、その論証の総体を、二義的な自然‐物語、から、借り受けた、部分的な、帰納的方法、によって、具現化せざるを、得ない。


要するに、部分的な否定性の、増大、としての、その純化、を、物語的なインスピレーション‐刺激、によって、散乱する、ことなく、二義的な自然へと導くであろう、と、期待しうる、快楽‐予定調和、に、身を任せる、ことなく、沈着に、統御、しなければ、ならない、のである、が、まさに、こうして、否定性そのもの、を、論証的思考の、沈着性によって、純化しなければ、ならない、という、矛盾にさらされる、ことになる、のである。
これが、われわれ、という、物語を否定する、物語、の、失望‐意気沮喪(分裂‐二重化)、なのである。


この、失望‐失敗、は、物語へと、回収され、否定、ではなく、否認、となる。
すなわち、現に存在するもの、の、正当性‐正当化、に、反逆し、この現実(現に存在するもの)の、彼方、に、他(主体化)から、授かった、のでは、ない、新たな地平(超越的次元)、を、開示しうる、特性、を、持った‐担った、一種の、宙吊りの、未決定状態、すなわち、神という幻想(主人のシニフィアン)、を、装う(仮想する)、ことで、成立する、ある一つの、操作、つまり、フェティシズム(物神崇拝‐偶像崇拝)、の、出発点、となる。


フェティシズム(物神)とは、現実に存在しない、女性のペニス(男根)の、反映‐代置物、であり、女性に、ペニスが備わっていない、ことを、否認する、方法、である。
つまり、異議を唱えられた、器官‐ペニス、の、権利上の維持、が、可能になる(まだ可能である)、その、直前の(手前の)、物質‐物体、すなわち、靴や衣類や下着など、に、執着して‐することで、最終的な決着‐結論に、至らない、その、直前‐手前の視線に留まる、宙吊り状態、を、維持しようとする、のである。


要するに、それは、まだ、ペニスの存在を信じることが、できた、最後の瞬間(視線)、に留まる、ことで、幼時の視線が、決定的な場所へ、至り着かない、ようにする、のである、が、すなわち、女性のペニスの不在、という、湿り気を帯びた、繁茂した沼の、混沌(原始的な混沌)、の現前、や、あるいは、性交という、乱脈な‐無秩序な官能、の現前、といった、混沌‐混乱に呑み込まれそうな怖れ‐トラウマ的な現実(衝撃‐不安)、を、目撃しないようにする、防御的な配慮、なのである(直接的な肉体の交接‐性交渉、よりも、映像など、間接的なセックスに、楽しみを求める、傾向は、こうした、フェティシズム、であり、むしろ、秩序を、守ろうとする、性というトラウマ、すなわち、官能的混沌‐混乱、に対する、幼児的否認、なのである。しかし、さらなる、トラウマは、大人になれば、わかる、こと、である、が、性というものが、実際には、あまりに、つまらない‐退屈なもの、である、すなわち、単調な、愚かしい、馬鹿げた、単なる反復運動、である、という、事実、であり、フェティシズムは、それを、覆い隠して、刺激を維持‐持続させようとする、必死の幻想、なのである)。


こうした、フェティシズムは、主体化‐否定性、が、現実に存在しない(対象化できない‐思考できない)、こと(トラウマ的事実)を、否認する、ために、その、代理表現(否定性の神の宙吊り状態)、を、置く、ことに、起源を持つ、その、同型‐相同の、構造の、反復、であり、フェティシズムは、それ自体が、派生物、として、より、根源的なもの(主体化の隠蔽)、を、ずらす(すりかえる)、ことで、見えにくくしている‐覆い隠している、のである。


いつも、その宙吊り状態(超越性の幻想)、へ、立ち返って、否定性の探究が、もたらす、腹立たしい、主体化(絶対的な否定性)の不可能性、の発見、を、厄介払いする、のである。
要するに、物語、の、失望‐意気沮喪、が、現実的なるもの(絶対的な否定性)、への、理想的なるもの(神‐女性のペニス。ペニスとは、乾燥した、男性的な、父権的秩序の、象徴、である)、の、権利主張、の必要性、を、痛感し、理想的なるもの、の中に、自分を中性化し、宙吊りにし、その結果、現実の知識(の追求)、から、蒙るかもしれない打撃、を、効果的に、廃棄せんとする、もの、なのである。