われわれ主体‐自己において、主体性の物語、が優位、であれば、封建制(独裁制)になる。
封建制(独裁制)に対する、自由(独立)とは、自己性の物語、の優位、であり、つまり、自己の権利の物語、であり、すなわち、私的所有の権利(職業の自由‐自分の労働力の自由‐表現の自由)、の主張‐要求、である。
こうした自由(私的所有の権利)は、個人‐自己性が、共同体‐主体性に、属する(従属する)存在様態‐封建制、では、あり得ない。
こうして、主体‐自己、という、支配‐被支配、的な、身分階級の矛盾、である、われわれの自己意識‐共同体、は、矛盾、としてある。
つまり、主体性‐同一性‐国家主義、と、自己性‐自由‐個人主義、との矛盾、であり、すなわち、国家とは、主体‐自己の矛盾(軋轢‐摩擦)、そのもの、なのである。
この、主体‐自己の矛盾、を、想像(物語的な、空想のシナリオ)の上で、解消しようとするもの、が、近代的なネーション‐国民国家、であり、すなわち、友愛に基づく国家、という、概念‐物語、であり、要するに、美学的な(精神論的な)理想(ユートピア)、において、現実には、達成されない、主体‐自己の矛盾の解消(解決)、を、想像の上では、先取り的に、実現できる、かのように、想定する‐思い込む、ことで、この、主体‐自己の矛盾、それが引き起こす、現実の諸々の軋轢‐摩擦、を、幻想的に、揚棄する、のである。
主体‐自己の矛盾(諸問題)が、少なくとも、ありうべき、未来の時点、において、時間的に解消される、と、思う、のであり、それこそが、まさに、進歩、という、(近代に特有の)概念、なのである、が、しかし、中央集権的な体制‐人工的国家(主体性の物語)、に対して、個人‐自然性(自己性の物語)、を強調する、ことは、結局、それ自体、人工的な物語(近代化の物語)、なのである。
近代国家は、徴兵制、と、義務教育、によって、規範的な主体性‐近代的な主体性、としての、国民(近代的市民)、を、形成する。
しかるに、こうした、近代化の思考の枠組みの中、では、結局、徴兵制、と、義務教育、が、国をつくる、という主張が、一つ覚えのように‐万能の概念のように、事あるごとに、繰り返し、反復される、が、ここからこそ、根本的な矛盾、が発生する、のである。
つまり、規範的な主体性‐国民、の教育、は、一方で、家父長的な‐父権的な同一性、への、従属性(一元化)、を、中央集権的に、押し進めながら、他方で、そうした従属性としての、自らの主体性の起源を、忘れさせ、あたかも、自らを、自律的な、自由な、主体性(自己性へと傾斜した、主体性)‐近代的な個人(市民)、と思い込む、のである。
国家‐われわれ、は、こうして、近代化の中で、近代化、と、近代の超克、とが、同時に求められる、矛盾(ダブルバインド)、を、生きる、ことになる。
この、メッセージとメタメッセージが矛盾する、ような、コミュニケーション状況に置かれる、ダブルバインドのもたらす、心理的な圧迫‐精神的な疾患、が、集団ヒステリー‐狂気、となって、爆発した、のが、民族自律‐解放と帝国主義的植民地主義が合体した、戦争、であろう。
つまり、近代化の中で、起こること、は、父権的構成(人工性)、への傾斜、と、非主体的な‐非構造的な、根源的な自然性(自己性)、への傾斜、であり、言い換えれば、すなわち、集団主義(主体性)、への傾斜、と、個人主義(自己性)、への傾斜、であり、そうした、ともに、近代化の題目である、対立する傾向の、分裂‐二重性、として、国家‐われわれ、は、ある、ということ、なのである。
要するに、自己形成、とは、常に、公的な規範的な、物語‐主体性、の強制‐による去勢、と、それに対する、抵抗‐自己性の主張、なのである。
そして、こうした、規範的な、主体‐自己、の内的矛盾(葛藤)、を、想像的に解決(統合)する、のが、美学‐理想、としての、友愛‐国家‐民族、という、中間的な概念(実際には、それ自体、具体的に何を意味するのか、曖昧、であり、つまり、抽象的な雰囲気、なのである)、であり、しかるに、政治家は、この、近代化の矛盾、の、危機的状況、においては、こうした、曖昧な、美学‐精神性(愛国心‐民族愛)に、うったえる、のであり、逆に言えば、政治的実務遂行の、頓挫(無能)、を、覆い隠そう‐ごまかそう、とする、時に、そうした、想像的な美学‐精神論を、口にする、のであり、そこ(美学という、空虚な形式‐便利な容器)、に、現実の困難を、回収しよう、とする、のである(そもそも、法治国家において、政治家は、法の整備をすべき、であり、価値観を説いてはならない、はず、である)。
主体性は、主体化、という、自己超越の能力、によって、こそ、獲得される。
ひとたび、主体化が、主体性‐物語に、内面化される、と、そうした、主体‐自己のナルシスティックな閉域‐内部性‐自発性、を、否定する、ような、主体化‐超越化、の過程、が、失われ、結局のところ、主体性が帯びている、超越性‐権威(暴力性)、は、自己性の、自発的な選択、に、還元されてしまい、主体性の権威、を、維持できなくなる。
すなわち、そのような、自己完結的な、自主的な、内部‐秩序(主体‐自己)、が、確立される、と、主体性は、超越性である、と同時に、人々‐自己性のナルシシズム、に従属する、という、矛盾が、生じる、のである。
要するに、超越的な神(超越的な主体性)、のステイタス、に関わる‐に起こる、矛盾、であり、偶像崇拝の禁止は、人々のナルシステックな選択‐想像に、神を、従属させない、ということ、である、が、というのも、そうしたナルシスティックな信仰、は、人々のナルシシズムを満足させられない、場合、容易に、棄てられる、ことになる、からで(すべての矛盾は、神の矛盾に、帰結する、のである)、しかるに、日本の場合、のように、ローカルな共同体、における、超越性(超越的な主体性)の確保は、仏教や儒教やキリスト教、などのように、外発的な、超越的な権威‐普遍的な原理、を、導入する、ことで、超越性の徹底が、可能になり、上のような、ナルシスティックな矛盾、を、回避できる。
しかしながら、グローバルな共同体‐物語、においては、もはや、そのような、外発性は、存在しなくなる、わけである、から、よって、国際法のように、その違犯に対する、処罰の手段の、超越的な強制力、が、なくなる。
自らが、打ち立てた、権威主義(規範的主体性)は、真の権威、には、なり得ない、のである。自らが、考えた、理念は、それを実行する、超越者、が、いない、のである。(神‐究極の超越者、の想定‐幻想は、そのために、必要なのである)。
理念は、常に、それを、自発的に、考えた人の、理念‐仮象、にすぎない、のである。
この矛盾こそ、物語の生の構造、であり、すなわち、物語とは、超越的な理念(主体性の物語)、と、その否定(自己性の物語)、との、相互補完的な力学、において、なんとか、主体‐自己の体制を維持‐延命させる、装置‐機能、であり、そうした、物語、そのものの体制、を変容させる、契機は、主体化、にしか、ない、ということなのである。
