間‐主体的な物語(意味の共同性をつくりあげる、国家の共通語‐物語)、が、個人単位のモナド的な自己経済(身体‐思考の身振り)、を、無効にしてしまっている、にもかかわらず、なお、そうした、共通言語としての社会的な物語が、その単位としての、個人的な自己経済(自己性)なしには、あり得ない‐やっていけない、という、矛盾を、中間的に解決するために、失われた自己の物語(という、それ自体、主体性の物語である、自己性の物語)が、つくり出される。
すなわち、規範的な主体性の物語(社会‐秩序)の帝国主義的な支配、においては、普遍的な法‐規範が、遵守されていれば、その物語(社会‐秩序)に属する(従属する)、各市民は、それぞれの自己同一性(アイデンティティとしての主体‐自己)を、保ちながら、その範囲(許容範囲)において、勝手に、自己の物語(自己性)を、生きる‐想像する、ことが、できる、ということである。
しかし、実際には‐実質的には、自己性の物語を含めた、すべての物語は、そもそも、帝国主義的な物語‐公的な物語的同一性、の強制、なのである。
つまり、そもそも、自己なるもの、すなわち、自己という、個人‐市民、は、近代において、形成された、公的な人工物‐物語的虚構(想像の自己)、なのである。
近代的自我は、近代の、資本主義、と、国民経済(ネーションステート)、によって、形成されている‐規定されている、その単位(物語)、なのである。
近代的な、民主主義とは、それまでの封建制にとって代わる、自己‐人民(大衆)、の支配、という制度、である。
しかし、自己‐人民の意志が、基底にありながら、それ自体が、社会的に規定された物語である、ということ、であり、現実に存在する、そうした、自己(主体‐自己)は、様々な、社会的な利害の対立の中で、こそ、分節化されている物語的登場人物、なのである。
議会とは、そうした、諸利害の調整の場所、である。
しかし、多数決が、真に、人民の意志を代表する、とは、いえない。多数のものが、正しい、という、根拠など、ない、からである。
プラトンは、哲学者‐哲人王(主体性)、こそが、真理‐一般意志(自己性)を、代表する、とした。
ルソーは、市民社会の利害から独立した、中立の国家官僚(主体性)が、一般意志(自己性)を、代表する、とした。
マルクスは、ブルジョワ階級(主体性)の意志、ではなく、プロレタリアート(自己性)が、一般意志(自己性)を、代表する、とした。
レーニンは、少数前衛政党(主体性)が、一般意志(自己性)を、代表する、とした。
代表制とは、すなわち、主体‐自己、の、物語的な全体性、とは、上記のいずれか、である。
こうして、結局のところ、何らかの、主体性(エリート‐政治家)の物語が、自己性を代表する、のであり、それこそが、われわれ主体‐自己の二重体、なのである。
自由主義的な議会制は、無記名投票(秘密投票‐匿名投票)、に基づく、が、それは、自己性の物語、であり、社会的物語(公共の規範的主体性)の専制、から、個人的な自己表現の自由、を、守ろう‐確保しよう、とする、配慮‐工夫、である。
つまり、拍手喝采‐同調的な熱狂(興奮)、による、直接的な民主主義(顔の見える、オープンな投票)、社会的な物語的同一性(意味の共同性‐規範的な共通言語)への、同調圧力の、効果‐帰結、そのもの、なのである。
民主主義とは、個々人(自己性)を、救済する、という、物語、であり、今日、その、支配的な概念(形態)は、福祉国家、である。
しかし、そのためには、人々が、規範的な主体性(羊‐従順、としての、国民‐納税者)である、ことが、必須、である。
こうして、民主主義は、自己性の物語(自己性の救済)、の見かけ、のもとに、ますます、人々を、国家‐公の物語に、内属(従属)させる、もの(体制)、であり、要するに、そうした、社会的物語(国家)の本質は、人民の同質性(同一性‐平等性)、であり、異質なもの‐主体化、を、排除する、ことに、ある。
代表するもの(政党諸派‐官僚)、と、代表されるもの(社会的な諸階級)、との、間には、固定的な結合関係はない。
人民は、物語化された(規範化された)、市民(規範的主体性)、である、としても、多様な、自己性の物語を、真に代表してくれる、主体性‐エリートの存在(物語)、を、常に、探しており、そうした、主体‐自己の、理想的関係をめぐる物語は、常に、無数に、増殖しており、マスメディアやインターネット上の情報とは、まさに、そうした、物語の数々、に他ならない。
代表するもの(主体性の物語)、と、代表されるもの(自己性の物語)、との、間には、常に、ずれが、生じている。
社会的関係‐社会的構造、の変化、とは、支配的な物語の変化、であり、そうした変化が、激しければ、安定した代表制は、成立しない。
代表制(議会制)が、失調する、とは、既存の代表の物語(主体性の物語)が、機能しなくなる(支持されなくなる)、ということ、であり、人々は、真に代表するもの(信じるに値する、代表の物語)、を、探し求める、ようになる。
主体化、を、放棄している、限り、われわれは、もともと、代表(主体性の物語)、を、探し求める存在様態(主体‐自己)、なのであり、自己性を救済する、代表(主体性の物語)を、求めて、右往左往して、物語的な転移、を、繰り返す、運命にある、物語的存在、なのである。
そうして、物語の間を、ずれていくこと、こそが、まさに、結果的に、物語支配の現実的勝利、なのである。
大衆民主主義において、国民(自己性の物語)と、等身大の代表者を、民主主義的な手続きにおいて、求めるようになる、と、政治家や教師や僧侶、などの、いわゆる、先生、と呼ばれるような、権威主義的な主体性、は、一般市民の物語、の対象(その延長上の存在)、となり、主体性‐権威、としての、物語(先生は、無条件に、敬うべき、偉いもの、である、という物語)、そのものを、喪失し、市民から、軽く見られる(馬鹿にされる)、ようになる(支持率の低下)。
しかし、代表者が、強力な主体性(権威‐権力)を、帯びる、と、ファシズム‐ボナパルティズム(高支持率)、の可能性が、大きくなる。
結局、われわれは、この、間を、揺れ動く、しかない、のである。
大衆民主主義は、次第に、自己性の物語に、重点を置く(庶民が、主役‐主体、である)、ようになる、ために、主体性の物語は、あくまでも、自己性の物語を、代表する、限りでしか、尊重されない、ようになる。
すなわち、代表(主体性‐エリート)は、そのものとしては、信用されないようになる、傾向にある、のである、が、つまり、というのも、代表は、人々の自発的な選択に、還元される、のである、から、よって、人々のナルシシズム‐ナルシスティックな願望(物語)、に、従属する、ため、人々のナルシシズムが、満足させられなければ、その期待に、応えられなければ、その願望が、叶えられなければ、信用‐支持されなくなる、のである、し、市場原理からいえば、金(税金)を払っている(代表を雇っている)、のは、市民、であり、代表は、その意味でも、市民の従僕‐使用人、にすぎない、のである、から、代表(主体性)は、大衆民主主義においては、大衆の満足のいくような、事態の好転、が、ない限り、常に、プラグマティックに、交替し、浮動する、ことになる。
しかるに、保守層(権威主義者)は、高圧的な権威‐権力、の回復、を望む、ようになる。
もっとも、手っ取り早い、その対策は、軍隊の力を、政治的な場に導入して、絶対的な規律を、徹底化させる、という、安易な‐短絡的な、軍国主義的な発想、であり、逆に言えば、それしか、ない、のであり、つまり、武器、という、極めて現実的な‐物理的な、実効力‐実行力(暴力性)に、頼る、しか、高圧的な権力‐強制力は、存在しない、のである。
官僚制(主体性)は、中立的な、中間に位置し、そのような自己性の物語をも、熟知した上で、主体‐自己の、物語的な総体、を、管理‐統御し、配置‐統制する、支配‐操作、の、能力機関(物語機構)でなければ、ならない、のである。
