そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


われわれは、物語(社会的規範としての主体性、の物語)によって、自己の統一性(アイデンティティ)を、先取りする。つまり、規範的な他者(鏡像的分身)の視点と、同一化する、ことによって、はじめて、自分自身を、認識(反省)する(公の存在として規定する)。
すなわち、自我、とは、疎外された自我、と、関わりを持つ、虚構の自我(自我という物語)、なのであり(要するに、主体‐自己の二重体、である、ということ、である)、そこでこそ、失われた自己‐内面的直接性、という、幻想(自己性の物語)、が、社会的自己の補完物、として、主題化される(生じる)、ことになる。


社会に先在するコード(既存の物語)によって、生み出される、こうした、社会的自己(主体性)、と、直接的な自己(自己性)、の物語、すなわち、一対の自我物語(主体‐自己の二重体)、ではなくて、自ら自身において、コードを創り出していく、契機、が、主体化、である。
それは、自らの記号表現を、記号内容化する、意味形成性、である。


たとえば、愛する者同士(恋愛)は、互いに、相手を、あるがままに、受け容れよう、とし、あるがままのもの、としてとらえ、他者の視線‐社会的言語活動(物語)、が、もたらす、イメージ化(偏見)、を、免れさせる、主体化、としてある(愛は、社会的偏見‐因習、を超える。愛は、どのような困難、をも乗り越える。キリストの愛は、社会、を超える。等々)。
愛の空間とは、主体化、であり、社会的な言葉‐物語、の、無意味なイメージ‐死、の、停止、によって、生み出される。
このような、恋愛の意味形成性(主体化)、を、再び、社会化‐物語化する、回収装置が、結婚という制度(物語)、である。


こうした、恋愛(主体化)の概念、は、近代的な自我(独立した個人‐市民)、の成立、のために、不可欠なもの(契機)、として、日本の近代化において、公式に、西欧文明から輸入されたもの、である、が、それには、結婚という、恋愛(主体化)の歯止め(制度化)、が、セットで、組み合わされている、のである。
純粋な恋愛は、それ自体が、社会的物語に、分節化されていない、主体化(自由‐狂気)の可能性、であり、それ自体における、全体としての意味(意味形成性‐創造性)、を持つ、から、である。


歴史闘争‐英雄的冒険(主体化)、の緊張、から、解き放たれた、その終焉の時代(あらゆる主体化の物語化)を生きる、最後の人間(末人)の世界、としての、現代(グローバル化した物語世界)、は、要するに、何もかもが、反省化された‐物語化された、物語世界(情報化社会)、であり、人間は、物語の、安逸と退屈、の中で、退化し(痴呆化し)、もはや、主体化(自由‐狂気)は、恋愛、ぐらい、しか、残されていない、のである。
それどころか、あらゆることが、均質的な情報‐物語に、作り変えられていく世界において、人々に残された、偶然性、としての、恋愛、でさえ、もはや、はじめから管理された(日本の輸入恋愛のように)、偶然性、のイミテーション(模造品)、に、すぎない、のである(反社会的な私秘性、としての、自己性の本領である、と思い込まれている、性愛‐セックス‐愛欲、も、隅々まで、物語化‐情報化‐産業化、されている)。


物語的な無風状態‐物語的な鎖国状態、においては、何もかも(衣食住、旅行、趣味、娯楽、生の種々折々のイベント)が、様式化(スノッブ化)し、時間つぶし、としての、無意味な洗練化(美学化)、が進行する、だけ、である。生のすべて、のパターンが、出尽くす、ために、それらを、適当に、引用し、リミックス(差異創出)して、消費する、だけになる。
すなわち、もっぱら、見かけの新鮮味(差異)のために、無意味な形式の反復と洗練(要するに、物語の再生産)、に没頭する、のである。


人間は、物語の中で生きている限り、不可避的に、末人、であり、自分の意志で行動している、つもり、でも、実は、物語によって、動かされている、操り人形、である(われわれは、およそ、人間‐人心、というものを、隅々に渡って、掌握している‐知悉している‐情報化している、官僚制度‐エリート主体、の、考案する物語‐人生、に沿って、生きている、と言って、過言ではない、であろう。反エリート意識、さえが、そこで、用意された物語、である)。


そうしたこと(物語の瀰漫‐専制)、自体を、意識化する、こと、こそ、が、主体化、であり、主体化を契機にして、のみ、物語からの、ずれ、が、生じる。
よって、物語は、こうした主体化を、排除する、ため、その、代理表現、として、物語的同一性(全体性)の外部に、物語の構成する現象(客観的世界)、の中には、決して入らない、超越的な物自体、としての、理念(イデア)、を仮想する、のである。
物語は、理念的な、仮象、なしには、生きていけない、虚構、であり、理念は、不可欠な、唯一の根拠、として、物語的虚構内の、不具合‐不備‐不満、のすべてを回収する、万能の容器(空っぽのシニフィアン)、であり、そうしたものとして、想像的に、物語的虚構を、統整する、のである。
理念は、今ある、物語、への、全面的な肯定、以外に、何らかの望み‐逃げ道、が、ある、と、幻想的に想定する、もの、であり、そうして、何らかの、有形無形の、すべての、願望‐望み、を、繋ぎとめる、救済‐ユートピア(空集合)、という物語、であり、すなわち、それ自体、制度的な、二次的な物語、なのである。


現代とは、このような、ある意味では、かつては、素朴に‐敬虔に、信じられていた、こうした、超越的な、救済‐ユートピア(外部)、の物語、さえが‐すらが、単なる物語(絵空事‐仮想)、にすぎない、という、自覚が、ぼんやりと拡がりはじめている、時代‐物語的な閉域、なのである。
物語という、意味の共同性‐社会の共通語、によっては、おさまりきらない、何か、は、共通言語による説明、によって、意志の疎通をはからないような、主体化、において、のみ、確保される。
しかし、そのような、何かは、すぐに、物語へと、回収され‐内面化され、物語化される。


公に認知されうる、個人の歴史(人生)、の物語、以上に、その人、そのもの、であるような、本当の自分、というもの、も、そうして、回収され尽くされている。
もちろん、公の物語(規範的な主体性)は、すべてを覆えない、からこそ、単独性、としての、身体‐思考、の物語、が、自己性の物語として、補完的に、存在する、のである。
超越的な救済‐ユートピア、とは、それ(失われた自己性、の回復、の物語)と、連動した‐相関した、物語、である。つまり、いつかは、十全な自己を、とり戻せる、という、幻想‐物語、である。


物語の蔓延する、現代(物語的な閉塞)、では、灰色の、物語的な、痴呆‐退化、において、自堕落な、自己救済‐自己回帰、への惑溺、が、真摯な生、である、かのような、錯覚のもとに、局部的な、個別の、満足、を求める、すなわち、私秘的な‐独特な、感覚や感情や心象、など、に固執していく、自分探しの物語が、希薄に蔓延っている、のである、が、そうした、自分は自分である、という、物語、自体が、すでに、共有される、共通語そのもの(数多の、知識人や芸術家が、それを饒舌に語っている)、なのである、から、人々は、個人的どころか、そのような公の物語によって、分節化されているにすぎない、のである、から、それをも、拒否する、ところにしか、主体化(真の自己創造)は、ない、のである。