物語(同一性‐全体性‐秩序)、が、主体化を一掃する、ことは、ある意味では、正しい。多くの人が、主体化すれば、既存の物語‐秩序は、もたない(崩壊する)、から、である。
もとより、秩序は、複数性‐多数性としての人々、からなる、集合‐集団を、一元化する形式、である、から、独創的な(個人的な)、主体化(形式化)に、人々が、戸惑いはじめたら、社会(物語的な一枚岩)は、成立しない。
物語とは、みんな‐全員に、わかる、ような、透明なイメージによって、そうした、公に共有される、単一的なイメージ越しに、現実をとらえる視線を、全員に、平等に、与える(強要する)、もの、である。
この、平明さ、の専制、のためには、当然、主体化‐異物(他者性)は、排除されなければならない、のである。
物語は、様々な、表層的な現象(見え方)、が、実は、隠された何か、の関数である、という、構造、としてある。
この、隠された何か、とは、物語自身によって、仮想された、その外部の、超越的な、一なるもの(イデア‐本質‐真実)、であり、すなわち、表面的な、同一性の表象、を保証する、その、根拠となるもの、である、が、まさに、それこそが、物語‐秩序の起源、としての、排除された主体化、の、代理表現、となるもの、なのである。
したがって、物語というもの、が、収斂されていく場、というものは、結局、男性中心主義、もしくは、女性中心主義、であり、すなわち、それは、まさに、隠された本質‐性器(秘宝‐大事なもの)と、交流することこそが、究極の目的である(現実の本然である)、とする、性器(本質)至上主義、である。
多様な、表層的な交流(コミュニケーション)、とは、間接的な、性器(本質)の駆使、である、と見做すのである、が、哲学(形而上学)とは、まさに、こうした、思考(接合)に、相応しい場、が、人間には、備わっていて、その、特権的な場所、においてしか、他(表層‐現象)と、交わらない、とする、姿勢、である。
そのような、特権的な場所‐隠された本質、は、多岐的な‐混乱した、時流(表層‐現象)、に流されない、究極の、不動の、根拠、であり、哲学とは、そのような、究極の根拠(物事の本質)に、基づく、距離の意識、である、が、そのような、究極の根拠こそ、主体化、を、抽象化した、その、代理表現、なのである。
社会‐同一性の物語、が、必要としている、のは、普遍的な同一性、であり、人々は、意識的‐無意識的に、それに、応じて‐同調して、生を営んでいる。
そのような、普遍的な同一性、としての、本質‐特権的な場所、の関数として、のみ、世界(現実)と関わろうとすること、が、知性(良識)、と呼ばれる、のである。
このような、物語‐規範的主体性、の、絶対的な優位、に対して、それに、対置される、今一つの物語(反物語の見かけ‐体裁を持つ、物語)、が、副次的な物語、として、想定される。
すなわち、それは、メインの(主流の)物語(主体性の物語)、のもとでは、抑圧されている、ような、何か、を救おうとする、自己性の物語、である。
つまり、表向きは‐表立っては、存在しない、が、いわば、本質‐特権的な場所(仮想の、超越的な、本質)を、仮定せずに、つまりは、主体性を、経由せずに、むしろ、それらを無化する、ように、世界と関わろうとする(交流しようとする)、姿勢、である。
要するに、背後(超越性)を欠いた、いわゆる、エクリチュール(表層)、の複数性、に、こそ、身を委ねようとする、物語、である。
しかし、それ(エクリチュール)自体、あくまでも、物語的志向、そのものが、発見する、同一性(一元性‐一元論)の物語、に対立する、限りでの、それを補完する、限りでの、均衡(同一性)に達することのない、力の作用する場、としての、多数性‐複数性(差異)、の物語、であり、物語的志向によって、発見されなければ、それ自体としては、存在しない、同一性の物語を前提とする、その二次的な物語(二次的な効果)、として、のみ、主題化される対象、なのである。
そのような二次的な物語(エクリチュール)は、物語である以上、結局のところ、その、反普遍的な見かけ、とは、裏腹に、それ自体、普遍性、を狙っている、ものである。
要するに、それは、さらなる、知性(学術‐芸術)であり、メインの同一性の物語、に依存した上で‐を肯定した上で、逸脱的な普遍性、に対する意志(大衆的な、政治‐経済的な物語‐権威に、反旗を翻す、学術的‐芸術的な意志‐ディレッタント的な高尚な趣味)、として、それ自体、逆説的な、超越的なもの、を求めている、のである(現に、エクリチュールは、アカデミックな権威主義‐ディレッタント的な教養的価値、と化している)。
どちらを持ち上げる、にしても、いずれにせよ、両者(メインの物語、と、二次的な物語)は、共犯者的(相互補完的)であり、メインの、同一性の物語が、広く信じられている、風土、の上で、それ自身が抑圧している、何かを、それ自身によって主題化‐対象化した、多数性‐複数性の物語を、自らの補完物として、必要としている、ということ、なのである。
つまり、同一性に基づく、描写‐表現、につきまとう、エクリチュールの物質性、すなわち、言葉(記号)の字面に触れて‐引かれて、言葉が言葉自体に感応して、言葉が言葉を発見する、ような、言葉が言葉の上に反り返る、形で、膨張していく様、に、人が、巻き込まれ、新たな自己を発見する、といった、事態、は、まさに、それ自体、物語的志向が、発見‐生産‐創出、するのであり、それをも、メインの物語‐同一性は、自らに、回収する必要がある‐回収しなければならない、ということである。
同一性の物語は、それが書かれた(表現された)時点で、完結している、のに対し、その事後において、それが、綻びを生じてしまう、可能性、が、二次的な物語的志向(欲望)によって、エクリチュールとして見出され、その、字面‐表現、自体が、直に、語りかけてくる、ということが、起こる、ということ、なのである。
つまりは、同一性を脅かす、アナーキーな‐出鱈目な、物質的力の噴出、する、危険、を、エレガントな、学術‐芸術、的な物語(高度な技術)、として、開発し‐回収する、ということ、である。
もちろん、はじめから、そのようなもの(エクリチュール‐物質的な力の横溢)は、つくれない。
われわれは、言語活動‐表現活動、において、本質中心主義的な、普遍的な同一性の権力構造、の、抽象性に、支配され、身を委ねて、いなければ、何も思考できず、そうした、物語的な、身の施し方、の上に立って、こそ、そして、なお、副次的な物語的志向、に身を任せて、こそ、エクリチュール(言葉の物質感、との、具体的な戦いを、生きること)の問題は、生じる(見出される)、のである。
はじめから、それ(エクリチュール)自体が生きられること、など、あり得ず、すなわち、物語的な動機、が、なければ、エクリチュールなど、そもそも、存在せず、あくまでも、メインの物語を、補完する‐補強する、二次的な物語として、エクリチュールは、出現する‐創出される、のである、が、ある時、むしろ、そのような二次的な物語を、メインの物語に据えた方が、社会、あるいはアカデミズム的な世界、において、得、なのではないか、という、逆転した力、が、はたらく時、まさに、それは、気の利いた、先鋭的な、知性‐学問として、体系化され、公的な物語として、確立され、市民権を得る、ことになる、のである。
そして、この、ある時、とは、それ(エクリチュール)自体とは、直接、関係のない、社会的な大状況(資本主義経済‐市場経済、の状況)における、差異‐商品の創出に、それが、うまく、合致した、時、である。
もちろん、両者(メインの物語、と、二次的な物語)は、いずれにしても、常に、表向きは、反目‐敵対し合って、相互補完的な関係をとり結んで、共通の価値体系(同一性‐秩序)、の見かけ(幻想的虚構)を、形づくっている、というだけのこと、である。
