そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


主体化、というのは、絶えず、物語(文化)的な、共通了解(同一性)、と、闘っていなければ‐いない限り、実現され得ない、絶対的な差異、であり、それに対して、物語‐文化、というものは、同一性のイメージ(相対的な差異)、の交換、であり、固定的なイメージの交換によって、伝播する、もの、である。
物語的な世界‐秩序世界、において、コミュニケーションとは、複数の人々が、同じ物語‐イメージを、共有する‐交換する、ということ、であり、それゆえに、以心伝心が、可能、なのであり、そのような、暗黙の了解に基づく、共感の連帯、としての共同体、が、生じうる、のである。


それとは、逆に、主体化における、コミュニケーションとは、同じ物語‐イメージの共有が、不可能になった時、にこそ、はじめて、起こる、もの(共振)、である。
つまり、物語‐イメージの交換を支えている、均質的な‐同質的な、思考の場‐物語的な(文化的な)磁場、に、不均衡‐亀裂、をもたらすもの、が、主体化、なのであり、そのことへの饗応が起こる、ということなのである。


天照大神(太陽の神)、とは、主体化、である。
それ自体は、まさしく、光、である、ために、まぶしくて不可視(あるいは、透明)、である。
ところが、それが、光り輝く超越性、として、照らす世界‐地上、は、生命の場(過剰な生の場)、であり、生殖‐死‐腐敗‐再生、という、バロック‐アイロニー‐パラドクス、に満ちた領域、である。
つまり、光(主体性)の帝国主義、により、照らし出された、事象(生命的な諸現象)、は、すべて、光の専制に、さらされ、巻き込まれて、隠れ場所を失う、のであり、あらゆる、卑小な細部に至るまで、忘却(暗闇)から、救い出され(引きずり出され)、脚光を浴びる(対象化される)、のである、が、同時に、すべては、光の論理にとらえられ、どこへも逃れることは、できなくなる。
そのように、光の帝国主義は、すべてを、支配し、単一なる、透明性‐同一性、へと、回収してしまう、のである、が、しかし、それは、地上の、統一を持たない、無根拠な‐無限定な、多数性(差異性)、を露呈させてしまう、ことにもなる、のである。
すなわち、光(主体性‐単一性)は、自らの効果のもとで、無数の事物の表層のきらめき‐揺らぎ‐移ろい(自己性‐複数性)、へと、分散‐失墜、させられてしまう、ことにもなる、ということなのである。


では、その、露呈した、複数性‐差異性の混乱‐混沌を、どう、表現する‐思考する‐まとめる、のか、という時に、仏教‐物語(の形式)が、登場する。
主体化における、日本人の思考の、複数化の混乱、において、そのような様態の自己表現のために、日本人は、仏教という、外来思想(物語形式‐秩序体系)、を、採用し、それを原理とする同一化、に向かった、のである
仏教という、当時、最先端の外来思想、は、聖徳太子によって、諸豪族(諸勢力)の統一化、のための、超越的な原理(理屈)、として、導入される、のである、が、外来思想(知的体系)は、すでに、それ自体として、超越的な力を帯びている、ために、誰にとっても、しがらみのない、中立的(中性的)‐客観的な、超越的な的な原理‐規範、として、内部の人々に、受け容れられやすい、のである。


もともと、太陽神、という、超越の機能‐統一的な秩序を与える機能、は、それ自体が、形而上学、であり、つまり、男性中心主義、としての、清き、あかき、単一性の世界、であり、女性的な、生殖性‐生命的過剰‐矛盾する生の場、を、排除する、ことによって、こそ、思考の体系化、を、可能にする、もの、である(神事‐まつりごと‐儀式、から、女性は排除される)。
つまり、それは、分析し得るもの‐主体性、と、分析し得ないもの‐自己性、とを、分離する、ということであり、主体性‐秩序、とは、そのような、分裂‐二重体、なのである。


情報化社会にあっての、情報、とは、物語‐イメージ、であり、差異ではなく、差異のイメージ(同一性)、ばかりを、大がかりに、伝播させる‐流通させる、ということ、である、が、そのような、物語的な閉域‐知的な鎖国状態(同一化の専制)、の徹底、が、危険なのは、イメージとだけ、戯れながら、事態‐現実を、理解‐納得した、つもりになる、ことで、何かを、代償として、排除している、からで、ある、という、ありうべき、物語批判、が、それ自体、二次的な物語、として、メインの物語、支える、という、相互補完的な体制、が、この、主体‐自己という二重体の秩序、である。


物語批判(制度批判)、が、結局、それ自体、物語である、という、ことである、から、そうした、制度‐物語批判は、制度‐物語を解体する、ようでいて、実は、むしろ、制度‐物語の、補強、につながるもの、なのである、ということ、なのである。
すなわち、フェミニズム、や、ユートピア志向、や、失われた本当の自分、や、差異そのものを生きる、といった、自己性の物語、であり、それら、反制度‐反物語、自体が、まさに、形而上学(亜流の形而上学)そのもの、なのである。


自己性は、見えないもの、であり、存在しないもの、であり、すなわち、均衡(同一性)に達することのない力‐複数性、の作用する場、であり、その喪失、と引き換えにして、こそ、主体性(物語‐秩序)が、成り立つのである、が、しかるに、自己性の全面化、は、即、主体性の崩壊、であり、主体性、という、表象‐代行作用、が、完全に、機能しなくなる、ということ、なのである。
したがって、だからこそ、自己性の物語が、必要なのであり、それゆえ、失われた自己性を求める、という物語は、そもそも、主体性の物語‐メインの物語を、前提としており、そのもとでしか‐その限りでしか、対象化‐主題化、され得ない、副次的な物語、なのである。


秩序が、主体性‐男性(冴えた人物‐エリート)、を、必要としている、のは、われわれの思考(表象‐代行作用)そのものの、必然、である。
それ(表象‐代行作用)が、崩壊すれば、精神病的な事態が、一般化する、だけ、である(フェミニズムが、結局のところ、男のような女‐独立した主体性、を目指し、男性‐代表の地位に、そのままとって代わろう、とすることに、終わる、のは、そうしたわけ、である。フェミニズムが、なしうることは、制度そのものを揺るがすような、価値観の変換、などではなく、単に、差別的な法の不備を、たんたんと、整備‐改善する、こと、だけ、である)。
主体性(規範的な主体性‐物語)は、主体化の代理表現であり、その空白を、埋める、ために、主体性‐エリート‐代表、の養成を、意図的‐人為的に、試みなければならない、のである。


何ものにも代表されない、という、代行の否定は、不可能、であり、言語(言語‐思考)の否定、である(フェミニズムも、代表制度の上にあり、男性中心主義的な代表、と同じ、その延長上にある、女性中心主義的な代表、を、求めている、だけ、である)。
代行制度、によって、真に隠されているものは、代表(エリート)によって、代行されているもの(凡庸なもの)、ではなく、主体化そのもの、なのである。
主体性‐代表による、分析と総合、という、物語的思考、の否定は、結局、新しい分析生‐主体性、の確立、であり、その確立が、物語へと回収される、際に、その主体化(行為‐創造)自体は、排除され(消える媒介者)、そうして、主体化(行為‐創造)の忘却の上で、確立される、物語‐意味‐観念的な抽象性、の専制、においては、物語自身が、自前で、主体性‐代表を用意し続けなければ、ならない、ということである。


そのような主体性‐物語‐秩序(メジャーな物語)のもとでは、義務(同一性‐規範性を守る義務)、の意識ばかりが、先行する、ために、マイナーもの、の、権利の擁護が、必然的に、叫ばれる、ようになる、のである、が、それが、失われた自己性を求める、という物語、を形づくる、のである。
規範的な主体性における、義務とは、要するに、住居と食べ物と趣味、といった、文化的な関心、にだけ、つまりは、快感原則的な現実主義(ブルジョワ的な現実主義)、にだけ、関心を抱く、ことを義務、とする、もの、である。
しかるに、それを補完する、二次的な物語、としての、それ(規範‐義務)に対抗(対立)する物語(自己性の物語)は、凡庸さ‐庶民性‐女性性、などといった、メインの物語においては、見失われがちな、きちんと代表されない、ような、マイナーな要素の、復権、を、目指すもの、であり、さらに、それが、急進化‐過激化、すれば、苦痛‐死、とぃった、差異(要するに、エリート‐ブルジョワ‐支配層‐権威、が、目をそむけるようなもの‐嫌悪を抱くようなもの)、の権利‐を代表する権利、を、要求する、ようになる(たとえば、先鋭的な前衛芸術のように)。


しかし、そのような、マイナーな物語(相対的な差異)が、主流になる、ような、場、においては、結局のところ、今度は、その物語(マイナーなものの権利要求‐マイナーなものの代表の物語)が、義務(そのような同一性への同調圧力)、であるかのように、なる(思われるようになる)、だけのこと、なのである。
しかし、物語に、回収し得ない、主体化、とは、何ものによっても、代表されない、何ものをも、代表しない、という、不可能な様態(絶対的な差異)、のこと、なのである。