現代とは、何々主義、という、大きな物語‐無数の主張、が、熱狂的に語られ、その英雄的決断‐行為の影響のもとに、それなりの、何らかの、現実的な、変化‐変革‐成果(生産‐進歩)、を、もたらした、その結果、物語という物語(卑小な現実性)が、その成果を、まんまと簒奪し尽くしてしまう、という、幻滅の挙句の果てに、すべてが、こじんまりした、紋切り型‐物語、にすぎないことが、露呈されて、記憶の収蔵庫の中に、堆く積み重なっている、という、すべての実験‐実践(冒険)、が、やり尽くされれた‐は、もはや不可能である、かに見える、状況(いわゆる、ポストモダン的状況)、である(それ自体、紋切り型‐物語、であるが)。
このような、閉塞(しらけ)状況から、出発する、主体にとっては、もはや、生きた言葉‐行為(プロジェクト‐大いなる冒険)、を信じること、が、できず、すべては、すでに、語り尽くされてしまっている‐やりつくされてしまっている、手垢まみれの物語(死んだ記号としてのアレゴリー)、であり、すなわち、過去の物語を読む(反省する)、ことの、物語(アレゴリー)、なのである。
物語は、人に所属するもの(錯覚としてであれ)、ではなく、人は、むしろ、物語に所属する、という、事態が、あきらか‐あからさま、なのであり、物語と関わること、によってのみ、自らの命を、探っている、のである。
行為(生産)は、軽視され、物語を読むこと(流通)、だけに、すべてが、還元されてしまっている、のである。
要するに、あらゆることが‐生のすべてが、反省化、され、ノウハウ化、されていて、すなわち、物語化‐ジャンル化、されてしまっていて、人生とは、それらを解きほぐすこと、聡明に、選択し、コラボレートする、こと、であるかのよう、なのである、が、しかし、反省化(考えすぎ)が、進むと、むしろ、われわれは、何もできなくなってしまう、のである(たとえば、最良の結婚、について、反省し、ノウハウから、その条件を逆算すると、最適の条件にとらわれすぎて、むしろ、人は、結婚‐行動‐身動き、できないようになる。というのも、そもそも、結婚、ばかりでなく、生きること、は、賭け‐決断‐行為、である要素、が、大きい、からで、それを、計画には、還元できない、からである。過度な反省化は、賭け‐生そのものを、否定するようになる、のである。計画通りでないと、気がすまない、賭けをしない、ということは、生‐成功、そのものを、取り逃がす、ということである)。
物語は、物語だけ、では、成立していない。必ず、その底を抜いてしまうような、主体化(プロジェクト)が、むしろ、それを、支えている。
しかし、それは、物語(反省化)には、具体的に、見えない、のである。
しかるに、その、代理となる、言葉‐物語、が、本質、という、仮想された、超越的な真実(イデア‐理念)、である。
物語、という、思考の体系化、の前提、には、必ず、本質、があり、それが、物語という表面‐表層、においては、隠されている、究極の根拠、である、とされ、つまり、その、表象され得ない‐構造化され得ない、究極の根拠、が、裏から‐背後から、その表面的な、物語の形成を、物語‐秩序体系の正当性を、支えている、とされる、のである。
要するに、雑多な差異、からなる、過剰な世界‐存在(自然)、を、物語として、同一化‐体系化、する、際の、その暴力的な還元‐一元化、の、根拠となる、のが、本質、という、絶対的な唯一性(普遍的な一なるもの)、である、ということである。
この、唯一性、の、仮想的な、表象、は、様々ある、が、それこそ、まさに、主体化、の、代理表現、なのである。
こうした、代理表現によって、主体化を、そのものとしては、排除し、その野蛮さ(不可解さ)の突出、を回収して、物語という、文化的な共通了解が、形づくられ、その、首尾一貫性(同一性)の、円環を閉じる(閉じようとする)、のである。
たとえば、ブッダの悟り、という、主体化(他者化)は、違和の発生、であり、仏教、という物語は、その不可視の、異質性‐過剰性(他者性)、を、表現した(代理表現した)、表現形態‐物語、である。
主体化そのものは、それ自体としては、存在しない、ので、それを、普遍的な、表象の体系‐言語と哲学の体系、へと、内面化したもの、が、物語、なのである。
キリスト‐主体化、と、聖書‐物語、マホメット‐主体化、と、コーラン‐物語、孔子‐主体化、と、論語‐物語、なども、同様の関係、であり(誰も、自ら、物語を書いたりしては、いない)、主体化‐ディコンストラクティブな違和、を、表現化‐物語化、した、のである。
超越的なもの(根拠)、という表象は、主体化の代理表現、であり、したがって、語りえない‐表現し得ない、もの、がある、ということ、である、から、そのような思想、は、そのものが、ある種のニヒリズム(人間は、所詮、超越的な真実に、届かない、有限性‐無能、である、という、ニヒリズム)、の、あらわれ、である。
しかるに、超越という概念なしには、洗練され得ない、体系的な概念‐表現する技術、としての、そうした思想‐物語、は、肯定、よりは、否定(偏差‐欠如‐不在)、というように、結局のところ、何かを差し引いていく、ような、形でしか、物語が‐物事が、考えられなくなってしまう、のである。
もともと、哲学とは、男性(男性の秘密結社)のもの、であり、すなわち、(男性の)社会の中で、女性‐生殖、という、自然の力‐自然性、の、過剰‐差異、を、形而上学化‐内面化、する、ということ、である。
仮面で表象したり、踊りで表象したり、神話で表象したり、という、形而上学化、では、女性‐自然性、が、そのものとしては、排除される、のである。
しかるに、形而上学‐哲学(すなわち、物語)、というものは、はじめから、同性愛的‐同一性的、であり、同性愛‐同一性(単一性)は、物語‐表象(文化的な共通了解)、の、土台、なのである。
古来、儀式、とは、思考の体系化(同一化)、であり、野蛮(具体的な、自然‐差異)を廃し、抽象的なイメージの体系‐物語という全体性(同一性)、の中で(の上で)、様々な、差異と同一性、を識別する、という、同一化(内面化)の手続き、である(男性優位社会は、自然における女性優位‐母権制、に、対抗して、生じた、文化の形成、である。もちろん、その根底には、われわれという、主体‐自己の分裂‐二重化、がある)。
しかし、主体化そのもの(真の創造的思考)は、イメージ(イメージを伴った思考‐表象の体系)を、伴っていない、イメージなき思考‐思考の零地帯、なのである。
それは、裸形の思考(脳力の高まり)、であり、何かについての思考、では、ない。だからといって、それは、超越的なもの、では、ない。
しかし、そのような、同一化の手続きとは、異なる体験、としての、思考の体系化を廃する、もの、としての、主体化‐野蛮(自由‐狂気)、を、物語へと、翻訳しようとする、と、表象し得ないもの‐翻訳不可能性、としての、超越的なもの、とする(と見做す)、他はない、ということなのである。
