そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


主体化とは、行為(贈物)、であり、その、内容、ではなく、その、行為(形式)、自体、が、贈物(奉献)、なのである。
そうした行為自体、が、その行為自体の中で、高められていく、それが、まさしく、倫理、の原理、なのである。
何一つ、与えることの、かなわない、主体化‐行為、は、奉献(という行為)そのもの、を、捧げる、のであり、内容(言うべきこと‐意味)、のすべてが、そこに、吸収されていく、のである。


もちろん、倫理、のために、である。
主体化そのものの中に、完全に、含まれてしまう、ような、空虚なメッセージ、こそ、倫理、であり、倫理にとって、行為は、貴重な(唯一の)、補い、なのである。
行為する、ことで、主体化が、倫理に与えている、のは、行為を通じての、主体化、であり、倫理のせいで、主体化が陥る、沈黙、である。
主体化‐行為は、何を意味せんとする、もの、でもない。
だからこそ、主体化‐行為は、倫理に、贈られている、のである、ということが、わかる、のである。


主体化‐奉献、と、それに続く、その跡づけ、としての、遡及的な意味づけ、である、物語、との、間には、ほとんど、必然的な関係がない。
主体化‐行為が、与えるものは、物語的な解釈(物語的な内面化)、が、可能であり、物語は、単なる行為、を超えた、意味、を、いくらでも、後から、持ってくる。
しかし、まさに、そのことによって、倫理、を欠いた、そのような物語(物語的な内面化)、の言葉は、でたらめな(あてずっぽうな)、意味、に、充電されすぎている、のである。それゆえ、物語は、断言し、否認し、詭弁を弄し、威を誇っている、もの(現実的な権威主義)、となる、のである。
物語的な、非現実‐ユートピア志向、は、不可視の倫理、にとって代わる、もの(超越性の夢想)、であり、物語の掲げる、現実拒否(すなわち、主体化‐行為の拒否)、が、仮想のユートピア的な超越性の幻想、を通じて、表白される、のである。


物語を取り巻く、すべてのもの、が、この、想像(空想‐幻想)、という機能、との、関わり、において、その価値(存在様態)を、変える、ことになる。
そうして、想像‐超越性、のもとに体系化される、ことになる、そのような物語的な現実(秩序‐意味世界)、からの、脱現実(脱意味)、としての、主体化‐行為は、想像の内には、なく、物語を凍りつかせ、石化させる、物語によっては、代替不可能なもの、なのである。


主体化は、その行為、以外に、いかなる指示対象(意味‐物語)も、持っていない、純粋な、遂行性(遂行的行為)、である。
主体化は、それが、行為される時に、しか、意味(意義)を持たず、その、直接的行動、以外に、いかなる情報も、含んでいない。
意味の、予備も、蓄えも、なく、むしろ、すべてが、投げ出された、行為、そのもの、の中に、ある、のである。
この、主体化に欠けている意味‐意味の欠如としての主体化、を、物語は、コード化(文化的記号化)、してみせる、のである。
たとえば、禅(風流‐感性)、という、物語、においては、さび‐孤独、わび‐物事の信じ難い自然さがもたらす悲しみ、哀れ‐郷愁、幽玄‐不可思議の思い、といったように。


主体化が織りなす諸々の出来事は、すべてが、驚くほどに、無意味なこと、ばかり、である。
最高の生真面目さ、と、結びついた、この、無意味さ、こそが、物語にとって、不都合(理解不能)、なのである。
物語は、それを‐そのような不可解な様態を、感傷‐狂気(気の迷い)、として、括ろうとする。
そうして、主体化の無意味さを、みすぼらしいもの‐惨めなもの、に、貶めようとする、のである。


すなわち、この世界には、意味のあること(有意義なこと)、が、数多く存在し、多くの人が、まさに、意味(意義)、のための、苦しい闘争、を続けている、というのに、主体化の無意味さ、は、極端(理解不能)、であり、それを、引き取ってくれる、もの、など、なく、それに、侵犯行為、としての、強力な価値、を与えてくれる、もの、もない、というように、主体化の孤独は、無力で、一切の飾り(物語的装飾)を、剥ぎ取られている、のであり、物語は、それを、狂気、でなければ、低俗なナルシシズム、心理的なみすぼらしさ、退嬰的なムード、病的なセンチメンタリズム、卑小な独りよがり、など、である、とする、のである。


そこ(主体化)には、壮大な理想、がない、と、物語は、言う。
しかし、実際には、いかなる壮大な理想(結局は、物語的な空想‐幻想のシナリオ)、にも、あるいは、粗野な物質主義(実直な現実主義)、にも、結びつかない、こと(主体化の無意味さ)、が、かえって、その、壮大さ、なのである。
社会的に‐物語的に、誰も、それ(主体化)を、認知しはしない、が、その無意味さ、こそが、倫理なるもの、の、本当の、肯定、なのであり、弁証法的な、全的合意、として、言語‐思考、の極点、が、不可視の倫理に、合致しうる、不可能の瞬間、なのである。
無意味さ、として、言葉になしうる(物語化しうる)、ような、無意味さ、は、もはや、最終的な、無意味さ、では、あり得ない。そのような無意味さ、は、すでに、意味‐物語に、回収されてしまっている、のである。


物語とは、権利の行使、であり、人が、共有している、物語‐言語、の実践、である。それは、物語‐言語を通じて‐媒介にして、互いに、相手の言うこと、に、耳を傾ける、というのでは、なく、物語の公平分割、という、原則、に、人々は、服従する、ということ、なのである。
物語構造に、停止を強要するもの、はなく、いかなる内的制限も、物語を、枯渇せしめることが、ない。ひとたび、物語が、与えられれば、その拡張は、無限に、更新可能、なのである。
というのも、物語とは、最終的な勝利(調和)‐最後の言葉(究極の真実‐イデア的理念)、を、目指して展開する、超‐虚構、であり、一つ一つの葛藤‐言葉の応酬、が、それぞれに、真実の勝利、に、貢献していき、次第次第に、この、最終的な真実、を構成してゆく、というのが、物語り的構想(空想のシナリオ)、だから、である。
最後のセリフ‐最後の審判‐究極の救済、が、勝利(大団円)をおさめる(はずである)、というわけである。


しかし、実際には‐現実には、そのような、超越的な結末、は、物語的な空想(究極の真実、という幻想)の中にあり、到達し得ないもの(夢想)、として、いつまでもやって来ない、のである、から、「ゴドーを待ちながら」(ベケット)のように、ただ、際限のない過程において、果てしない、お喋り‐物語、が、続くだけ、なのであり、その、折々に、おいて、常に‐いつも、最後のセリフ(断定‐裁定)、を、言う‐下す、のは、究極の超越的な真実、の代理人(代表者)を、自称する(自認する)‐僭称する(気取る)、この世の支配者‐実力者‐権力者(社長、政治家、判事、教師、指導者、聖職者、など)、なのである。
そして、主体化とは、このような、最後のセリフ、を、断念する、反ヒロイズム的な、モラル(倫理)、なのである。