そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


人間(主体‐自己)は、主体化(形式)、によって創造される。
人間は、疲れを知らぬ、主体化の、担い手‐創造者、である、ことによって、自らを創造する、のである。
人間は、主体化‐形式、越しにしか(を介してしか)、他者と接することが、できない。
ある主体化‐形式を、破壊する、のにさえ、別の(新たな)、主体化‐形式、を、用いなければならない。
人間の自由は、主体化を用いる自由、に限られる、のである、が、しかし、主体化は、いつの間にか、固着し、物語的惰性‐公的な規範的主体性、と化して、個々の人々を、その支配化におく、ようになる。


狂気、とは、物語‐秩序、が、主体化の、規定しようのない、曖昧さ(無軌道の創造性)、に、手を焼くあまり、主体化を、一個の枠組み(物語)の中に、閉じ込めよう、として、ひねり出した、苦し紛れの、形式、の一つ、である。
物語‐社会的な形式‐公的な規範的主体性、の秩序、から、はみ出したもの、が、狂気、である。
狂気とは、少しでも、物語‐秩序、自身が想定した、理念的な全体性(理想的な形式)の、成熟、に、近づく、ために、やがては、そこから抜け出すことが、人間にとって、当然の成り行き、である、かのように、考えられている、自らの起源ではある、としても、一種の、過渡的な試行錯誤‐一過性の修行下、にある、存在‐迷いのある助走、が、身に纏うもの、としての、無鉄砲‐青二才、の様態、なのである。


主体化は、他の主体性‐形式、すなわち、既存の秩序、に対して、常に、逸脱的な、暴力(自由‐狂気)として、はたらきかける、が、そのような主体化‐狂気は、物語が、それを、瞬間的な、気まぐれ‐気の迷い(理由なき反抗)、の類、として、難なく馴致できる(乗り越えられる)、と、確信している(高を括っている)、がゆえに、せいぜい、必要悪、程度の、他愛のない、脈絡を欠いた、野蛮さ、として、つまり、周辺的なもの、として、無視している‐等閑に付している、ために、野放しの状態に置かれている、存在様態、である、と思い込んでいる、が、実際の、実状‐事実、としては、主体化‐狂気、という、その直接性‐無媒介性、を、物語‐形式の、間接的な尺度、では、完全な鋳型にはめる、こと、など、できない、ということ、なのである。


まさに、それゆえに、物語の形式は、完全、ではなく、全体性として、完璧に機能することが、できない、ということなのであり、したがって、物語は、自らの破綻‐破れ目、を取り繕う、ために、常に、自らの完全性を、夢想しなければならない、のであり、常に、物語は、来るべき、仮想的な、全体性‐調和(理念的な秩序の実現の夢)、としてある、のであり、すなわち、ユートピア志向であり、要するに、虚構(超‐虚構)、の専制、となる、のである。
主体化‐狂気、のようなもの、を、跳梁させている、物語は、常に、成熟(自ら、先取りした成熟)を目指している、が、とても、成熟したもの、とは、いえない、ということ、なのである。


狂気(主体化)、という、いかがわしい概念、のもとで‐の周囲で、むしろ、あらゆるもの(可能性)が、貶められ、成熟(主体化)の道を、塞がれている、のである。
しかし、主体化そのものは、その場しのぎの、全体性‐成熟の方便、として、その、一面的な形式‐物語を、受け入れる、にせよ、純粋な主体化‐狂気、そのもの、に、のめり込む、にせよ、主体化にとって、その結果は、絶望、でしか、ない。
主体化とは、物語‐全体性‐ユートピア、のために、という、条件(構え)のもとに生きる、こと、ではなく、無条件に生きる、こと、そのもの、である、から、それは、そのような、絶対的に生きる、ことの、当然の帰結、なのである(すなわち、主体化とは、消える媒介者、なのである)。


しかるに、およそ、物語というものは、そのような、主体化の、帰結‐絶望、を、向こう見ず‐無意味、として、あげつらう、ものであり、要するに、物語‐社会‐秩序、とは、進歩(進歩の夢‐物語、ではなく、極めて、現実的な進歩)、を、否定する、もの(体制)、であり、物語は、ユートピア志向‐理念願望‐机上の空論、の上で、理屈(屁理屈)を並べ立て、規律の数を増やして、とりとめのない、口論‐無償の議論、を繰り返す、詭弁をふるったり、弁論術の微妙なニュアンスを、使い分けることで、主体化を、野蛮な‐粗野な‐非知性的な‐退嬰的な、もの(様態)、と見做して、その不穏なムードを追い払おう‐振り払おう、とし、そうして、狂気へと、押し込められた主体化‐創造力は、せいぜい、文化的な物語‐見世物(狂気の文化的記号)において、口先を弄する、ことの中に、しか、捌け口を見出せない、ようにする、のである、が、こうした、それ自体、無意味な、お喋り‐物語、に興じること、によって、物語は、到達することのない、空想的理念、の実現、の待機、の時間‐空間を、埋め尽くす、のである。


物語とは、全体性‐秩序、であり、そのような、秩序的全体性としての、社会‐共同体、において、はじめて、帰属の形式、としての、個‐個人、すなわち、公的な個人、という、物語(個人的なアイデンティティ、という、物語)、が、生成する。
共同体は、人間的活動の単位、であり、共同体が、抱える‐抱く、自らの根拠、としての、理念‐幸福(物語的な全体性の調和)、への願望‐目標(この、願望‐目標、によって、人々‐群衆、は、観念的に‐物語的に、結び付けられる)、と、常に、そこまで、至り得ない(そもそも、机上の空論‐幻想なのである、から)、こと、の、慢性的な非充足感、とは、個人の心的装置(機制)、の中で、不安‐倦怠感‐閉塞感、となって、あらわれ、しかるに、共同体とは、まさに、個々人における、そうした、不安‐恐怖‐屈辱‐苦痛、によって、その、物語化、によって、さらには、その、物語的な操作、によって、こそ、自身の緊張、を、保つ、もの、である。


つまり、共同体的な、物語、において、現実とは、障害をもたらす‐仕掛ける、もの、であり、すなわち、苦痛を起こさせる、もの、の謂い、であり、現実の人間は、苦しんでいる、もの、のこと、である、とされる、のである。
そのように、人間が、苦しむ(絶望する)、のは、様々な因果において、である、と、説明され‐物語化され、つまり、罪を犯せば、罰が当たる、といった物語(道徳的物語)、が、流通し、要するに、超‐虚構の物語、として、超越的な、因果応報の物語‐超越的な、救済の物語、となる。
そして、そうした、物語的な裏づけ‐物語的普遍性(超越的な理念‐イデア)の裏づけ、を、持たない、むき出しの、自由‐狂気、としての主体化、は、苦痛の最たるもの‐即自的な苦痛、として、位置づけられ、つまりは、狂気(悪)、として、見做される、のである。