そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


秩序‐社会が、主体化という、突然の目覚め‐悟り、を、鎮めようとする、方法、として、物語、はある。
物語は、主体化、を、狂気、として、一般化し、ついには、現実には、物語しか存在しない、と思わせる、物語しか存在しなくなるようにする、のである(もちろん、悟り、などという概念自体、手垢まみれの、物語、であり、すべては‐主体化は、絶望的に、物語に回収されている)。
そうして、主体化(狂気)を、現実との関連において、特徴づけ、その、特殊性‐異常さ、を、主張すること、が、できなくなるようにする、のである。


そのために、物語は、狂気をも、物語に仕立て上げて、決して狂気ではない狂気(たとえば、芸術)、として、扱う。
芸術などのある種の文化的物語(あるいは、革命や戦争や人種差別や宗教対立、などといった、政治的物語)、は、人為的に、狂気を装い、狂気の文化的記号、を、提示する、ことで、人々の狂気(主体化)への衝動‐傾斜、を、回収し、手懐け、決して狂気となることのない、文化的夢想‐遊戯、において、満足させようとする、もの(代理物‐紛い物)、である。


物語とは、一般的なもの(常識)、となったイメージ(ステレオタイプ)、であり、葛藤や欲望に満ちた人間の世界を、例証する、と称して、実際には、それを、完全に、非現実化(虚構化)する。
今日の社会を特徴づけている、のは、マスメディア‐情報産業‐情報テクノロジー、の発展、によって、そうした高度情報(‐物語)社会が、物語、として、ほどよいイメージと化した現実、だけを、消費している(思考している)、ということである。


それゆえ、今日の社会は、より、自由主義的に、なり、狂信的では、なくなる、のではある、が、しかし、まさに、そのことによって(その代償として)、偽物‐虚構、となる。
われわれが、自らの、日常的な意識のうちに、認めざるを得ない、倦怠感‐閉塞感‐憂鬱‐不安、は、そうした、事態、すなわち、物語的な‐制度的な、イメージとしての思考(不実なる、もっとらしさの体系。というのも、そこには、常に、隠された、全体主義的な意図、がある、からである)、の蔓延、を、あらわしている。


資本主義なニューライフ(よりよい生活)への欲望(差異化‐商品化への欲望)、は、まさに、そのような、倦怠感‐欲求不満‐非充足感、をばねにしている‐に動機づけられた、物語(物語的対処法)、である、が、実際には、ますます、物語‐イメージが、普遍的なものとなる、こと(悪循環)、によって、差異のない‐関心のない、世界(間接化した‐間延びした世界における、無気力‐無思考)、を、つくり出している(マスメディアとは、物語、の、専制‐洗脳、であり、その絶え間ない、横滑り、である。)。


そこでは、すなわち、そのような、惰性的な、痴呆的な、灰色の欲望世界、では、物語‐イメージを追放して、直接的な‐無媒介的な、衝動‐情熱‐欲望、を、救い出そう、という、物語、さえが‐こそが、用意され、無政府主義的な、諸々の、周辺主義‐個人主義、の、叫び(放縦‐暴力)、が沸き起こってくる、ことになる。
それゆえ、すなわち、日頃から、そうした不満を抱えている、物語支配、のために、人々は、機会さえ整えば‐好機さえあれば、意外に、簡単に、革命や戦争の(不満解消の)、アジテーション‐プロパガンダ(物語)、に、乗ってくる、のである。


物語とは、一般的関心、であり、すなわち、礼儀正しい関心、気楽な欲望、種々雑多な興味、とりとめのない‐他愛のない好み、などを、含む、極めて、希薄に拡散する場‐まことしやかな常識的な希望だけが行き交う場、である。
つまり、結局、それは、どうでもいいような、好き嫌い‐こだわり(趣味‐娯楽)、の問題、であり、中途半端な欲望や意志、しか、動員しない、ものである。
要するに、教養文化(好事)、あるは、教育(知と礼儀)、であり、物語‐一般的関心、は、それに、根ざしている。


すなわち、人間というもの(物語としての人間)、と、消費者(人々)、の間で、結ばれた、約束事、である。
消費者は、人間なるもの(物語越しに見られた他者)、の、意図、に、出会い、それと、協調し、それに、賛成したり、反対したり、する、のではあるが‐ものの、いずれにしても、必ず、それ(意図)を、理解し、自分自身の心の中で、それを、問題にする、ということ、である。
つまり、意図とは、物語であり、人間は、透明な意図(物語‐イメージ、としての、意図)、に、還元される、のであり、消費者は、それを、読み取れば、事足りる(人間を、理解したことになる、他者との意思疎通が、はかられたことになる)、という、神話、なのであり、それ(人間‐他者の、意図)を、完全に信じる、ということはない、にしても、それに対しては、友好的(敬意を払う)、でなければならない、ということ、である。


そうして、人間と、社会とを、和解させる、のである。
というのも、人間は、危険なもの(不透明なもの‐他者性)、である、からである。
人間の、危険さ‐不透明さ‐他者性、とは、要するに、主体化(自由‐狂気)、であり、主体化が、導くのは、記憶の諸要素、の、開かれた錯綜体、であり、記憶の諸要素、に対する、物語的全体化‐秩序的統御、では、ない、から、である。
秩序‐物語は、ユートピア‐来るべき理念的全体性‐実現すべき調和に満ちた世界、のために、行動しその条件のもとに、生きる、(自らを統制する)、こと、である、が、主体化は、そうではなく、無条件に生きてしまうこと(自由‐狂気)、なのである(それこそが、根本的な、人間の、人間たる所以、可能性‐創造性、である)。


主体化とは、物語(全体性という物語‐成熟という物語)を、精神‐記憶の諸相、から、追い払ってしまう、のである。
主体化は、絶対的な主観性(自分自身にしか、根拠を持たない。真理は、自分自身にしか根拠を持たない、もの、である)、であり、沈黙の状態(物語的饒舌を排除する、努力)、によって、到達される。
目を閉じること(物語を追放すること)、は、沈黙の中で、記憶の諸相に、語らせる、こと、である。
主体化が、心(記憶の諸相)に触れる、のは、物語の、常套的な美辞麗句、技巧、現実主義、芸術、等々、から、引き離された、時、である。


主体化とは、何も言わず、目を閉じて、ただ、記憶の諸相‐諸細部、だけが、意識のうちに、浮かび上がってくる、ようにする‐それらが、自ずと、意義深い輪郭を描く、ようにする、こと(悟り)、なのである。
主体化とは、そこにおける、還元不可能なもの、としての、独自性、なのである。
記憶の諸要素は、絶えず、他の諸要素の方へ、押し流され、引き寄せられていく、が、物語は、常に、同じ構成様式(ステレオタイプ)、を、そこに、導入する、のであり、主体化は、それを、断ち切る、のである。
主体化には、コード(倫理)、がある、が、物語は、それを、読むことが、できない、のである。主体化‐倫理には、物語‐教養文化、が、通用しない、のである。
主体化‐倫理は、物語‐この世の常(常識)、ならぬ、もの、を示す、暴力的な(野蛮な)、もの(自由‐狂気)、だからである。