そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


主体性は、自らの身体から離れた対象を、知覚する時、同時に、知覚の記憶、のストック、の想起、において、可能的‐潜在的行動を、想起する。
そうした知覚‐想起は、まだ、現実的行動となっていない、が、行動(反応‐反射)を、現実化する際の、参照系として、役立つ、行動可能性、のパノラマ、を、提供する。
しかし、主体性が、己の身体(自己性)を、対象とする場合、対象と身体の距離は、失われて、ゼロ、になり、身体的な知覚‐想起を、さらに、知覚‐想起する、知覚‐想起の重層化、となる‐が起こる。
このような重層化が、起こりうる、のは、まさに、主体‐自己の二重体において、である、が、とりもなおさず、それこそが、自意識‐自己意識、である。


この、特殊な‐複雑な、知覚‐想起(の重層化)、こそが、感情、であり、あるいは、感情のもつれ、としての、思考‐思考の混乱、である。
この、多重な知覚‐想起(逡巡)、と、それによる、行動可能性の増大‐増幅、によって、行動の留保、が生じ、そのため、われわれ主体‐自己の、生の現在、は、持続のない点、のような瞬間、ではなく、過去をひきずり、未来を侵蝕している、猶予、となるのである。
すなわち、記憶(過去の現実)の要素は、絶えず、他の記憶の諸要素、の方へ、押し流され、引き寄せられて、巻き込まれる、ことにおいて、先へと、未来(予測)へと、進む、のである。


そのような、知覚‐想起の重層化は、感覚において、だけではなく、言語‐思考においても、起こる、ので、しかるに、われわれ言語‐思考は、遠い未来‐可能性、をも、言語‐思考の対象(観念)として、思い描き、目的‐イデア、を、仮想‐仮構する、に至る。
すなわち、現在の‐眼前の、利害‐関心、のためにだけ、行動する、のではなく、ユートピア(理念的全体性)のために、という、行動の条件、を生きる、ようになる、のである。
このように、重層化する知覚‐想起の相互作用、記憶の諸要素の相互浸透、において生きられる現在、は、感覚的な運動、としてある、ばかりではなく、観念的な運動、としてもある、のである。
こうして、言語‐思考における、観念的な、知覚‐想起は、弁証法的な思考をもたらし、記憶‐滅びゆくもの(死)、の諸要素を、統御して、記憶‐死、の否定、を、労働(未来‐建設)の原動力、に、変える、のである。


物語とは、観念的なフィクション(虚構)、であり、観念的なフィクションによる、可能的なもの(未来)、の仮構(建設)、である。
物語に対する、人々の共振は、一種の、観念的な、ミメーシス‐模倣、であり、われわれは、物語的仮構(観念)に、内面‐思考の諸要素(感覚‐感情‐意志、など)憑かせる、ことによって、日常的な行動に、物語を、反映させる、のである。
そのような物語への感応は、内面‐思考の抑圧されていた、何か‐内的要素、の、解放、としての、瀉泄‐カタルシス、であったり、あるいは、そうした内的要素の、新たなる次元における、結合‐総合作用、を導く、浄化‐カタルシス、であったり、する、ことによって、われわれを、憑かせる(感動させる)、のである。
しかし、物語‐カタルシスは、容易く‐すぐに、習慣化し、惰性的な、世界の解読格子(ステレオタイプ)、となる‐と化す。
公共の、規範的な主体性、とは、そうしたステレオタイプ化したイメージ、としての、公的な物語へ、感応的に、同調する、傾向‐存在、のこと、であり、秩序とは、主流となる、規範的な物語への、同化の傾向、のこと、である。


主体化とは、メタ物語、であり、すなわち、物語が、物語自身を、対象化する(吟味する)、自己批判的な手続き‐手法、であり、成熟し、蔓延する、ステレオタイプ(紋切り型)化する物語、への、同化の傾向、に、違和、を、もたらし、中断‐異化、し、同調不能、へと、われわれを追い込む、自己否定(懐疑)の契機、そのもの、なのである、が、それ自体、その現勢化においては、物語を否定する物語、として、感応的同調者、を、前提にする(あてにする)、ものである、以上、何らかの、新しい物語、なのである‐でなければならないのである。
したがって、主体化そのものは、それ自身が、習慣化されることを妨げる、不断の異化作用、でなければならない、のである、としても、物語は、決まって、勝利する、のであり、主体化、も、物語化する、ことを、避けられない、のである(マンネリ化した、惰性的な、批判芸術、や、反権威主義、のように)。


こうして、秩序は、主体化を、自己の成長‐発展、のための、あるいは、活性化、のための、契機、として、呑み込む‐物語化する、のである(反秩序、的な姿勢が、いかに、すぐれて、秩序に貢献しているか、を、常に、忘れてはならない。であろう)。
物語は、人々の、様々な記憶要素を、結合‐統合させる、そうした、間‐身体的な同調、を介して、集合的(集団的)記憶、や、集合的(集団的)想像力、を、生み出し‐形成し、その、習慣化‐成熟化、を通じて、間‐行動図式、としての、シンボル的形成物‐象徴秩序(言語‐習俗‐文化‐伝統)、が、形成され、保存される、ことになる、のである。
共同体とは、そのような、シンボル的形成物‐象徴秩序、の、型‐伝統、である。


主体化とは、そうした、共同体の構造(型‐伝統)、に対する、自己否定の衝動‐傾向、である。
すなわち、純粋な主体化は、物語的な全体性(理念‐目的)、のため、ではなく、無条件に生きる、こと(あらゆる、物語的な浄化作用‐カタルシス、を締め出す、こと)、であり、この世の常(物語‐ステレオタイプ化したイメージ)、ならぬ、もの、を、示す、だけの、暴力(自由‐狂気)、なのである。
万人に、内在する、主体化の衝動‐傾向、によって、常に、何らかの、現勢化する‐明示される、主体化的な表現‐現動(素朴な驚き)、への、同調が、型‐伝統に対抗する、内在‐内面、を、形成し、破壊的なパワー、を、蓄積させる、ことになり、意想外の、解放、を、待つ、ことになる。


こうして、現に、歴史は、共同体の変遷、の歴史、なのであり、秩序は、常に、主体化を、浄化‐カタルシスの物語、へと、回収‐利用、しなければならない、のである、が、共同体のはじめ(起源)、にあるのは、主体化、なのである、から、まさに、それが、共同体、自身の、記憶、に保存されている、ために、型‐伝統を守る、こと、型‐伝統にとらわれないこと、型‐伝統を否定すること、が、常に、共同体的思考の、神経過敏な、関心事、であり、そのようなテーマが、種々の、物語、として、主題化され、変奏される、ことになる、のである、が、ゆえに、まさに、それらを、公的な、規範的な物語、として、回収する、技法、が、共同体‐秩序の技法、となる、のである。


不断に、差異化‐商品化、を求める、資本主義社会、では、こうした、自己否定(主体化傾向)を、物語(浄化‐カタルシス)、として取り込み、恒常化させる。
すなわち、資本主義は、主体化を、高度に飼い慣らした、社会‐システム、なのである。
しかし、資本主義の発展‐成熟は、資本主義的な物語の勝利、に終わる、のか、どうか、は、わからない。差異化‐主体化のエスカレート、は、結果的に、最も、効率的に‐加速度的に、未知の、決定的な内破‐主体化、に向かっている‐を用意している、のかもしれない、のである。