そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


物語とは、社会的な合意の形成、であり、およそ、秩序というものは、己の存続、という目的の遂行、のために、主要な、規範的な物語の確立、を必要としている、どころか、秩序とは、そうした物語と同義、なのである。
イメージとして、誰もが、共有しうる物語、とは、社会がある種の安定‐共通認識の一般化、を、手に入れる、ための、制度的思考、そのもの、であり、要するに、公共の主体性、そのもの、である。


物語が必要なのは、われわれ主体‐自己が、個々それぞれにおける、個別の自己性、の側面においては、まさに、物語という、全体性‐統一性、が、扱い得ない、ような、すなわち、公共の物語へと、全体化‐統一化し得ない、ような、不可視の‐不可能な、個別の現実性、として、ある、から、でる。
秩序‐公共の物語に、内面化し得ない、この、個別的な自己性、という、耐え難い、不可視性‐不可能性、を前にした場合、それを、起こってはならない、事態、あるいは、妄想的な‐虚妄的な、錯覚、として、しか、存在しない何か、と見做し、われわれが、不可避的に、身に纏わざるを得ない、(自分自身、なのであるから)、その耐え難さ(トラウマ的な次元)を、含めた、自分自身のすべてを、統御しうるかのような、フィクション、としての、物語(公共の主体性‐秩序)、と、戯れる、のである、が、その時、そのような、フィクションの根拠、となるのが、われわれ(公共の主体性‐秩序)を超えた、より高次の、巨大な超越的存在(普遍性)、なのであり、しかし、そのような、超‐虚構、としての、超越的なイデアのレベル、自体、われわれが、想定したもの、に、他ならない、のである。


したがって、公共の主体性‐秩序の、言説‐思考、は、常に、有限な人間の条件を超越する、もの、について語る、こと、と、その不可能性、を告知する、こと、との、間を、揺れ動く、もの、となる、のであり、結局は、そのような、動揺‐往還、において、始終、常態として、メタレベル(超越性)を仮想‐仮構、し続けている、ということ、なのである。
それゆえ、このような、超‐虚構、と、戯れる物語(イロニー)、以外に、ありうべき、今ひとつの物語の姿形は、逆に、むしろ、不可視性‐不可能性(としての自己性)、を、性急に仮想し、公共の主体性の、自虐的な、自己崩壊、として、この、不可視性‐不可能性の耐え難さを、すすんで、身に蒙り、己を、ことさら、矮小な存在(オブジェクトレベル)に、仕立て上げて、その公共の主体性の、機能停止、を、導出する、ような、身振り、において、自嘲気味に、卑下してみせる、行為、に耽る‐と戯れる、こと‐物語(ユーモア)、である。


こうして、物語的な、二項対立の図式、が、できあがる、のである、が、すなわち、権威主義(イデア‐神学的虚構)、と、反権威主義(脱構築‐アナーキズム)、であり、要するに、イロニー、と、ユーモア、といった、二項対立の構図、である。
このように、公共の主体性‐秩序の、言説‐思考、は、常に、二項対立(二元論)、であり、すなわち、メタレベルに、立ち、同時に、メタレベルがあり得ない、ことを告げる、こと、の、際限のない、変奏(バリエーション)、となる、のである、が、物語そのものは、そのような内容自体に、関心がある、のではなく、むしろ、物語は、何にもまして、イメージの体験、であり、要するに、誰もが、容易く想像しうる、イメージ、として、物語が、巷に流通する(流行する)、こと、それ自体に、目的、がある、のであり、そうして、社会的合意(の見かけ)を、形成する、という、物語装置自体の、付加価値、こそが、真の狙い(目的)、なのである。


というのも、あらゆる人が、メタレベル(イロニー)、や、その不可能性(ユーモア)、に、すなわち、そういった問題に、真摯な興味‐関心、を、持っている‐抱いている、こと、など、あり得ない、から、であり、そうした、面倒な‐厄介な、テーマに、執着を示す、ごく限られた、特異な人々(才能)、の、思考が、そのようなテーマに関する、特権的な領域(専門領域)を、形づくっていれば、それでよく、多くの人は、その、何某かの成果の、イメージ、を、借りてくる、だけで、事足りる、のである。
人々は、専門的な、面倒な思考を、直接、経由することなく、それをわかりやすく噛み砕いた、のでさえない、ような、安易なうわべのイメージ、の上で、ごく気軽に‐気楽に、メタレベル‐メタレベルの不可能性、についての、議論‐思考、の見かけ、と、戯れることが、できれば、それで、よい、のである。


ジャーナリズム(マス・メディア)とは、そうした、イメージ‐物語(一般論)、の領域、であり、真摯な思考(才能)は、ジャーナリズム(一般論)に、流通すること、には、無関心であり(あるいは、その、ふり、を装っている)、その、真摯な思考自体‐専門分野に、貢献する、ことが、重要、であり、それが、自らの貴重さ、の擁護、である、と、考えている、のであり、そして、ジャーナリズムに、流通するもの(一般論)は、常に、誰にでも想像しうる、そのイメージ‐物語、なのである。
要するに、ジャーナリズム‐物語、とは、メタレベル‐メタレベルの不可能性、についての、議論‐思考、から、政治性を、奪ったもの、に他ならず、社会的に、誰もが、安易に使用できる、アイテム(紋切り型)、の提供、なのである。
一方、真摯な思考は、この、ジャーナリズム‐物語、の制度に、乗っかった上で、社会に貢献する、言説‐思考、の生産機構(メタレベル‐メタレベルの不可能性、を、そのつど、適当に、使い分ける)、として、温存されている、のである。


たとえば、お経の書かれた車を回転させれば、お経をあげたことになる、マニ車、のように、誰か、特権的な才能の持ち主が、神(超越的な理念)、について、考えてくれていれば、それでよく、そうすれば、多くの人は、神について、真剣に考える‐悩む、ことなく、そのイメージ‐物語、の上で、神を、適当に、信じたり、信じなかったり、することができる、のであり、その場合、正確には、そのイメージ‐物語(あるいは、伝道師‐教祖‐多くの信者、など)を、信じている‐信じていない、という、こと、なのである。
信仰は、多くの場合、内容、というよりは、流通している、こと、すなわち、多くの人によって共有されている、こと、によって、その正当性を保証されている、様々な物語(メタレベル‐メタレベルの不可能性、の、適当な、使い分け)、の、選択の問題、なのである(たとえば、通俗的なモチーフを、権威主義的な美術空間、に持ち込めば、事足りる、とする、ような、ポップアートや、脱構築的なポストモダンアート、も、メタレベル‐メタレベルの不可能性、を、そのつど、適当に、使い分ける、物語、として、機能している)。


マニ車が回転していれば‐どこかに真摯な人が考えていれば、それが、人々の代わりに、祈ってくれる、のであり、そのような、分業の、体制が、整っていれば、それでよく、そのような体制こそが、秩序‐物語、なのであり、そうすれば、人々は、他の、自分の関心事に、だけ、没頭できる‐専念することができる、のである。
マニ車は、まさに、メタレベル‐メタレベルの不可能性、の往還、としてある。
つまり、相半ばする態度、であり、何となく、メタレベルを信じている、が、そう本気で、信じてもいない、という、イロニーとユーモアの折衷的な、どちらにも転ぶ、無難な、良識‐ご都合主義(超越的なもの、を信じている、ので、お経をあげたい、が、自分で、お経をあげる、手間はかけたくない、手間をかけるほど、信じてはいない)、なのである。


もちろん、こうした物語(イメージの思考)は、分業的な効率のよさ、のために、だけ、ある、のではない。
本当の狙い、としては、物語(イメージの思考)は、社会に亀裂を生じさせる、ような、不可視性‐不可能性、としての、耐え難さ、を、覆い隠す(見えなくする)、ために、こそ、ある、のである。