主体性(公共性)の、虚構化する抽象的な秩序(物語)、に抗う、のではなく、その抽象的な秩序、に順応しつつ、自らの分節化(物語の登場人物として、分節化されること)、を、すすんで受け入れ、公共の主体性(物語の登場人物)、として、その秩序‐制度の力(影響)が及ぶ、最も遠い地点、にまで、辿り着きながら、その秩序‐物語という、装置‐構図が、機能しなくなる、限界、に触れる、一歩手前で、その秩序の圏域に留まること、それこそが、まさに、主体化、である。
主体化とは、限界ぎりぎり、であり、仮に、その限界(一線)を、一歩でも超えた場合には、秩序をめぐる、曖昧な申し合わせは、姿を消し、主体性そのもの、が崩壊してしまう、ことになる。
つまり、主体化とは、限界ぎりぎり、における、存在の0(無)、であり、したがって、秩序の知るところ、となり得ない、もの、である。
主体化は、秩序の要素、でもなければ、秩序によって無視された‐排除された、要素、でもなく、したがって、そのような、秩序の圏域(力学圏内)、には、存在することが、ない、様態、なのである。
要するに、主体化は、いかなる、秩序(物語)の饒舌、によっても、視覚化‐対象化、されることはない、し、抽象化された、想定、として、さえ、秩序の視界に浮上することはない。
そのような認識‐構造、から、逸脱すること、において、運動としての、無、なのである。
この時、このような主体化の無、に相関するもの、こそが、自己性、という、抽象性、である。
自己性‐抽象性、とは、主体性‐秩序の、思考回路が、それを、具体的に思考することのできない、ような、現実性、である、ということ、である。
したがって、逆に、この、現実性‐自己性、のレベル、からすれば、誰もが、自分の言葉、として、容易く口にする、主体性‐秩序の言葉(公の言語‐物語)、こそが、いささかの現実感も、認められない、もの(抽象性)、なのである。
この現実性‐自己性、にとっては、むしろ、主体性‐秩序の言葉、こそが、不可解な、すぐれて、抽象的なもの、なのであり、この現実性‐自己性の、現実味、は、主体性‐秩序のカテゴリー、であることを、拒むような、出来事、として、生きられるもの、である、が、それは、主体化の無、に、相関する、その無としての、空っぽの容器(形式)の、内容、として、はじめて、見出される、ということ、である。
われわれ主体‐自己の、世界において、その秩序的全体性は、個々の自己性、にとっては、よそよそしい、他人の言葉(公共性‐主体性の言葉‐物語)、ばかりが、行き交う‐こだまする、空間、であり、それが、どこまでも抽象的に拡がっている、のである。
自己性が、位置しているのは、まさに、そこに、すなわち、そのような、抽象的な、同一性の空間‐均質的な空間、に、亀裂を入れるような、主体化、という、無の境位‐位相、なのである。
一方、主体性‐秩序は、抽象的、であるがゆえの、不動の、確固たる、現実性、において、この、具体的な運動(衝動的な生)、としての、主体化、を、決して寄せつけない。
主体性、と、自己性、とは、双方が、お互いにとって、ともに、到底、思考し得ない、もの、であり、主体化が、その、あり得ない、接点(蝶番)、なのである。
主体化とは、いかなる場所、にも、留まるまい、とする、意志、であり、しかるに、その意志を、意志しつつある、場所、をも、抹殺‐無化、しようとする、意志、として、不可能な意志、完成されることがない意志、であり(まさに、そのような、至難の技であるような、意志、こそ、が、倫理、である)、この、全体化される(同一化される)契機を、見失ったまま、の、とりあえずの形式(的空虚)、の、内容は、もっぱら、具体的な、秩序の断片化、として、ある、他はない。
すなわち、秩序自身が、その、自らの断片化、において、自分自身の統一性が、消えてしまうような、そのような断片化、の、生成、である。
要するに、秩序とは、物語であり、すなわち、排除と選別、において、一定の方向、と、階層的統一性、を備えた全体性、であり、そのような物語、に対して、その構成要素たる、言葉、が、その、説話論的に分節化された、意味、の水準に、留まらず、その、配置に、従属しない、ような、言葉、として、己の存在を主張し始める、ことが、断片化、であり、そのような断片化は、あたりに、流通している、ほどよいイメージとしての、全体的な意味や統一性を、言葉、それ自体の力、において、不断に、崩壊させる、のである、が、なおかつ、言葉が言葉である、ための、全体性‐統一性、を、完全には、停止させない、という、離れ業‐不可能性、として、しか、存在し得ない、のである。
つまり、あたりに、曖昧に漂う、物語‐紋切り型のイメージ、に、共有されることのない、そうした、危い存在、としての、断片的な力、にこそ、まさに、不可能な自己性が、宿る、ことになる、のである、が、要するに、高度な表象の文化性、や、抽象的な思考の聡明さ、や、抽象的であるがゆえの明確な意図、など、といった、主体的カテゴリー、とは、無縁の、みすぼらしい、断片的な言葉‐愚鈍さ‐無思想、こそが、自己性の領域、なのである。
