そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


公共の主体性‐論理(言語‐思考)にとっては、すべてが、必然性(意志)に支配されている。
すなわち、主体性は、真の偶然性を生きる、ことが、できない、のである。というのも、偶然性とは、自己性の領野、だからである。
主体性にとっての‐主体性が見出すような、偶然性、は、主体的日常の日常性(必然性‐意志)を、逆説的に、権威づける(支える)、その正反対(の想定)、としての、それ自体、退屈な日常性(主体性の要素)、でしかない。


すなわち、生の抽象的な思弁(論理)に、身を委ねるのでは、ない、限り、においてしか、語り得ないもの、として、偶然性はある、のであり、比喩の修辞学に従ってしか、言葉を持ち得ない、主体的発話行為(生の抽象的な思弁)の、貧しさ、を、貧しさ、として、容認しない、ために、主体性は、偶然的なるもの(自己否定的に想定される、限りでの、自己性)、について、饒舌に語る、のである。
もちろん、主体‐自己である、以上、すべてが、必然性(主体的意志)に支配されている、のではない、が、主体性の扱う‐語りうる、偶然は、必然の(自らの)、向こう側に、想定されるもの(自己を中心にした時に見える、その外部性)、に、すぎない。のである。


まさに、そうした、偶然への無知、を、自覚している、ために、偶然への、無意識的な畏れ、とともに、必然(論理)への執着の中に、引きこもる、のが、主体性、であり、その無知と畏れとを、隠蔽するために、ちょっとした、意志(論理)の欠如、を、偶然、と呼んで、世界に亀裂‐奇形化が生じた、かのように、大げさに、珍しがり、驚いてみせる、のであり、そうした、思いがけない、めぐり合わせ、に、深い感銘‐感動を、覚えたりする、のである(偶然の出来事に対する、益のない‐何ももたらすことのない、単なる、大騒ぎ)、が、それ自体が、自らが勝手に想定した日常性(論理‐必然性)、の、さらなる、勝手な正反対の想定、としての、退屈なる日常‐図式(要するに、つまらない因果、と、その破れ)、にしか、すぎない、ということ、なのである。


主体性の日常とは、自己性(偶然性)を、可能な限り、排除した、単純な要素、に還元された、同一性(因果連鎖)、の世界、であり、要するに、抽象的な要素(単純化された要素)、の、抽象的な必然性(単純な因果関係)、の世界、であり、その、単純な要素(同一性)からなる‐が織りなす、経済原則の、効果的な機能、として、だけ、考えられた、思弁的世界、である、が、その有効性自体が、問われることになる、その有効性の欠落点‐陥没点、が、主体性のいう、偶然性、なのである。


自己性とは、主体性における、言語活動、のような、代置と交換、の可能な、諸単位(要素)、からなる、体系、ではない。
自己性の秩序(あり方)は、個別性‐流動性‐差異性、のもとにあり、したがって、帰納的に体系化する、ことは、できない、し、作業仮説から、一般モデルの決定、へと移行する、演繹的方法、に訴える、ことも、できない、もの、なのである。
したがって、主体性が、自己性を、理解‐究明、する、ためには、自己性に、直接、身を寄り添わせる、しかなく、しかるに、主体性自身の変化、を惹起する、ことのない、その、中性的な理解‐間接的な究明、など、あり得ない、のである。


要するに、主体性は、自己理解‐究明の過程においては、自己化する‐せざるを得ない、のであり、自己化において、主体性は、原理と帰結(演繹)、対立と総合(帰納)、といった、手段(間接的な理論操作)、を奪われ、絶句したまま、刻々と麻痺していく‐知力と視線(距離)を奪われていく、ような、無媒介的な自己性の侵蝕を、耐えなければ、ならない、のである。
すなわち、主体性は、自己性の、意味作用の磁場、に、身を置き、積極的に、自らの混濁(不透明化)を、受け入れ、つまり、主体性(透明‐自由‐可能)、よりは、自己性(混濁‐拘束‐不可能)、と向き合って、その秩序には、ひたすら無力、であり、それを超えるためには、それと、完全に決別しなければならない、ような、自己性の、専制的な秩序に、身を委ね、そうして、自らを、自らに、譲り渡すことによって、そのような、受け入れ難い受け入れを、起点として、無力感の眩暈と内部崩壊に、さらされる、主体性は、そのようにしか、関係を持つ、ことができない、その痛み、を、様々な、徴候、によって、識別し、いわば、主体性の、仮死状態、において、なお、自分を救おうとする、無意の仕草によって、遥かな、自己性の秩序、を、なぞらなければ、ならないのである。


主体‐自己、とは、このような、過酷な‐絶望的な‐混乱した、重層化現象、なのである。
この、重層化過程、においては、主体性が、自己性によって、蒙る、思いがけない、歪み、と、喪失感の、消し難い、余韻、の反映、によって、はじめて、自らを、形象化する、ことになる、のである(このような、重層化過程‐自己崩壊過程を、見ない‐回避する、ために、人は‐主体性は、ひとたび確立した、既存のイメージ‐物語、に、要するに、紋切り型と化した、世界の見取り図、に、それが、不十分‐出鱈目なものであっても、しがみつくのである)。


主体性は、何より、この、すでにある、力‐意味作用の磁場(自己性)、によって、影響されている‐操作されている、のである、が、そうした自己性との遭遇の、記憶が、主体性の最深部に、澱のように堆積して、身を潜めていて、何らかのきっかけ‐刺激、によって、すなわち、言葉やイメージなどの、諸々の刺激(興味深い世界の細部)、に促がされて、その記憶‐澱が、不意に、浮上してくる、ことになる、のであり、然るに、主体‐自己の患う疾病(あるいは、知性)は、そのような、記憶が、不意に、主体意識の表層に、浮上してくる‐せり上がってくる(無意志的な想起)、不可解な、内的葛藤、なのである。
主体‐自己とは、そのような、不可解な‐不可抗力的な、痛み、と、汚染、の、共鳴群なのである。