そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


意味作用は、主体性によって見えているもの‐能記(公共性‐同一性)、ではなく、隠されたもの‐所記(自己性‐個別の像世界)、の、執拗な志向に、支えられている。
意味作用‐個別の像世界、のすべて、を、統御する、体系的な秩序、を、記述する方法‐術を、主体性は、持っていない。
われわれ主体‐自己における、意味の総体、は、世界の全貌、とともに、主体性の視線の達し得ぬ、個別の身体性の奥に、身を隠し続けている(われわれという身体性、が存在しなければ、われわれの、この世界、は、存在しない)。


主体‐自己としてある、可視的な光景(秩序世界)は、不可視なる、想定された普遍性‐仮想の超越的なイデア、にみだりに従属する、こともなく、類推によって、意味‐世界の全貌を、察知せしめる、象徴、へと、逃避する、こともない、まま、どこまでも、隠されたもの、としてある、個別的、潜在的な、自己性‐像世界、を、一瞬、照らし出しては、まさに、その仕草‐距離(主体性‐視線)そのもの、によって、視界から、消し去る、のである。
こうして、自己性‐像世界、は、きわめて、具体的な、執拗な志向、としてありながら、不可視の現実性、として、主体性の瞳という瞳、と、対峙している、のである(この分裂‐対峙の構造こそが、シニフィアンとシニフィエの対、の構造、を支えている)。


主体性‐同一性‐公共性の、意味論的な統一と物語的秩序との、密接な連繋を、生きながら、自己性‐像世界、への、主体的欲望と、主体的造形性との、偏差と合一を、操作する、主体的思考の、限界点(主体化)、においてなされる、生の選択‐決断の身振り‐唯一無二の出来事、が、組織する、主体‐自己の葛藤、の顕在化、こそが、真の問題‐課題、なのである、が、そうした葛藤を生き得た、主体化、をこそ、秩序(公共の同一性)は、その存立の条件として、必要としている、し、まさに、その選択‐決断の身振りが、自己性‐像世界なるものの、不可視の構造を、秩序の制度的な相貌、とともに、裏側から暴き立てることになる、のである。


巧みに、身元確認(主体性‐同一性)の視線をかいくぐりながら、主体性の瞳そのものを、無効にする、きわめて現実的な、不可視性、が、主体性(理性)‐知、による統禦を、嘲笑しつつ、なお、その意味作用‐志向、を支えている、のであり、その、過激なまでに、濃密な存在ぶり、にもかかわらず、そのような自己性‐像世界を、触知できない、主体性(距離の意識)を、絶望的にする、ものは、まさに、自分自身を語ろうとしている、はずなのに、それができない、不条理な、欠如感、なのである(この欠如感が、解消不能の、主体的欲望、を育む)。
この、接近不可能の、実感(主体性‐距離の実感)、こそが、主体‐自己の、宿命的な、暗さ(奪われた身動き、あるいは、失われているもの、への情念‐欲望)、の彩り、なのである。


自己性とは、主体性(公共的な人目)に触れることのない、意味作用‐志向、であり、主体性‐視線が、触れうるもの、は、内光として、一瞬のまたたきのうちに、自分を隠すことで、成就する、意味作用の運動、の後に、残される、残像‐変化の痕跡(同一性)、ばかり、なのである
不可視の意味作用‐運動、は、生を始動せしめ、その速度の差異も実現し、不意に断ち切り、方向を変えたり、もする、不可逆的な事件、の契機、である、が、それ自体は、決して可視的な領域(公共性‐同一性の領域)に、その存在を刻みつける、ことは、ない。
同一性とは、そのような、生(意味)の流れ‐運動の、軌跡が、織り上げる模様(表情)の、事後的な確認(作業)、なのである。
総体としては、一つの秩序ある形態におさまる、その、模様の、一つのモチーフ(秩序)、から、他のモチーフ(秩序)、へと、移行が実現される、瞬間に、身を潜めて、不均衡と変化(事件‐出来事)を生産する、不可視の運動(消える媒介者)、こそが、自己性‐像世界、の意味作用‐志向、なのである。


現象(生‐現実)そのものは、いうまでもなく、あらかじめ決定された同一性としての、文法も意味も、持ってはおらず、したがって、その解読は、差示性よりも、はるかに、類似性に頼ることになる。
主体性は、自己性における、個別の像、すなわち、世界の、断片化する諸要素、が、相互に、共鳴‐牽引し合う、ことで、形づくる、抽象的なフォルム‐意味作用の磁場、の、無限の氾濫‐堆積、の、稠密な闇‐海、に押し流される、無限の漂流‐非人称への変貌、において、溺死する恐怖、に、おののきながら‐巻き込まれながら、なお、そのような溺死の予感に抗いつつ、溺死を拒絶する、頑なな意志(主体性)、として、織り上げていく、類似性(同一性)の輪郭、にしがみつく、のである、が、そうすれば、するほど、意味作用の闇‐海を、そのような、同一性の構造(縮図‐拡大図)に、還元することの不可能性‐自らの宙吊り状態、が、ますます、確かになってゆく、絶望感に苛まれる、のである。