そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


公共の主体性における、同一化作用とは、表象‐言語、という媒体、を通じた、個別の像世界‐自己性の、表象‐言語の同一性への、馴致、であり、すなわち、個別の像世界としての、現象の抽象的フォルム、に固有の、個別性‐流動性‐差異性、を、能う限り削除して、公共の同一性へと、還元していくこと、である。
しかるに、このような、馴致‐同一化、の根拠は、現象(像世界)の側にある、のではなく、表象‐言語の側、あるいは、表象‐言語の背後に想定された、究極の、唯一の、同一性、としての、イデア(超越的理念)、の側にあり、あるいは、そのもとにある、秩序制度や表象‐言語の制度(ラング)、の側にある(主体性という形式‐シニフィアン‐能記の、真の内容たる、究極のシニフィエ‐所記としての自己性‐像世界に、関わらないようにする、ために、事象‐現象の同一性、の規準‐根拠、として想定される、イデア、を、究極のシニフィエ、と見做して、それとの関係のみに、着目し、関わろうとする、のである)。


このような公共の主体性‐同一性、としてある、われわれの主体意識(言語‐思考)は、このような公共の同一性のもとで、表象‐言語化された現象(馴致された現象)、を、統御された、既知の情報、として、記憶に貯え、そのようなストックを、適宜、顕在化して‐呼び出して、実用に供する、のである。
しかし、それに対して、そのような、主体性‐同一性の、防備体制を、溢れ出してしまう、ような、馴致‐統御、しきれない‐され得ない、個別の像世界(自己性)の突出、があり、主体性を混乱させる。


それは、主体性を、襲う‐驚かす‐脅かす、カオス的な現実性(トラウマ的な次元)、の噴出、であり、それに対して、主体性(主体意識)は、ハイパー現実、であること、ができず、主体性(理念的な原理‐イデア‐同一性に、基づく、ハイパー現実)、と、自己性(理念的な原理‐イデア‐同一性とは、別の、いわば、拡散的な原理、としてある、ような、不透明な現実性)、との、間隙、に、陥って、混乱する、ことになる、のである。
公共の主体性が、一定の意図‐同一性の意図、である、のに対し、自己性は、そのような意図から、発されるのではない、意図‐公共性、の、欠如、であり、理念的な秩序や必然性、によって、得られる、のではない、にもかかわらず、まさに、自分自身(の核心)そのもの‐ありのままの自分自身、であるような、自分自身の諸断片、なのである。


もちろん、主体性とは、まさに、そうした、個別の現実性‐自分自身、を、発見し、その個別性‐流動性‐差異性として、あらわれるものに、出会う、かわりに、それを、名づけ、名前(表象‐言語)によって、同一性へと抽象された限りでの、すなわち、表象‐言語によって、媒介された限りでの、対象、としてだけ、読む、ところの、理性(ロゴス)、なのである、のであり、それこそが、主体性‐理性の、中心課題、なのであり、そうした、名づけ‐ポイエーシス(制作)、こそが、秩序、なのである。
そして、理性(ロゴス)は、命名し、呼び、読む、ことによって、しか、現実と関わらない、からこそ、偶然とも無秩序とも名づけられる、としても、結局は、そのような名づけ‐理性の言語連関、の内に、回収し得ない、ような、そうした自分自身の、不可解な現実性、に、つきまとわれ、その影に、脅かされる、ことが、不可避的、なのである。


とはいえ、しかし、そのような主体性の同一性を、破り、主体性を、複数化‐差異化へと、拡散してしまう、ような、個別的な‐流動的な‐差異的な、自己性なるものは、自分自身であり、主体性にとっては、決して明らかにできない、懐かしい何か(ノスタルジー)、なのである。
われわれが、必ずしも、コスモス‐全体性‐必然性、といったもの、だけを、求める存在、ではない、のは、そうした理由による。
われわれは、むしろ、自らを脅かすもの‐失わせるもの、としての、不透明な‐不可解な現実性(カオス的なもの)、に、向かう存在(それが、文化度の高さ、である)、でもある、のは、そうした、懐かしさ(ノスタルジー)において、である。


主体性には、こうした自己性への傾斜、において、解体(カタストロフィー)、への願望、が伴う、ことになる。
異なるもの(はっきりしないもの‐剥奪されたもの‐無限なもの‐唐突さ‐意図の欠如、など)、という要件は、主体性に、苦痛‐危険‐恐怖、を、引き起こす。そうしたものが、身近にさし迫る、なら、主体性は、混乱し、いかなる、喜びも、覚えることはない。
しかし、にもかかわらず、適度な主体的距離、が、確保される、限りでは、そうした異なるもの(他者性)は、むしろ、魅惑の対象(欲望の対象)、と、なりうる。(こうした反応‐怖いもの見たさ、は、距離化が、恐怖‐危険の除去において、自己保存の本能を満足させるために、快楽を与える、というような、説明、では、覆いきれない。われわれは、こうした異なるものへの欲望のために、本当に、身を滅ぼす、こともある、からであり、そのような冒険を、幸福と感じる‐と見做す、こともある、からである。なぜ、山‐危険、に登るのか、そこに、山‐異なるもの、がある、から、である)。


主体性とは、まさに、異なるもの、との間に、新しい関係を、打ちたてようとする、営み、なのであり、象徴‐隠喩(崇高美)、とは、まさに、そうした力、である。
それゆえに、かつての範疇(秩序‐文化)では、悪‐醜、であったもの、をも、善‐美、として、感受する、というような、こと(価値観の変化)が、現に、起こる、のである。
そうして、二項対立(内部‐外部)、という、図式が、既成概念化していく、のである、が、もちろん、それ自体は、外部性(他者性)を、内部流において、扱おうとする、すぐれて、全体性‐統一性の側の思考(制度的な思考)、である、ことは、いうまでもない。
同一性を、脅かすもの、を、こそ、主題化し、対象‐同一性として、馴致してみせる、こと、こそが、もっとも、高度な、同一性の営み、なのである(権威主義を否定しながら、権威主義の中にいること、が、もっとも、うまい、処世術、なのである)。
しかし、異なるもの、は、そのような同一性‐二項対立とは、無関係の、そのような文化的営みではどうにもならない、ような、存在しない、現実性、なのである。