われわれ(主体‐自己)において、現象のすべては、観念が描く、現象の抽象的フォルム、としての、像(主体化の点に対応して、切り取られた、世界の断片的な形象)、として、あらわれる。
われわれの、それぞれの個人の内面における、個別性‐流動性‐差異性、としてある、像を、客観的な‐公的な、シンボルとしての同一性、へと固定する支持体‐機能、として、公共の記号物質、があり、すなわち、それが、表象(相似体)‐言語、である。
公共の、表象‐言語も、像として、個人に内面化される、のであり、そのような像として読み取られた、表象‐言語が、内面の、像‐観念(現象の抽象的フォルム)、と結合して、個別のイマージュとしての、概念‐意味、となる。
すなわち、表象‐言語を、能記とする、その所記(意味されるもの)が、想念としての、イマージュ(概念‐意味)、なのである。
表象‐言語のはたらきは、像が、現象の抽象的なフォルムを描く時、その、個別性‐流動性‐差異性、を、能う限り削除していき、同一性へと、還元していく、ことにある。
しかし、われわれの内面‐イマージュが、個別の像としてある、ことに、かわりはない。
客観的な‐公共的な記号も、個々の内面においては、個別の、像、である。そのため、表象‐言語による、同一性の確定は、不透明‐不安定、である。
要するに、人々が、同じ、記号や現象、をとらえても、それが、どのように見られているのか、それを、どのような、イマージュ、として、思い浮かべているのか、は、不明のまま、である(たとえば、青色、という意味を、他人が、どのように思い浮かべているのか、想像がつかない。それぞれに違った、青色の、像、を抱いていても、すべて、同一の意味である、と、単に、押し切っている‐見做している、のである)。
このように、同一性は、外的な物質(すなわち、個別の像、であるが)の側にはなく、その外的な物質を、表現している‐指示している、表象‐記号、自体の同一性、としてあり、要するに、表象‐言語によって、個別の像の、個別性‐流動性‐差異性、が、その、表象‐言語の同一性へと、結びつけられた、限りでの、同一性、なのである(見慣れた、事物や文字、などが、ふとした拍子に、突然、見慣れない光景‐奇怪な形象のように、見えてくる‐見えてしまう、ことが、時折、ある、が、それは、何らかの加減で、表象‐言語の、同一性‐意味の機能が、失調して、個別的な像、としてだけ、それらが、眺められることによる、いわば、自己性‐像の露呈、なのである)。
つまり、同一性は、表象‐言語(公共の主体性)を、通して‐経由して、世界を、読む‐眺める、主体性の理性(ロゴス)、としてある、のである。
すなわち、理性(ロゴス)とは、表象‐言語の連関のうちにあるもの、であり、命名し、呼び、読む、ことによって、しか、現実と関わらない(要するに、主体性‐公共性のうちに、引きこもること)、ということなのである。
しかし、像(要するに、自己性への傾斜)のレベルにおける、個別の意識(イマージュ)の、個別性‐流動性‐差異性、によって、主体性‐公共性の同一性は、破られ続ける。
だからこそ、プラトンは、そのように像へと傾く、個別性‐流動性‐差異性、へと傾斜する、現実、の背後に、個人‐像世界を超越した、不動の同一性(不動の表象‐言語)、としての、イデア、想定した、のであり、そうした、形而上学を打ちたてる、必要があった、のである。
イデアのレベルとは、像としての表象‐言語の、不確定な(不安定な)、同一性が、最終的に保証される、根拠、であり、要するに、同一性の規準が、われわれの経験‐現象‐意識、の直接性、を、超えた次元‐別次元、に、ある‐確保されている、という、想定、なのである(むろん、そのような想定には、無理‐矛盾がある)。
そのような想定、のもとでは、表象‐言語は、このイデアのレベルの、間接的な‐不完全な、媒介‐分有‐現実化、である、ということになる。
イデアとは、超越的な、唯一の同一性‐絶対的な根拠、の専制、なのであり、それゆえ、そのような、イデアが消去されると、それが、保証している、現実的な、同一性‐秩序、の専制が、失われることになる(われわれが、不完全であれ、秩序‐同一性を形成する‐している、以上、イデアはある、のである、とも、想定しうる)。
秩序の営みとは、個別の像の、個別性‐流動性‐差異性を、を、抑えて、個別の像の支配‐はたらきを、イデアの同一性との、純粋な関わり、のみに、限ること、である‐に尽きる、のである、が、逆に、言えば、そのような努力、そのものが、われわれにおける、現象のすべては、個別の像である、ということの、証明に、他ならない。
しかるに、現象は、実質的に、多様なのであり、同一性の世界は、そのような、多様性‐カオス、の中に、ある。
したがって、およそ、秩序、というものは、この多様性‐カオスの側面には、着目せずに、表象‐言語の背後に想定される、イデア(同一性の根拠)との関係にのみ、着目させる、必要がある、のである。
主体性‐理性、においては、表象‐言語の、真の意味内容(所記)は、事象‐現象、ではなく、イデア、である。
多数の、像‐意味、からなる、事象‐現象、を、コスモスの秩序連関へと統一するための、根拠、が、事象‐現象の中に意味として内面化されていく像としてのイデア、をも、超えた、最高のイデア、として、常に、到達不可能な彼方に、想定されなければ、ならない、のである。
この、唯一の超越的根拠‐最高のイデア、は、仮想である、他はない、のである、から、そのような、われわれに到達し得ないもの、など、存在しない、に等しい、と、考えれば、すなわち、単に、われわれが、そのような、超越性との必然的関係、など、認めなければ(ポスト構造主義的な‐脱構築的な、テクスト論者、とは、こうした立場、である)、表象‐言語は、自ずと、単なる、慣習的な‐恣意的な、同一性の記号、にすぎないもの、となり、コスモスは、カオス的な様相へと、変じる‐雪崩れる、ことになる。
つまり、いかなる、全体性‐統一性(秩序)、にも、最終的な、究極の根拠は、ない、ということになる、のである。
この、イデアの仮想性(無理‐矛盾)、を、補強する、ために、プラトンは、全体性を、統一的な視点(同一性の視点)から、統御する、ことの、できる(要するに、イデアと通じることのできる)、能力‐権利、を持った現実の人間‐個人を、理想的な統治者として、想定する、が、それが、理想的哲人、である。
しかし、結局、要するに、理想的哲人、とは、何らかの超越性と通じている、と、自称する‐僭称する、現実のありふれた‐うぬぼれた支配者(数多の占い師も、自称する)、の増殖を、肯定する、だけであり、力による支配への、妥協、と、ならざるを得ない。
現在でも、およそ、創作物‐物語的虚構‐フィクション、の作者、は、こうした、理想的哲人、の卑小版、としての、小作りな支配者(限定された、架空の、仮設空間における、万能の支配者)、であり、それが、意味するのは、要するに、そのような、理想的哲人は、限られた、空間においてのみ、有効である、にすぎない、ということである。
物語的な作品(フィクション)が、解釈される場合、その解読作業は、もっぱら、このような、物語的全体性(同一性)の意味を、統御している、作者(支配者)の、意図、を、見極める(手繰る)、ことである、と、されている、が、限定された虚構世界(文化的手慰み)の中、でなら、ともかく、そのような最終的な支配者(作者)としての、主体‐理想的哲人、を、現実の背後に、想定し、最終的な目標‐イデア(意味の中心をなす、核)、が、ある、と、見做さない、ならば、同一性(秩序)は、単なる、恣意的な‐偶然的な、慣習(因習)、以外には、根拠を持たなくなる、のである。
