古来、われわれは、なぜ、絵(具象画‐相似体)を描いてきたのか。
具象画‐相似体は、主体化の点(視点)によって切り取られた、世界の断片化である、像(観念)の、客観的な視覚化(あるいは、客観的な、像‐相似体、との、合流)、すなわち、個別の像(観念)の、公的な確定、なのである。
この相似体と像(観念)が、個々の個人の内面の想念において、結合している、想念としての、像‐相似体、が、イマージュ(像を通して見られた相似体の理解)、である。
つまり、この、イマージュを、所記(シニフィエ)とする、能記(シニフィアン)が、相似体(という公的な記号)、なのである。
この相似体とイマージュの組み合わせ‐結合、において、個人における個別の像を、同一性(公的な相似体)に従わせる、ことで、われわれは、同一性、を共有し、、公的な、統一的現実性を獲得する、のである。
こうして、古来、われわれは、なぜ、絵(具象画‐相似体)を描いてきたのか、がわかる。
プリミティブな壁画は、まさに、そうした、共有される、固定された、同一性‐相似体‐記号、の獲得、なのであり、この、相似体が、抽象化(デフォルメ)して、言語記号となる、のである(古代壁画の、図像‐相似体は、祈り‐まじない‐呪術などの、意味、のためのもの、である、よりも、はるかに、同一性の確定のための、シンボル、である)。
相似体は、不完全なもの、である。
相似体は、そもそも、個別的な像、の、客観的固定化、のために、何らかの物質の、二次元平面上、に描かれる‐表現される(岩肌の壁面は、固定性、を満足させる。紙は、それに加えて、複数性、を満足させる)、もの、であるが、もとより、像(想念としての観念)は、そのような物質性、に吸収‐統合され尽くされる、ものではない。
しかるに、相似体は、常に、像に対しては、恣意的な‐暫定的な、シンボル(目印‐目安)、でしかない。それは、表現のたびに、そのつど、姿を変える、個別性、流動性、差異性、のもとにある、本質的に、途上的性格、のもの、としてある。
そのような、慣習において、暫定的に固定される、ものの、常に、試行される様態としての、探究途上的性格、としてある、表象(記号)、を、仮象、という、のである。
つまり、相似体は、物質としての絵、であり、必然的に、身体と世界(物質)の関係性の桎梏、のもとにある、すなわち、そのつど、姿を変える、個別性、流動性、差異性、のもとにある、と同時に、間‐身体的な、公的なシンボル、としての、不動の、相似体の理想形、の追求、へと、向かわなければならない、もの、なのである。
この、公的な相似体の理想形、の、純粋なあり方、は、現実には不可能である、ために、それを、幻想的に‐空想的に、想定したもの、が、イデア、である。
プラトンが、絵画(騙し絵)‐相似体、を否定して、イデアを崇めたのは、まさに、絵画(騙し絵)‐相似体の、イデア(完全な相似体)としての、不完全性、ゆえに、である。
この、想定された、イデア、という、現実の背後の、不動の、超越的理念、から、とらえ返せば、イデア‐理念とは、絵画‐相似体を制作する、画家における、その形成作用、を司る、形成原理、である、ということになる。
すなわち、絵画とは、常に、個人(画家)に対して、現象した、普遍的‐理念的なるもの、である、ということである。
つまり、絵画とは、イデア‐ロゴス、という、究極の所記(最終的なシニフィエ)、を分有する、その不完全な能記、である、ということである。
イデアの仮想的な確定、のもとでは、相似体(絵画)は、単に、何らかの外在的な対象(現実の事物)、の、目に見えるままの、正確な‐精密な、写実描写であること、(という規準)によってだけ、成り立つのではない、ということである。
すなわち、相似体が、外在的な対象、という、所記、に対する、能記、に、還元され尽くしてしまうこと、だけでは、不十分なのである。
イデアに対する相似体は、徹頭徹尾、不完全であることを、あらかじめ、決定づけられている、探究途上的性格、としてある、のである。
それゆえ、すなわち、そのような不完全性ゆえに、ある相似体が、理想的な規範(シンボル)、として、決定的‐永続的に、君臨する‐固定化される、ということは、ない、のである。
何より、基本的に、相似体は、色彩や線、などの視覚的要素を、能記、とする、所記、である。
そのような、相似体は、記号的機能として、外的な対象との関係‐関連によって成り立つ‐組織化された、外的対象を、所記、とする、その相似体という、相似体としての正確さ、に基づく、能記、である。
と同時に、相似体は、固有の能記として、所記としての、超越的なイデアを、あらわそうとすることの、慢性的な失敗、なのである。
こうして、相似体は、イデアの実現であることを要求される、慢性的に、仮初の‐暫定的な、探究途上的性格、としてあり、それゆえ、現在に至るまで、試行錯誤の様相を呈して、絵は描き続けられている、のである、が、よって、そのために、相似体は、試行錯誤の(千変万変の)デフォルメ、が、その、常態、なのである。
写真は、一つの相似体である、が、絵画の相似体とは、異質であり、というのも、写真‐相似体は、特定の個別的身体、(個人)、を経由しない、機械を経由する、ことで、可能になる‐制作される‐生産される、現実‐対象の、視覚的な性質への、機械的な還元、である、からで、それゆえ、すぐれて、客観的な相似体が、確保される、のである。
さらには、その機械的な複製能力‐複数的性質、が、すぐれている、ために、現に、公的な、規範的な相似体、としての、安定した地位を、確立している。
とはいえ、イデアの関係のもとでは、絵画‐相似体と同様に、非常に明瞭な意味作用を持つ、完全な外示‐明示としての写真‐相似体も、デフォルメされるべき、探究途上的な、能記、である、ことに変わりはない。
こうして、デフォルメ、において、相似体表現の、多様なスタイルが、生じる、のである。
いずれにしても、イデアの形成原理を担う、のは、個人、であり、すなわち、その、個別のスタイル、なのである。
スタイル(様式)とは、デフォルメの仕方、であり、イデアの実現は、この相似体の、不正確さ‐不完全性、にこそ、かかっている、のである。
すなわち、不完全な、絵画は、プラトンの言うように、否定されるべきもの、であるとしても、そのような不完全な相似体、こそが、超越的なイデアが、現象した普遍性‐理念、として、この世にあらわれる、唯一のやり方、なのである。
こうした、われわれにおける、両義性、こそ、イデアの特性、なのである。
要するに、イデアとは、真の公共性、ということ、なのであり、真の公共性、は、われわれが、公共性を、公正‐中立に、実現しようとして、失敗する、こと、を、通じて、浮かび上がる、のである。
イデアは、外的現実であるところの何か、の側、にはなく、相似体という、表象の同一性(同一なるものの反復可能性)、の可能性、としてあり、そのようなものとしての、理性‐ロゴス、を、得ようとして、失敗する(われわれの得る、もの、は、個別性、流動性、差異性、だからである)、ために、究極の抽象的な同一性(公共性)、として、想定(仮想的に先取り)されたもの、なのである。
