そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


像(観念)、とは、主体化という無(瞬間という存在しない時間としての無)、の点(視点)、に対応する、対象‐外観、であり、この、像‐対象‐外観、は、それを囲繞するコンテクスト‐それを取り囲む時空間(世界)、から、それだけ切り取られた、不自然な、孤立化の傾向、にある、世界の断片(断片的形象)、である(夢の内容は、まさに、このような像、と、断片的意味、の混合物の噴出、である)。
指示代名詞、「これ」、こそが、まさに、主体化に相関する、対象としての像、であり、われわれ(主体‐自己)が、幼少時に、繰り返し、叩き込まれる、言葉‐観念、である。すなわち、幼児は、周囲の大人から、「これは、なあに?」「これは、何々よ」、という問答(話しかけ)を、繰り返し、与えられる、のであるが、そうした学習過程を経る、ことによって、、連続性としての世界、は、断片化の集積と化していく、ことになる、のである。


像は、意味ではない。
意味は「これは、何々である」、という、何々、であり、像は、この、意味以前の、これ、であるところの、あるもの、である。この、意味に先立つ、像(これ、という断片化)、こそが、意味を、可能にしている、のである。
像(断片化)は、それ自体としては、その、本質的な、無意義性、において、われわれを、不安にし、そのような、根源的な、不安の喚起、こそが、われわれを、意味化する実存の本性、とする、のである。
像は、寄る辺ない、主体化、に相関する、自由‐狂気、としての、世界の断片的外観‐意味的虚無、なのである、が、意味は、このような、像、からこそ、その像の出現の、事後において、生まれる、その関係づけ、の体系、なのである。


ルネ・マグリットのタブロー、「これはパイプではない」を、例にとってみよう。
その絵には、ポンチ絵のような、パイプの、写実的な‐具象的な、外観‐姿形、と、「これはパイプではない」という、文字、だけが、無地の背景に、上下に並べて描かれている。


その、パイプの絵‐相似体、は、確かに、その文面(「これはパイプではない」)にあるように、現実の具体的な物体、としての、パイプ、ではない。
しかし、われわれは、現実のパイプ、も、画中の、パイプの絵、も、また、パイプという抽象的な意味(概念)、も、パイプの像(観念)、を、通して、眺める‐思い浮かべる、ことによって、こそ、それらの、いずれをも、同じ、パイプなるもの、として、理解‐認識する、ことが、できる、のであり、その像の同一性のもとに、こそ、それらの差異があり、それらの差異の間の、優劣(本物‐偽物)などの、意味関係も可能になる、のである。
要するに、あらゆる、パイプ、というものは、パイプの像(パイプなるもの)、を、通して、こそ、パイプ、なのである。


通常の具象画(写実画)においては、画中の相似体は、現実に在るもの、として、見せる、虚構‐騙し絵、であり、すなわち、オリジナルと仮象、という、二項対立(二つの異なるレベルの間の、差異)、が、前提となっている。
しかし、ここ(「これはパイプではない」の作品)では、画中の相似体(パイプの絵)は、はじめから、描かれたもの、である、という事実が、強調されている、ことによって、その事実自体を、指し示している。
すなわち、描かれたもの、としての、イマージュ、それ自体が、不気味に、現前している、ということ、なのである、が、つまり、普通であれば、虚構‐象徴にすぎないもの‐所記を想起するための通過点にすぎない能記、として、そのようなイマージュ自体としては、見過ごされる、その外示だけが、あらわれて、含意が、不在、なのである。
要するに、形而上的‐象徴的‐記号論的、な、意味‐距離、への、逃げ道、がなく、イマージュ自体の、不気味な突出‐切迫、に、向き合わなくては‐直面しなくては、ならない、のである。


このような、効果、を、決定づけている、のが、イマージュに添えられている、文字‐エクリチュール、であり、両者は、背景をなす無地の空間を、共有している、ことによって、それらが、同じ、記号、そのもの、である、ことを、相乗的に、主張‐強調、する、のである。
通常の具象画における相似体は、その指示対象(意味されるもの、としての、外部の現実の具体的な対象物)、や、作者の関与、や、あるいは、具象画の全文化の構造、など、の、意味連関としての、作品の全体性、と、不可分、であり、相似体だけを、一つの独立した要素として、そこから、任意に、切り離すことはできない。
しかし、文字とともに描かれた、この、それ自体、切り取られたような相似体は、両者が並列する、ことによる、能記の、不透明な視覚性、の強調、によって、また、本質的に異質な記号同士の、無意味なシュールな遭遇による、不透明な視覚性、の照応、によって、また、文字‐エクリチュールの伝えるメッセージ内容(これはパイプではない)の、愚直な正しさ、によって、引用された、単なるイマージュ(はじめから描かれたもの、としてのイマージュ)、という性格を強め、通常の具象画のような、含意‐物語性を、持たない‐想定し得ない、無意味な外観、のように、あらわれる、のである。


つまり、外示としての明示的意味作用、として、はたらくことのなくなった、孤立した、断片的なイマージュ(記号)としてあらわれる、ということ、である、が、こうして、イマージュは、明示しない、不透明な(くすんだ)姿を、不気味に、われわれに、突きつけてくる、ことになる、のである。
この不透明な能記、としての、イマージュそのもの、は、像に近い、のである。
イマージュの特質は、あるもの(所記)をあらわしている、能記である、ということであるが、像は、そうではなく、むしろ、逆であり、像こそが、あるもの(姿‐観念)、そのもの、なのである。
この不透明なイマージュが不気味なのは、像を(世界が像であることを、われわれが像であることを)、思い起こさせる‐思い至らせる、から、なのである。
像は、外的対象、ではなく、この世界‐われわれ、そのもの、である、という、思考の0度、なのである。


文字‐エクリチュールの指示(文意)、が、肯定的(「これはパイプである」)、であれば、イマージュは、外示としての機能を、通常通り、果たす、だけ、だった、のである。
すなわち、「なるほど、確かに、これは、パイプの絵だ。ただそれだけのことだ(それがどうしたというのだ)」、という、無内容で、退屈な(自然すぎる)、同語反復の表示に‐日常性(意味作用)に何らの波紋も惹き起こさない、ような、つまらない、ただの、自己言及に、終わった、のである。