そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


意味作用は、前景層‐シニフィアン(意味するもの‐能記)、と、後景層‐シニフィエ(意味されるもの‐所記)、からなり、前景層‐シニフィアン、を通じて、後景層‐シニフィエ、を読み取る、ことである、とされている。


目的論的な見方、とは、この、後景層‐シニフィエ、を、失われた自己性、として、目指すもの、であり、すなわち、われわれ(主体‐自己)の意識の、目的論的進行の、最終地点、を、自己回帰(主体‐自己の合一)を果たすところの、究極の後景層‐シニフィエ(失われた自己性)と、同一視する、もの、である。
この究極の後景層‐シニフィエ、が、不確定な身分のまま、であること、によってこそ、意味作用が成り立つ‐意味作用の運動が際限なく始動する、のであるが、しかるに、その不確定な内容の、容器‐名、として、空っぽのシニフィアンが、想定されることになる、のであるが、そのような、空虚なシニフィアンこそ、主人のシニフィアン(神、真理、理念、など)、である。


こうした、意味作用の構図(前景層‐シニフィアン、を通じて、後景層‐シニフィエ、を読み取る)を、基礎におく、意味作用の読解に慣れた意識(者)は、前景層‐シニフィアンを、透明な媒体‐記号‐物質、と見做して、後景層‐シニフィエを、なす、であろう、意味されるもの(意味内容)に、前景層‐シニフィアンが、従属的なあり方をする、と考える。
つまり、意味作用においては、前景層‐シニフィアンの、物質的‐感覚的側面は、無化され、そうして読み取られる、後景層‐シニフィエの、意味されるものは、不在の、想像的な対象世界(観念世界)、ではあろう、が、まさに、それこそが、読み取られるべき、現実(物質‐自然)から、距離をおいた、静観される価値、を体現する、安定した意味世界である、と、考える、のである。


すなわち、前景層‐シニフィアンは、後景層‐シニフィエを、現象させる、ための、支え(物質的基盤)、に、すぎず、その資格で、のみ、後景層‐シニフィエによって、根拠づけられる、とする、のである。
つまり、前景層‐シニフィアンとは、意味内容のための、単なる形態、であり、そのような、単なる道具、としての機能を、果たさなければ、単に、否定される‐失われるだけの、無意味な物質性、と化す、もの、なのである。


しかし、そのように、後景層‐シニフィエに、重心をおく、場合、でも、前景層‐シニフィアンに負う(拠る)ところは、大きい、し、後景層‐シニフィエが、必要不可欠ではない、ような、前景層‐シニフィアンの突出、も、ありうる、のであり、前景層‐シニフィアンだけ、においても、それ自体において、意味されるもの、があり、それは、前‐意味的なレベル、ではあっても、習慣的な意味されるもの、に、還元されない、というだけのこと、であり、要するに、それは、可能な限り、多様な、事物の諸関係に負うところの大きい、いわば、純粋な知、であり、常に、今後、探される、べき、様々な、関係‐意味、を、孕んでいる可能性、として、ある、もの、なのである。


しかし、後景層‐シニフィエの、読解、にのみ、慣れた者‐目、は、そのような、前景層‐シニフィアン、の自立性、を、無意味な表層(の戯れ)、としてしか、眺めない。
そのように、無意味と決めつけ、そのような過剰を認める、としても、過去に範例のある意味づけを、強引に適用して(押しつけて)、処理しようと‐内面化しようと、試みる。


そのように、習慣へと回収せずに、慣れないこと、ではあっても、われわれは、そのような、前‐意味的な不安、に、身を任せなければならない、のであり、というのも、それこそが、まさに、意味世界そのものを、内部世界として成り立たせている、ところの、その外部性、だからで、しかるに、いまだ、あらわれないもの‐無、としての、そうした即自的な存在様態‐諸関係そのもの、と、己の主体化(脱自)、とを、関わらせる、ならば、既成の意味作用、および、その、習慣的な諸連関、のみ、への、信頼、が、まさに、覆い隠しているところの、習慣的な知‐感性から洩れ、溢れ出している、ニュアンス(差異)‐見えないもの、についての、知、が、開かれることになる、ということ、である(難解なものは、多少、難儀することはあっても、いずれは、自ずと理解しうるもの、である。しかし、人が、真に、理解できない‐意味がわからない、というもの、は、およそ、こうした、習慣的な意味‐諸連関、を、覆すような、形であらわれる、もの、すなわち、外部性、のこと、である)。


モナド的な自己世界‐身体的現実性、においては、その生、自体が、意味そのもの、であり、意味の統一性、としての、世界そのもの、である。
主体‐自己(間主体性‐公共性の成立)、において、はじめて、前景層‐シニフィアンと後景層‐シニフィエ、の関係、という、意味作用が生じる‐出現する。
すなわち、前景層‐シニフィアン‐後景層‐シニフィエ、は、主体‐自己、に、相関する、もの、である。
つまり、前景層‐シニフィアンとは、自己性を欠いた空虚な主体性(公共の主体性)‐一般的な形式、としての、記号、であり、後景層‐シニフィエとは、その内容‐指示対象‐自己性、である。


主体化によって、主体性(対自存在)に、鏡のように、映し出される、ことになる、自己性(即自存在)が、その、主体性の、空虚な形式の、意味内容(到達し得ない、意味内容)、として、あらわれる、のである。
前景層‐シニフィアンという、公の記号、に対する、後景層‐シニフィエの、意味されるもの、とは、各々の、個別の、自己性‐身体的現実性によって、屈折しているであろう、、歪曲された意味、である。
しかるに、そのような個別的な解釈(個人の内面)は、再び、公共的なシニフィアン(公の言語)、のもとで、整序されなければならず、そうして、公共の意味、として、明らかに、定義づけられなければならない。
こうして、前景層‐シニフィアンと後景層‐シニフィエの、対は、結局、前景層‐シニフィアンと前景層‐シニフィアンの、対へと、置き換えられる、ことになり、結局は、その対は、前景層‐シニフィアンの連鎖、となる、のであり、その連鎖を支えているのが、常に、逃げ去る(無限後退する)後景層‐シニフィエ、なのである。
意味作用、とは、この、終わることのない連鎖(運動)、である。


この逃げ去る後景層‐シニフィエ、もまた、あらかじめ、公共的なシニフィアン、に、置き換えられ、定義づけられる。
すなわち、逃げ去る果て、にある、最終的な、後景層‐シニフィエ、を、究極の、後景層‐シニフィエ、として、仮想的に、想定する(あらかじめ、先取りする)、のである。そのような、空想的‐幻想的な、後景層‐シニフィエ、が、まさに、空白のまま、主人のシニフィアン(神、真理、理念、など)、という、上辺だけの容器、として、対象化される、ことになる、のである。
要するに、主人のシニフィアン‐究極のシニフィエは、空っぽの形式‐逃げ去る内容、である、が、それは、意味作用‐シニフィアンの連鎖、の全体を、背後から支える、超越的な根拠、であり、その最終的な、唯一の根拠からの、後ろ倒しの論理、によって、意味作用‐シニフィアンの連鎖のすべてを、根拠づけ、そのすべてに、統一性(同一性)を、付与する、のである。


およそ、秩序‐制度(一つの世界)、というものは、この、終止符を打つ、超越的な点(の想定)、によってこそ、意味の全体性、として、統一的に吊り下げられている、もの、である。
この、主人のシニフィアン‐究極のシニフィエ、こそ、自己回帰、の幻想、なのである、が、自己回帰することのない、脱自性、としての、主体化(対自存在)、にこそ、それは、相関する、のである、以上、主人のシニフィアン‐究極のシニフィエは、存在しない、のである。
すなわち、主人のシニフィアン‐究極のシニフィエは、われわれという、主体性(非人称的存在)、であるが、なお、個別性(自己性)、も備えた、主体‐自己における、習慣において、のみ、想定される、ことになる、仮想の、超越的根拠、である、他はない、もの、なのである。


しかるに、そのような、仮想の、超越的根拠に、基づいた‐中心化された、仮想の虚構としての、習慣‐制度‐秩序、においては、主人のシニフィアン‐究極のシニフィエが、先取りされている、ために、前景層‐能記をなすものは、ひたすら、意味読解作用の、媒体、としての、意義、しか、持たない、のである。
つまり、前景層‐能記は、すなわち、主体性は、究極の意味されるもの、に、隷属する、と、見做される、というわけである。