自己性に傾いた実存(主体‐自己)、において、知覚‐思考は、習慣としての記憶、から、行動するために、最適のもの、を、選びとる‐想起する、ことによって、行動をなす。
繰り返される習慣的行動、においては、知覚‐思考は、習慣性に還元される。
主体性に傾いた実存(主体‐自己)、は、そのような、習慣的な知覚‐思考において、抑圧されている、潜在的な記憶が想起される可能性‐潜在的な記憶を再構成する可能性、を開く。
習慣における行動とは、現実的行動であり、習慣に基づいた選択、の根拠は、習慣的行動を営む人々が、そこで生活を保証される、制度‐秩序、のうちにある。
自己性とは、本来性への傾斜、であり、ある時点での、特殊な身体性によって屈折している、習慣による、知覚‐思考の、限定‐歪曲、であり、そのような、習慣とともにはたらく、限定‐歪曲された、知覚‐思考、のもとで、知覚‐思考の、制度的統一、を形づくる、もの(様態)、である。
それに対して、主体性の行動は、非人称的な実在、としての、主体性(対自存在)、を介する、知覚‐思考、として、すなわち、対自存在のあり方に、おける、知覚‐思考、として、事物やその現象に関わり合う。
つまり、主体性‐主体意識は、自己性‐習慣(習慣的制度)の網をくぐり抜けた、限りでの、意識(偶然的な意識)、であり、ゆえに、自己性‐習慣(習慣的制度)は、主体化‐非人称への衝動、にとっての、抑圧形態、となる。
要するに、実存(主体‐自己)は、それが、自己性(本来性への傾斜)に、留まる、限りにおいては、主体化以前的な状態、すなわち、習慣とともにはたらく知覚‐思考、のもとでの、単なる習慣そのもの、にある、ということである。
潜在的な過去(無意識的な記憶)の残存、においては、時間‐不可逆性、の制約、はなく、過去の知覚‐思考は、現在の知覚‐思考と、様々な結びつき方、をする。
しかし、習慣によって、抑圧されている、知覚‐思考は、そのまま、記憶‐想起の抑圧、へと、反映される、ので、したがって、現在の制度的な表象において、抑圧されている、知覚‐思考は、現在の、現実的行動、として、浮かび上がることはない。
したがって、それに対する、主体性(習慣‐制度からの主体化)、とは、非現実的な夢想、であり、それは、現在の知覚‐思考から、遠い、ということ、ではなく、現在の知覚‐思考における、事物のあらわれ、の、諸々の関係、に対応する、様々な、記憶の想起による、現実的行動の、猶予状態、にある、ということ、である。
すなわち、この猶予状態とは、現実的行動に、移る、前の、選択の、習慣的な一義づけ、への、躊躇、であり、可能的行動の多数性‐複数的な意味作用、に、長く、滞留する、ということ、である。
こうした、夢想的な、複数的な意味作用、は、外界の事物の諸関係を、習慣的な意味作用によって、意味づける、場合、よりも、はるかに多く、ニュアンスに富んだ様相、として、映し出す‐描き出す、もの、である。
このような、夢想的な、複数的な意味、は、イマージュとしての物質のあらわれ、であり、習慣的意味‐制度的現実性、ではない、前‐意味(現実)的な領野、である、が、外界の対象における、可能な限り、多く見出される、諸関係を通して、あらわれる、事物の可能性‐意味作用の潜在的可能性、なのである。
習慣的意味における、知覚‐思考の抑圧、の目的は、制度内での、生存‐日常生活の、安定、にあり、すなわち、第二の本能たる、習慣的現実性、自体の、満足、にある、のである、が、それに対して、主体性における、習慣的行動の猶予状態への滞留は、外界の事物の、可能な限り多様な諸関係を、見守ること、すなわち、知の獲得を、もたらす、二種類の実在(主体‐自己)の、間の、差異であり、接点でもある、対自存在として実存する、ことの、満足、にある、ということ、である。
習慣は、自己性‐実存、として、エゴイズム(個別的自己性への回帰)、であり、そこでは、諸関係への知は、個別性において、言語や理性を介して確立される意味、を、固定して、その統一性に、固着すること、になる、のである、が、主体性‐実存、においては、主体性‐対自存在の、偶然性(無としての自由)にとどまる、猶予、における、諸関係のニュアンス‐差異性、を、生きること、において、それ自身が分節化され、自身の習慣的統一を、打ち砕かれること、になる、のである。
主体化は、このような、現在における猶予である、と同時に、無である、という、矛盾したあり方、で、常に、自己性‐習慣性へと回収されていく現在から、逃れる、差延、において、可能な限り、多様な事物の諸関係(ありうべき、様々な、関係、や、法則、や、秩序)、に対する、知の、あくなき追求、そのもの、としてある、のである。
