そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


サルトルの言う、実存(対自存在)とは、主体‐自己(対自‐即自)、である。
われわれ実存(主体‐自己)において、本質‐自己性、に先立つ、偶然性、としての、主体性、は、何ものにも規定されていない(すなわち、自己性に規定されていない)、ゆえに、完全に、自由である、が、同時に、虚無(自己性という内実を失っている、無)、でもある。


主体性‐実存(主体性に傾いた、主体‐自己)、は、過去にも未来にも規定されることのない、現在における、投企、であり、すなわち、その、自由‐虚無、のうちで、一瞬一瞬の、選択(決断‐行為)、としてある。
しかし、主体性‐実存は、その、拠りどころのなさ、によって、不安、である。
自己性とは、即自的な存在、であり、自己性‐実存(自己性に傾いた、主体‐自己)、は、主体性の自由を、完全に放棄して、慣習や、既存の制度のうちに、埋没しきり、その事実自体を、忘却して、物(自己充足の見かけ)のように、ただ、生きながらえる。


主体性‐実存(対自存在)は、その知覚‐思考において、即自的な存在としての自己性(モナド的な自己世界‐身体的現実性)、そのもの、に、至りつくことはできず、ただ、それを、(公共の場に、公共の対象として)あらわれさせる(存在化する)、ことしか、できない。
ゆえに、主体性は、自らが、自己性にとって、非本質的、である、という、意識、を伴う‐抱く。
したがって、主体性は、この、己の、非本質性の自覚、から、自己性(身体的現実性としての事物世界)に、対して、本質である、ような存在、となることを、すなわち、調和した、主体‐自己の充実、となることを、積極的に、望む、ことになる。


このことから、自己性への傾斜、において、なお、知覚(自己性)から、想像欧的意識(主体性)への、受動性(自己性)から、能動性(主体性)への、変換意識、が生じる、のであり、それこそが、主体意識、すなわち、自己性における、知覚‐事物、を、意味づける、主体的能動性、としての、私、という、意味作用の主体、となるのである。
しかし、知覚‐思考に際して、主体意識が、自己性における、知覚‐事物、と、ぴったり一致する、ことがない、のみならず、主体意識は、自己性における、知覚‐事物、にとって、非本質的、でしかなく、要するに、主体意識は、常に‐すでに、それ(自己性)ではない、としてしか、己を実現‐自覚できない、のである、が、まさに、それゆえに、そのような、否定性‐懐疑、として、こそ、すなわち、自己性の裏返し、として、こそ、その、優位性‐肯定性が、成立し得ている、ということなのである。


こうして、意味作用は、知覚‐自己性、ではなく、想像的な意識‐主体性、とともに、はじまる、のであり、すなわち、意味作用には、即自存在からの、脱自性、としての、肯定的な主体性、が、必要なのである、が、この、肯定的な主体性(能動性としての想像作用)、とは、知覚‐思考に際しての、非本質性、という、屈辱、を、忘却しなければならない、という、反動的な能動性、なのである。


主体性‐想像的意識、が、意味するもの(シニフィアン)の層、を、無化して‐突き破って、意味されるもの(シニフィエ)へと、向かう、のは、意味されるもの、としての、失われた、自己性‐自身の根拠、に向かう、ということ、であり、要するに、この、失われた自己性‐根拠、という、意味されるもの、への、自己関係を求める、ということ、である。
というのも、そのような自己回帰、だけが、主体性自らの条件である、主体性‐実存(対自存在)における、偶然性‐非本質性、の虚無‐欠落、を穴埋めする、ための、唯一の方途、と見做される、からである。


とはいえ、意味されるもの‐自己性が、究極の、超越的なシニフィエ、として、主体性から、永遠に、逃げ去る、という様態にある、ことこそが、主体性‐実存(想像的意識)、なのであり、それこそが、主体性‐実存の、偶然性‐自由、のままにある、あり方、を保証している、のである、から、それゆえ、結局、主体性‐実存は、この偶然性‐自由を、必然性に、転化する、意味づけへの意志、として、まさに、自己性を、抑圧する、ことになる、のである。


こうして、主体性は、意味化する意志、として、意味作用における、意味するもの(シニフィアン)、と、意味されるもの(シニフィエ)、の間の、必然的関係を、構築する、のであり、この必然的関係は、象徴(言語)秩序の本質に属する、のである、が、意味されるもの(シニフィエ)‐自己性、が、失われているもの、である、以上、意味するもの(シニフィアン)、と、意味されるもの(シニフィエ)、との、関係‐対、は、結局のところ、見せかけ、であり、実際には、意味するもの(シニフィアン)、と、意味するもの(シニフィアン)、との関係‐対、であり、要するに、意味するもの(シニフィアン)、の連鎖、なのであり、意味されるもの(シニフィエ)は、常に、後退する‐逃げ去る、のである、から、この、無限後退する、究極のシニフィエ‐失われた自己性、を、あらかじめ、究極の根拠、として、幻想的に先取りする、ことが、意味の専制、ということ、なのであり、すなわち、結局、その究極のシニフィエ、となるのは、シニフィアンであり、要するに、空っぽのシニフィアン(中身を欠いたシニフィアン、シニフィエなきシニフィアン)、としての、幻想的な‐空想的な主人のシニフィアン、なのである、が、そのような、究極のシニフィエ‐根拠、が、主体性の偶然性‐自由、から、必然性、への、欲求の、根拠となる、という、自己完結‐目的論を描くことになる、ということである。
要するに、このようにして、拠りどころのない、主体性は、超越的なシニフィエ(実際には、超越的なシニフィエは、自ら想定したシニフィアン‐主人のシニフィアン、であるから、先取りされた円環のもとで、真の、超越的なシニフィエを、永遠に、求め続ける、状態にある)に、繫ぎとめられる‐方向づけられる、ことになるのである。