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てくてく撮影日記

投稿内容は写真を主体にしつつ、ブラブラさんぽしていて発見したことも、くまなくチェックしていきますよ。

日本の道路の中心として置かれた日本橋の隣に架かる橋。









江戸時代以降この周辺には「日本橋魚河岸」があったことからこの名前がついている。魚河岸は関東大震災を機に築地へ移転し、今はさらに豊洲への移転予定になっている。


通称日銀通りを通している。この通りは一方通行で小さいものだが、大通りに沿った抜け道で橋の北詰には三越本店、かつ名のとおり日銀にも直結していて、東京駅方面からやって来る交通量は多い。近年は隣の日本橋そのものが観光スポットになっていて、休日も人の往来が絶えない様子。


橋は美しい曲線を用いたガーダー橋。

行灯や街路灯も統一感あるものになっている。これは、老朽化により1990年に大改修を行い、伝統的な木組みの様式を取り入れたからだそうだ。


東京都中央区

形式:3径間連続桁橋

橋長:52m

幅員:11m

竣工:1925年(大正14年) (2代目)

    初代架橋1891年(明治24年)

皇居近くの和田倉濠にかかる、その名も和田倉橋。

江戸時代になる頃には既にこの場所に橋が架かっていたそうだ。








関東大震災の時に、江戸時代から残っていた木橋は落ちてしまい、併設をしていた和田倉門も倒壊してしまった。

その後は南側約200mの地点に車道を作ることになる。橋を架けずに濠を埋めたので、南側の馬場先濠と遮断される格好になる。この道路は、現在東京駅丸の内口の正面と皇居前広場とを繋いでいる。


橋はしばらくの間再建されなかったが、皇居周辺の緑化整備が進む中、和田倉橋も再建されることとなり、現在の橋が復活している。

一見、江戸情緒ある景観だが、再建された時期もあってかコンクリート桁で、欄干部や装飾に木材を多用して、江戸時代にかけられていた雰囲気を再現している。一方、和田倉門は修復や再建されていない。


北に隣接するパレスホテルには、「和田倉」の名の日本料理店がある。


東京都千代田区

形式:6径間鉄筋コンクリート桁

橋長:不明

幅員:不明

竣工:<現橋再建>1972年(昭和47年)

    <初代架橋>1602年(慶長6年)

舞台は横浜の中心街。

運河も多いのでたくさんの橋が架かる。













この橋の誕生は1893年。120年を超える今も現役である。

全国で現存するピントラス構造の橋としては、最古の部類。


少し見にくいが最後の写真にあるとおり、以前はもう少し下流の位置にかかっていたものを移設したものである。移設は2回行われている。


そのため、最古と言ってもこの場所にこの名称でかかっている時期はまだ20年程ということになる。しかし、移設に際して構造をそのまま流用しており、部材の追加や撤去は行われていないため、登場時からその姿は変わらない。

しかも現役の歩行者専用橋として使用されており、長い歴史を刻んだ橋である。


ピントラスとは、写真にもあるように、直線状の部材と部材を一本のピンを軸にして繋いでいる。部材は一本の棒状でしかないから、簡単な構造で強度を稼ぐ方法として昭和になる前まではよく見られた。

その後は車の大型化や交通量増大で強度向上や大型化を求められるようになると、ピン結合による構造では強度が不足してしまい、技術の進歩もあって、その後のトラス構造は溶接による部材結合になっていった。

ピントラスは、使用する部品点数が多く、メンテナンスに手間がかかるため、現在は急速に姿を消している。


高速道路で蓋をされた橋は都会ならではの光景。あの日本橋すらそうされたのだから、高度経済成長とは今とは異なった意味でものすごい変化の時代であったのだろう。

この狭い空間にそれぞれの構造物が譲り合うかのようにバランスよく配置されているのも日本の誇るべき建築技術。そう思うとこの光景もなんだか愛着が沸いてくるもの。


かながわの橋100選、横浜市歴史的建造物にも指定されている。


神奈川県横浜市南区

形式:平行弦プラットトラス(ピン結合)

橋長:24.3m

幅員:5.6m

竣工:1893年(明治26年)

(浦舟水道橋として現地移設は1989年(平成元年))

清水橋という名前の橋はたくさんある。

どこかで聞いたことある、、、、と思う人も多いのでは?


今回の清水橋は、東京の下町、横十間川にかかる橋。











中央の桁は見たところカンチレバー方式で、シリーズ14で紹介した木更木橋と同じタイプ。この川幅とこの規模でこの方式を取り入れているのは、何らかの理由があると思わずにいられない。。。

もう一つ魅力的なのが橋脚。古いことがすぐに分かるが、最後の写真にあるように、この形は当時のこだわりなのか。少しでも橋に優雅なイメージを与えようとしたのかもしれない。


橋の東詰信号機に書かれている交差点名が「城東清水橋」というのも興味深い。歴史を感じさせる名称かと思ったら、どうやら江戸時代には既にこのあたり橋がかけられていたようだ。

橋の西詰は猿江恩師公園が広がっているが、江戸時代は幕府公認の貯木場だったため、当時はそのアクセスを担っていたか何か役割があったのかもしれない。


東京都江東区

形式:3径間カンチレバープレートガーダー橋

橋長:40.4m

幅員:11.5m

竣工:1927年(昭和2年) (1980年改修)

トラス橋の宝庫、東京の江東区。

数が多いだけに形もいろいろあるが、この亀久橋はその中でも個性的。













亀久橋のかかる仙台掘川は、江戸時代に開削された運河。


トラスは両端に垂直材を用いており、横から見ると角ばった印象。支柱のメインと斜めの骨材で色分けしているのはおもしろい。

橋を正面から見ると、上部に意味ありげな装飾が施されているのが分かる。しかもそこは曲線を取り入れて、角ばった印象のトラスにアクセントを添えている。そして、袂にある親柱にはステンドグラスのようなデザインが施されている。夜にはきっと美しい明かりが灯るのだろう。歩道が広いのもうれしい。

ここも震災復興橋のひとつ。昭和4、5年に江東区内(当時は深川区と城東区)には105も橋が架けられたそうだが、すべてを画一的なものにせず、わずかでも個性を見出そうとした当時の都の担当者や設計者は、この亀久橋に何を思ってこのようなデザインとしたのだろうか。

この亀久橋付近は桜が植えられたが、近隣の門前仲町や清澄庭園と比べると、この仙台掘川沿いは駅から少し離れていて露店も無いから訪れる人が少なめ。今年桜を静かに味わいたい都内の方は、この付近も良いかも。


東京都江東区

形式:鋼製ワーレントラス

橋長:34.2m

幅員:17.7m

竣工:1929年(昭和4年)

前回に続いて相模川に架かる橋、馬入橋(ばにゅうばし)。


下流域に位置し、国道1号を通す。

すぐ南隣を東海道線が並走している。




相模川は、このあたりで馬入川と名前を変えていた時期がある。

橋の名前は、その通称から取ったもの。


中世の頃、相模川は旧東海道を浮橋で渡っていた。鎌倉時代に源頼朝が橋供養という式典を行った後に、落馬して死んだとされていて、そこから馬入川という名がついたと言われている。(本当に落馬したかは諸説あり)


河口付近で水深があったためか、江戸時代以降は渡船に変わったが、明治以降は永久橋が望まれるようになり、最初は木橋が架けられた。

関東大震災で被災するなどを経て、現在の橋は4代目だ。


最後の写真は橋からの眺め。

日本の百名橋、かながわの橋100選。


神奈川県茅ヶ崎市/平塚市

形式:7径間鋼単純鈑桁橋(2径間連続+3径間連続+2径間連続桁)

橋長:563m

幅員:13.3m

竣工:1980年(昭和55年)

相模川に架かり、どちらも神奈川県道510号線を通す。手前の4連アーチが小倉橋で、奥の大きなアーチが新小倉橋。




かつて相模川の鮎を運んだと言われる津久井往還と、大山街道への抜け道、甲州街道への抜け道とを結ぶ地域交通の要衝であったが、明治を過ぎてもしばらく橋は無く、昭和初期になってようやく小倉橋が架けられた。


橋の幅員は当時としては十分だったが、戦後は車輌が大型化し、路線バスや採石場を行き来するダンプカーは交互通行を余儀なくされ、通勤時間帯と行楽客の多い休日は渋滞が頻発するようになった。また、歩道が無いのも安全上問題視されていた。


そこで、小倉橋の渋滞緩和のために架けられたのが大きい方の新小倉橋だ。

当初は架け替える予定だったそうだが、圏央道アクセスなど周辺の道路事情を考慮して、新橋は両岸の高い位置を大きく跨いで架けられたため、小倉橋はその後も残されることになった。


新橋は景観に配慮して、旧橋とシルエットが重ならないように架橋されており、とても好感が持てる。同じような形にしながらこう上手に配置することは、関係者の方の苦労があったのではないかと思う。







上路コンクリートアーチは全国的に見られるが、小倉橋は屈指の美しさかと。


自然に溶け込むように佇む様子が美しい景観と称され、かながわの景勝50選 、相模川八景、かながわの橋100選、さらに2008年(平成20年)には土木学会選奨土木遺産に認定されている。
また、相模川に現存する橋として最も古い。


橋の東岸には、大正3年創業の桂川亭がある。

美しい橋を眺めつつ、近郊にあえて宿泊というのは贅沢だが、いつか訪れてみたい。


●小倉橋

形式:4径間連続鉄筋コンクリート上路固定アーチ

橋長:176.4m

幅員:4.5m

竣工:1938年(昭和13年)


●新小倉橋

形式:上路開腹RC固定アーチ+4径間PC箱桁+PCTラーメン

橋長:410m(アーチ部分193m)

幅員:11.25m×2 (分離式)

竣工:2000年(平成12年) (開通は2004年)


神奈川県相模原市緑区

アイル橋は目黒川河口付近の天王洲公園に架かる歩行者専用橋。

バスケットハンドル型ニールセン・ローゼ橋。



ニールセン・ローゼは1980年代以降よく使われている形式で、アーチは白が多い。

ニールセンは、このアーチを考えた人の名前。柱をケーブルに置き換えて斜めに張ったもので、ケーブル材を使うことで線が細くなるため、曲線アーチがより強調されて、見た目は軽快な印象を受ける。


また、名前の通りアーチの上部はバスケットの取っ手を持ったときのように間隔が狭くなっていて、アーチが内側に傾斜している。橋の長さの割りに幅があまり無いので、アーチが高く感じる。









アイル橋は天王洲地域の開発の中で誕生したものだが、周辺はウォーターフロントらしい風情もありながら、下町の風景もすぐそこに。加えて高層ビルも増えて、周囲は都会らしい雑然とした風景が広がる。

水が多いだけに、のんびりとした雰囲気もある。


は橋の上から富士山がよく見える。

地平に近いところから富士山が見えるのも都内23区では少なくなってきており貴重である。


最後の写真はちょっぴり頭を見せた富士山と橋のアーチが分かるところで。2月と10月にはダイヤモンド富士も見ることができる。


東京都品川区

形式:バスケットハンドル型ニールセン・ローゼ橋

橋長:100m

幅員:5m程?

竣工:1996年(平成8年)

静岡県の修善寺温泉にある御幸橋(みゆきばし)。












一番下の写真は橋から望んだ日没後の西の空。


橋の近くには鎌倉幕府二代将軍の源頼家の墓があり、そこへ行くルートになっている。(鎌倉時代当時同じ場所に橋があったかどうかは不明)


日本史の教科書には記憶に残らない程度に出てきていたと思う源頼家。

18歳の若さで将軍になるも病気で危篤に陥り、北条氏の策略で修善寺の地に幽閉されるとほどなく暗殺される。

山深い伊豆の山地の麓ゆえ、当時はこうした事情に好都合の場所だったのかもしれない。


静かな環境は近年でもあまり変わらないようで、岡本綺堂や川端康成などの文豪が何度もこの地を訪れていたそうだ。


御幸橋はこの地域では古い橋。

今ではなかなか見られない、柔らかくも細いアーチは繊細なイメージ。このような小さめのコンクリートアーチ橋が90年にわたり現役というのは全国的にも貴重だと思う。


橋のデータはほとんど分からず、把握できたもののみ。


静岡県伊豆市

形式:上路式RCコンクリート開腹アーチ橋

橋長:不明

幅員:不明

竣工:1924年(大正13年)9月

行徳橋は、千葉県道6号線を通し、江戸川を渡る橋。
行徳可動堰を併設している。





交通量の割には狭隘で大型車は通行禁止だが路線バスは走っている。歩道も自転車同士のすれ違いは一方が停止しないと危険なくらい。交通量を補うため下流に新行徳橋が架けられている。

江戸川の最下流部は、元々現在の都県境である旧江戸川を流れて東京湾に注いでいた。旧江戸川部分は河川の拡幅が困難であったため、この行徳橋より上流300m程のところから放水路が開削され、行徳地区は分断されたためこの橋が誕生した。
なお、江戸川放水路の完成は1918年で、当時は木橋が架けられていた。


可動堰は、江戸川河口堰とも呼ばれている。
竣工は1957年。
東京湾からの海水遡上防止や、河川の流量調整を行っているが、常に閉まっていて、年に数回も開かないらしい。
かつては丸太のようなゲートが回転しながら開いたそうだが、近年更新され現在はローラーゲートというものに交換されている。(回るところ見たかった・・・)

2007年の台風の時にはボルトが腐食で破損し、一部開かない事故も発生したほどであったため、ゲートの更新を行ったそうだ。

今後は行徳橋の架け替えが予定されているが、近隣の湿地に「ヒヌマイトトンボ」という希少昆虫が生息しており、対策を検討した上で建設をすすめる予定とのことである。

昭和の面影を強く残す行徳橋は数年内に見納めになりそう。

千葉県市川市
形式:鋼製連続桁橋
橋長:422m
幅員:7m(歩道含む)
竣工:1956年(昭和31年)