坂上田村麻呂さん と 安倍 引田臣 比羅夫さん
今の人と
先の人との違い・・・・ヒューマンビーイング PHUANNE
ふいと
生きるために必要な息を吹きつけられたから
土から出来ているそれは
生きる
ふーーーー
FOOOOOO
PHOOOOO
BHUOOOOOO
VEUOOOOOOOO
ふひいと
PUHITO
PHUEHITO
ふひと
不比等
漢字は音を表記したいだけですから
えみし
毛
け
生きる事の力の証明
生えて来るそれ
木も
小さな種子のひとつから
ひいとおほつう
から
地から天に向かい
緑青葉の芽を出す
その様こそ
生
真っ白な根っこ
そして年 月の満ち欠けを経て日輪は
東から上昇し
みな
みむく
真空の中にひかあり
日火ひかる
かかやける
西に
しつまる
光の無いよは
星々の
曜
ひかる
点滅
きらほし
北斗
天主の座する星
世界の統治者であるその御主
7つの皇極
三つ星
世界は
大きな龜の上に回転する大蛇
そこにいろいろな存在がある事
などなど
HINDO
大きな河の向う岸にある土地にすもうと
移動してきた
西から東に
パーシル
ペルシア
ウルの人々は
西に向かいます
日の昇地
オリエントから
日の沈む地
オクシタン
しかしそれは
地中海の中心として
みると
その人を中心として
世界は構成されてある
人の知は
体験して
経験して
物事を
知る事になるが
理知でも
推定は可能だし
それと
現実の現用を観察し
ことわりを
習うこと
知を
織りなす
綾なす
編み成す
営む
運営
運ぶ事は
何を
administrator
中心を動かす人
ここは世界の中心とすると
そうして
自己の居場所をセンター化
しかし同時に
センターは
世界中にある
サブシステムの分類
いくつもの津
つもりあがる
品物など
あつまる人々のいる場所
ところ
處
居所
大きな屋根のある場所
おおやけ
大屋家
おおやけ
侯
公
君侯
きみ
アーリア
司祭は上位者である事
司祭とは
多くの人々と神々を仲介し
結ぶ仕事を生業としている
一生涯の役目としてそれを完遂して死滅を迎える事
祭司
神と人に奉仕する人を
祭司
司祭
それぞれに奉仕
自分から進んで向かい合う事
特に
困窮し
苦難を被り
重荷を背負っている者を
見つけて
神々に
その者の為に
身代わりに
意をのる
宣べる
そして
執り成し
恩恵を
頂く
それを
その困窮者の
至善徳を必要十二分とし
充満する事
これを
祈願
祈祷
念祷
自分たちの生活の質を保持するために
祈るのではないですし
そもそも
おおやけ
とは
その意味が
はじめにあり
おわりまでそうだと云う事を
理解できる事は
必須だ
・・・・
偉いなら
あらゆるひとり
ひとりに
奉仕せ
とは
厳しい
磐の
事
言
そのもの
LOGOTHE
とは
それそのもの
これを放棄してしまっている司祭の者
祭司の者は
自分から
外れている事
きわめ
自己を知るとは
それ
自己覚知
2000年前は
日本の界隈はどんな状況であったか
1700年前は
1300年前は
今と
当時の人々と
その内実は
何が違いますか?
価値に対する見方
価値化する対象物
大事な物事は一体なんだったでしょうかね
ローマ帝国は2000年前には成立している
中原の大国 前漢も成立している
あへ
あんばい
あべ
木→紀
蘇我
大伴
中臣
葛城
安倍
物部
清原
忌部
犬養部
猪飼部
土師部
膳部
大化前代においては、伴造などの豪族に率いられて朝廷(ヤマト王権)に様々な物資あるいは労働力の形で奉仕を行った。また、5世紀後半以後に渡来した渡来人の技術者集団の中には品部に属した者が多いとされている。大化の改新以後、一部は廃止されるが残りは再編されて官司に付属され、貢納の一環として宮廷で用いる奢侈品や特殊な技術を必要とする工業製品の生産を義務付けられるようになる。大宝令内の職員令においては、所属官庁、品部名、法定戸数はそれぞれ以下のように定められていた。
図書寮-紙戸(50)
雅楽寮-楽戸…伎楽(49)・木登(8)・奈良笛吹(9)
造兵司-雑工戸…爪工(18)・楯縫(36)・幄作(16)
鼓吹司-鼓吹戸(大角吹)(218)
主船司-船戸(船守戸)(100)
主鷹司-鷹戸(鷹養戸)(17)
大蔵省-狛戸…忍海戸狛人(5)・竹志戸狛人(7)・村々狛人(30)・宮郡狛人(14)・大狛染(6)・衣染(21)・飛鳥沓縫(12)・呉床作(2)・蓋縫(11)・大笠縫(33)・桉作(72)
漆部司-漆部…漆部(15)・泥障(10)・革張(4)
織部司-染戸…錦綾織(110)・呉服部(7)・川内国広絹織人等(350)・緋染(70)・藍染(33)
大膳職-雑供戸…鵜飼(37)・江人(87)・網引(150)・未醤(20)
大炊寮-大炊戸(25)
典薬寮-薬戸(75)・乳戸(50)
造酒司-酒戸(185)
園池司-園戸(300)
土工司-泥戸(51)
主水司-氷戸(水戸)(114)
身分としては、一般の公民(百姓)と同じ良民を構成したが、公民と比べると身分は若干劣るものとされた。ただし、官庁への隷属度は弱く、戸籍登録も居住地の戸籍に一般公民と等しく登録されるなど、待遇としては一般公民との差別はほぼ無かったとされる。職務・身分を世襲する常の品部のほかに、一般公民より臨時に編入する借(かり)の品部が存在した。狛戸及び染戸の一部は毎年一定量の料物を貢納したが、その他は1戸あたり1名が一定期間の交替制か臨時に官司に上番して労役を行うか一定量の製品を貢納した。その代わりとして戸内の課役の一部もしくは全てが免除され、兵役からも除外された[1]。
奈良時代に入ると、養老5年(721年)に主鷹司の品部廃止が行われ、続いて天平宝字3年(759年)に高度な技術を要する「世業相伝者」以外の品戸は原則廃止されて公戸に編入(一般の公民扱い)された。その後も品戸の廃止が続き、平安時代の『延喜式』の時点では兵庫寮の鼓吹司のみとなった。これは古い部民制の残滓である品部そのものが律令制と相容れなかったこと、律令制の衰退によって品部の維持が困難になってきたこと、社会経済水準の向上によって民間からの調達・雇役が可能になったこと(この場合の民間には旧品部の商工業者からの調達を含む)が複雑に絡み合っていたと考えられている[1]。
学術的には同様の組織である雑戸と合わせて品部・雑戸制(しなべ・ざっこせい)とよぶ場合もあるが、雑戸の職掌範囲は軍事関係の技術労働に従事しており、またその戸籍は一般の戸籍とは違う雑戸籍が独自に構成されており、公民との法的な身分差は品部よりも強いとされる[2]。
藤原
蘇我氏は蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり政権を掌握していた。中臣鎌足(後の藤原鎌足)は蘇我氏による専横に憤り、大王家(皇室)へ権力を取り戻すためまず軽皇子(後の孝徳天皇)と接触するも、その器ではないと諦める。
そこで鎌足は、中大兄皇子に近付くことにした。蹴鞠の会で出会う話は有名である。2人は共に南淵請安に学び、蘇我氏打倒の計画を練ることになった。中大兄皇子は、蝦夷・入鹿に批判的な蘇我倉山田石川麻呂(蘇我石川麻呂)の娘と結婚して石川麻呂を味方にし、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田らも引き入れる。
そして、皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自害。蘇我体制に終止符を打った。
この蘇我氏本宗家滅亡事件をこの年の干支にちなんで乙巳の変という。
この乙巳の変が大化の改新の第一段階である[1]。
さかかみ
さかのうえ
大化5年(649年)左大臣・阿倍内麻呂が没して阿倍氏の宗家が絶えたため、比羅夫は傍系出身ながら阿倍氏一族の最有力者として、氏上的な地位に就いたと想定される[5]。
蝦夷征討・粛慎討伐
斉明天皇4年(658年)4月から斉明天皇6年(660年)5月にかけて、越国守であった比羅夫が蝦夷・粛慎征討を行ったことが『日本書紀』に記されている。これらには重複を指摘する意見のほか、一部の事象のみを史実とする著書もあった[5]。また、渡島をはじめ、日本書紀に書かれている地名を元に明治期に制定された地名があるため、同定には慎重な判断を要する。
斉明天皇4年(658年)4月に船軍180隻を率いて蝦夷を討ち、飽田・渟代二郡の蝦夷を降伏させる。降伏した蝦夷の酋長・恩荷に小乙上の冠位を与えるとともに、渟代・津軽二郡の郡領に定めた。また、有間浜で渡島の蝦夷を饗応している[6]。同年7月には蝦夷200人余りが朝廷に参上して物資を献上するとともに、饗応を受けた[7]。
同年、比羅夫は粛慎(みしはせ)を平らげ、生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上する[8]。粛慎(みしはせ)の出自については諸説ある。詳細は粛慎 (みしはせ)の項を参照。
斉明天皇5年(659年)3月には船軍180艘を率いて再び蝦夷を討つ。比羅夫は飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を一ヶ所に集めて饗応し禄を与える。また、後方羊蹄(シリベシ)に至り、蝦夷の要請を受けて当地に政所を置き郡領を任命して帰った[9]。「後方羊蹄」の具体的な場所は明らかでないが、余市説[10][11](後志国余市郡)、末期古墳のある札幌・江別説(石狩国札幌郡)や恵庭・千歳説(胆振国千歳郡)があるほか[注釈 1]、江戸時代末期の探検家・松浦武四郎は北海道の尻別川流域と比定し、同地を後志国(しりべしのくに)、同地の山を後方羊蹄山(しりべしやま)と名付けた。
この頃、再び粛慎と戦って帰還し、虜49人を朝廷に献じたともいう[12]。
斉明天皇6年(660年)3月に船軍200艘を率いて粛慎を討つ。比羅夫は大河(石狩川あるいは後志利別川と考える説がある)のほとりで、粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島(へろべのしま。粛慎の本拠地を樺太や[13]、奥尻島とする説などがある)まで追って戦い、能登馬身龍が戦死するもこれを破る[14]。同年5月に蝦夷50人余りを献じ、粛慎の47人を饗応した[15]。
白村江の戦い
天智天皇元年(662年)8月に中大兄皇子(後の天智天皇)の命により、新羅征討軍の後将軍として百済救援のために朝鮮半島に向かい、武器や食糧を送った(この時の冠位は大花下)。しかし、翌天智天皇2年(663年)新羅と唐の連合軍に敗れる(白村江の戦い)。この敗北により百済再興はならなかった。
天智天皇3年(664年)新冠位制度(冠位二十六階)の制定に伴って大錦上に叙せられる。またこの頃、筑紫大宰帥に任ぜられている(『続日本紀』)[16]。白村江の戦いののち、唐や新羅の来襲に備え、軍事経験豊かな比羅夫を九州地方の防衛責任者に任じたものと想定される[5]。
系譜
父:不詳 - 一説では阿倍目
母:不詳
生母不詳の子女
次男:阿倍宿奈麻呂(?-720)[16]
男子:阿倍船守 - 阿倍仲麻呂、阿倍帯麻呂の父
以下は以上のリンクから参照。
延暦21年(801) 坂上田村麻呂、蝦夷を平定。胆沢城に鎮守府を移し、唐丹村はその所轄となる。その後安倍氏が台頭し、その支配下に入る。
康平5年(1062) 前9年の役で功のあった清原氏の支配下に入る。
寛治元年(1087) 後3年の役で功のあった藤原氏の領有となる。
文治5年(1190) 源頼朝が藤原氏を滅ぼし、気仙郡は家臣の葛西氏の領有となる。
天正18年(1590) 豊臣秀吉の奥州仕置に際し、気仙郡は家臣木村氏の領有となるが、その後伊達氏の領有となり明治元年までその支配下に入る。
歴史2慶長13年(1608) 唐丹村海中山盛厳寺開創。
享和元年(1801) 伊能忠敬の第2次測量。唐丹でも測量を実施。
歴史3明治4年(1871) 廃藩置県。気仙郡は一関県に。その後一関県は水沢県となる。
明治6年(1873) 唐丹小学校、小白浜小学校、大石小学校創立。
明治8年(1875) 水沢県が磐井県となる。
明治9年(1876) 磐井県廃止。気仙郡は宮城県に編入される。その後、気仙郡は岩手県に編入され現在に至る。
明治22年(1889) 盛警察署唐丹村巡査駐在所開所。
明治22年(1889) 市町村制施行。気仙郡唐丹村が成立。村役場を小白浜に。
明治29年(1896) 明治三陸津波が発生。唐丹村も大被害を受ける。死者2100人。
明治35年(1902) 漁業法実施。唐丹村漁業組合設立。
明治39年(1906) 村立小白浜漁業補習学校創立。
以上歴史 | 唐丹町漁業協同組合から参照。
GNOSCO GNO 知る Know
Co Gno
認
言を知る事
行為として何か対象を理解したいと目を覚まして
覚知している状態を維持して保持していて
そこで
これは一体
何かと探求する努力を自己に投資する事
その機能は備えられている人体に
頭脳神経細胞システムと他の臓器の郡類と共に
神経細胞システムは
連動しているのですし
無数の細胞群はあるし
それは
人自身そのもの
包括して
統括して
統合化して観てみようとする努力を投じないと
そういう認知形成は完了しない
人を
どう
受け止めるか
受け入れる必要はまずない
受け入れるとは
混合する危険もある
まぜるな危険だ
誰かの言を
調べもしない
その根拠を
明確に確認もしていないまま
そうなんだと
信じ込む行為は
とても危険
自分をあやうくする
人生を棒に振る事
それでも
存在自体は在る事で
底辺でもアップステアでも
ソフィールでも
高い處にあっても
世界は
反転しているのですし
地球も自転し
いつでも回転しているのですし
宇宙も
UNI
VERSA
渦巻いていますし
天は円
地は方
とか
中原に生きていた人々は
認知して
概念を形成した
それは
生きるためには
必要な作業だったんだなと
邂逅できる次第だ
ある人の事
その人自身は
その人が努力して
自分の知り得た知識こそ優位だとして
固執する事例もある
それを基準にして
あらゆる物事を
審判
judgmentす
という習慣を内在化して
自働装置化している事例
caseもある
その時は
環境の事を調べるにしても
既に
審判行為を習慣にして
それこそ正義だと
胸に宗としているので
信じこむのは
その自分の習性そのもの
それを
指摘しても
その方は
とても憤慨し
憮然としてしまい
怒って
あなたこそ
間違いだ
とか
いいます
そこまでも固執してるとなると
とても
認知行動の仕組みを説明をしても
なかなかの至難で
対話自体が
まず
成立する事は無いので
難しいのは
その人との
コミュニケーションそのものです
それが
病気としての症候群である事象である事例と
それこそ正確な事は全部自らに具えられているのだという信じ込みの結果とは
まるで
かかわりの技法を変える必然がある
その事を明確に判断する
臨床として
場面面接とかいっている場合でもないのです
生活場面面接とかいいますけども
生活とは
一緒にある事を実際に
共に体験して
観る事をしていないなら
やはり
難しい
把握する事を
対象になっているその人自身の事を
理解するには
いっぱいの項目が不足するのです
ある病院から
自宅に退院する支援がある事例でも
再入院の予防を前提にする場合と
単純に
支援として
退院を促進しているだけ
では
結果が
全く違ってしまう
正に
回転ドア式の医療システムを更に促進しているだけの
支援となる可能性もあるのです
その人に向き合い
何が真に必要か
NEEDSは
何か
明確に査定するには
その作業に必要な時間と労力を事前に計算して
合理として
結果を上げている必要があるし
そこを価値化する作業を
少なくとも関係する者はみな共通の認識を形成して然る
べき事なのです
仕事ですので
べきという事もあるのは当然
特に
人命と肉体のそのものを保持するための仕組みを工作して
システム化し
アドミニストレーション自体を
知っているなら
もっともエコノミカルな
システムは
人自身を
きめ細やかに
丁寧
共に協働する事
コワーキングそのものを
生活全体SYSTEMで
実践する事こそ
有意義と云えるのです
そこで
SECTシステムを強化して
一部のセクトだけ
経済原理の仕組みが
有効に運用される法体系では
そもそも
社会とかいっているその内実は
改善などする事はまずない
のですし
それを明確に理解している事でも
権力を保持している者たちの
大勢は
口先は
DEMONSTRATIONするけども
内実は
身内の健全化としての
それまで
の仕事に
限定して
ある時は
感情を表明してみたり
パフォーマンスに余念がない
と言い切ることもできてしまう
人のしている事なので
現象として
まず
受け止める作業は
賢明かな
善だ
善の欠如だ
悪だ
と
審判しても
意味
が無いのです
全く
つまり
meritは
自分に得る事は無い
ただの批判は
完全に
DEMERIT
批判は
meritはあるが
それは
一つの裁定では無い
ASSESSMENTの行為の一つの過程である事を
規定する事が重要ではあるのです
よりよい
少しでも
砂の一粒でも善い事を
生産する事は
あらゆる人々にとり
善い事ではあるから
これは
合理として
計算は直ぐに出来ます
小さな薬の一粒を生産している職群の人達なら直ぐに理解できる事だ
MEDICINE
薬理
薬品
くすし
瑠璃光院
東の主人とは
薬師如来とかいいますけどもね
だれでしょうね
薬師如来って
奈山堂
完全にその存在の全部をゆるすこと 許可する事か 赦し 緩し 許し 揺るし
ゆるめること
束縛しない
こちらの私的理想像に変化を期待する事はしない
希望とは
善徳をその当人様が
全て知りたいなと
希望する事なので
自分では無い
自分は既に
善とは何かを理解する事を
一つ一つ
検分して
作業を積み重ねている次第だ
そもそも
人生のはじめのころからの
ワーキングそのもの
生涯
一生涯とは
マイライフ
自分にある事の人生と云う事
何をしているか
は
私的な合理の理由があるので
それを全部
他者に
ひけらかす事をしても
全く
御徳とは言えないし
作
るのは
文章
文書
文字を媒体にして
自分の内部にある生産した言を
羅列して
文作する事
これも
幼少から
積み重ねている仕事そのもの
趣味などではない
HOBI
では無い
自分にある仕事
ワーキングそのもの
勉強とか
そんなのは
必要無い
興味とか
関心は
人そのもの
他の生き物
地球
宇宙の仕組みなど
人は
最も興味ある対象だから
自分自身も人の一つ
事例
caseだし
親も
兄弟姉妹でも
他の人
友人でも
知人でも
見ず知らずの人でも
人は人
その方の自らにある属性はそれはそれ
存在自体は
唯一無二
何か組織にあるその人では無いので
そもそも
それらはみな属性としての物事でしかない
なぜその人はそれを選択する事になった
その過程を知る事こそ
賢明だ
PROCESS
意図
どんな気持ち
気分
感情
結果
誰かの影響を受け止めて
その果実を
その人自身は
腹に入れたのか
呑み込んだかどうか
そこを見分ける
識別する事は
方法論として正当だし
サイエンチアの一つの分野でもある
技法は
interviewもあるし
文書など
検分する事とか
人生の過程で
成果を知る事とか
今実際に思っている事とか
いろいろな
ライフヒストリーの展開の中での
実際に
起きた事とか
出来た事とか
経験した事実とか
想定していた内容とか
必要十二分条件をはじめに設定してから
臨む
臨床とは
クリニカルなのですから
査定するためには
ASSESSMENTの項目を複数用意して
予め検証する作業を実地で地道に検討する必要もあるのです
準備は重要だ
備え
土台
とは
それでもある
価値あるmeritを
知る事
善徳
善
と
徳
は
複数種類あるけども
それさえも
白黒で
審判しているなら
どうなるか
感情で
すきだとか
きらい
すきではない
いやだ
とか
それで
診断して
審判するなら
どうなってしまいますか
その者自身の成果は
苦手
後回しとかね
必要を理解していても
作業をあとまわしにしているなら
徳を得る事は無いのは
計算で直ぐに
理解できる
同時に
焦る必要もない
焦燥で
不安で
居る事は
賢明ではないのですし
悪い事ではない
から
善と
善の無いと云う事はあしこと
と
理解をススメル事は
よきこと
という具合
みよしのの
よしの
よくみたらよいき
南山堂