末の露もとの雫や世の中のおくれさきだつためしなるらむ
僧正遍昭
平安時代、僧正遍昭がはかない命のことを詠った短歌です。
源氏物語の中にも引用されております。
源氏物語の中にも引用されております。
現代訳をすれば…
草の葉の先の露も、葉の付け根の露も同じように消えてなくなるもの。それはタダ、先かあとかの話である。
人の命も同じようなものだ…
人の命も同じようなものだ…
という意味でしょうか。
人の命のはかなさを露に例えた名歌です…。
人は必ず滅するもの…
命は必ずなくなるもの…
命は必ずなくなるもの…
それはダレもがわかっています。
そのときが来ると知りつつ、人間は一生懸命生きているのです。
でも、それは突然やってくる事がある…
驚きました。
友人…とまでま親しくなかったのかもしれないけれど、気軽に呼び合う仲であり、色んなシーンでご一緒した方が昨日急逝されました。
元気だったのに…
心筋梗塞でした。
彼とは年齢もそんなに離れていない事から古くから存じており、また、ここ10年来トランペッターとしてモダンジャズを得意とするバンマスとしての彼と親交がありました。
そんな彼が心筋梗塞で急逝。
驚きました。
耳を疑いました。
耳を疑いました。
でも、それは嘘ではなく、事実だったのです。
まだまだ若い…
平均寿命からすると何十年も早い急逝…
平均寿命からすると何十年も早い急逝…
人間とははかないものですね。
昨日まで元気だった人が急にこの世から居なくなる…
はかないものです。
あるべきものはない…
永遠なんていうものは存在しない…
この世の中はすべてのものが移り変わる…
諸行無常
一切空
一切空
それはわかっている事なのですが、改めて人間という生物ははかないものだと感じるのです。
生死…
普通は『せいし』と読みますよね。
普通は『せいし』と読みますよね。
普通は生まれるということは凄くめでたい事でお祝いをします。
逆に、死ぬ事は不幸な事として悲しみ、そして嘆きます。
逆に、死ぬ事は不幸な事として悲しみ、そして嘆きます。
これが普段使われている『生死(せいし)』であり、『生』と『死』は別のものだという考え方です。
でも、仏教でいうところの『生死』は違います。
『せいし』ではなく、『しょうじ』と読みます。
『せいし』ではなく、『しょうじ』と読みます。
『しょうじ』とは生と死が一体のものだと考えられているのです。それは紙の表裏のように、表裏一体なのです。
つまり…
生死とは、生まれ変わり死に変わりしつつ、とどまる事のない迷えるワタシ達の姿…。
これを輪廻とも解釈されますが、この無限の生死を繰り返しているのがワタシ達人間…。
この無限の苦悩の世界から脱して、安らぎの世界に行き着くことを仏教は教えているのだ、というお話をお坊さんから聞いた事があります。
生死とは、生まれ変わり死に変わりしつつ、とどまる事のない迷えるワタシ達の姿…。
これを輪廻とも解釈されますが、この無限の生死を繰り返しているのがワタシ達人間…。
この無限の苦悩の世界から脱して、安らぎの世界に行き着くことを仏教は教えているのだ、というお話をお坊さんから聞いた事があります。
この安らぎの世界が『さとり』であり、『涅槃』と呼ばれる世界だそうです。
仏教の世界観は難しいけれど、ワタシにはストンと納得できる教え…
いえいえ、こうエラソウに書いてはいますが、ワタシは熱心な仏教徒でもなければ、悟りなど開けるほどの賢人でもございません。
いわば、愚弄の衆に属する人間です。
いわば、愚弄の衆に属する人間です。
でも…、
生老病死、愛別離苦、諸行無常、一切空、涅槃寂静…等々の教えは深くは理解できていないけれど、意味世界はおぼろげながらわかります。
生老病死、愛別離苦、諸行無常、一切空、涅槃寂静…等々の教えは深くは理解できていないけれど、意味世界はおぼろげながらわかります。
頭ではわかっていても、ワタシは修行もできていなければ、そういう高い域にまで達せない人間なので、死ぬということは不幸な事だとしかまだ現実論としてとらえる事ができません。まだまだですね…。
訃報を聞いたときは驚き信じられませんでした。
ご冥福をお祈りいたします。
そして…
今、こうも感じています。
今、まさにこの時間…
今、ワタシ達が生かされている時間…
今、ワタシ達が生かされている時間…
この時を精一杯生きる事が全てであり、そうする事がワタシ達のしなければならない事なのかなぁ…とも思います。

ジャズバンドで活躍していた在りし日の姿…
ご冥福をお祈りします。