京都国立博物館にて… 『法然~生涯と美術』展に行きましたの巻 | The Sam's Room

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まんまんだぶ、なんまんだぶ… なぁむあみだぶつ、南無阿弥陀仏…

もう説明は要りませんね。お念仏でございます。法然上人が提唱した浄土宗のお念仏でございます。

法然上人がお亡くなりになって…、いや、お亡くなりにではなくて『往生』されて800年が経ちます。

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京都国立博物館では800年忌として特別展『法然~生涯と美術』を5月8日まで開催しておりまして、ワタシも行って参りました。
と言っても、もう会期も終わってしまっておりますが…。
で、ワタシが行ったのは終わるギリギリでございましたのでもう10日以上も前のお話しですが、お聞き下されば幸いでございます。

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京都国立博物館…
京都東山・三十三間堂の向かいに位置する博物館ですね。約100年の歴史を持ち、本館は明治時代に建築された赤煉瓦の優美な建物。これだけでもステキですよね。
特別展をやっているのはこの建物です。
で、常設棟は…

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現在建て替え中で閉館しております。
これに伴い、正門である『西門』も閉鎖されております。この門は重厚でシンボルチックなものです。
早く新常設展示館が開館して欲しいですよねぇ。

さて、話しを戻しましょう。

『法然』さま。
鎌倉仏教のトップランナーですね。

1133年にお生まれになって、往生されたのが1212年。今年がちょうど800年になるのを機に法然上人が活躍した京都の地で開催されました。

モチロン関内は写真が撮れませんので、図録のご紹介だけ…

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今回の展示のメインは、法然伝記の集大成とも言える国宝『法然上人絵伝 48巻』です。時代により作が異なりますが、素晴らしい絵巻が中心となっていました。

また、関係寺院に代々伝わる秘宝や国宝、そして重要文化財など『法然上人』ゆかりの至宝が一堂に会する一大回顧展、すごく見応えがありました。

これを観れば法然上人の生涯や人物像、そして仏教美術などがよくわかります。
素晴らしい展示ですね…と書きましたが、残念ながら5月月8日(日)をもって展示は終了しましたが……。




………………… ……………………… ……………………

浄土宗と法然上人 についてチョットだけワタシの知るところを書いたりなんかしてみようじゃあ~りませんか。

但し、しかし、
実は、全く…
ワタシは坊さんではございませんし、そんなに学習を積んだ者でもございませぬ故、もしも解釈違いがあったら許してくださいませ。
なむあみだぁ~、なんまんだぁ~。


で…
実はワタシんちの宗派も『浄土宗』です。

お念仏は『なんまなんだぁ~ なんまんだぁ~ まむあみだぁ~ 南無阿弥陀仏』
というお馴染みのものですよね。

で、これはどんな意味かと言えば、『阿弥陀様に帰依します』ということです。。

えっ?
わかりにくいですか?
帰依(きえ)って言われてもわかんないですよねぇ…

じゃあ…
もっと簡単に言ってしまうと…

『おねがいしまっせ! 阿弥陀さまぁ~』
『たよりにしてまっせ! 阿弥陀様ぁ』
ということ…かな。

チョット乱暴な解釈ですが、一番簡単にわかりやすく言うなればそういうこと…でしょうか。

で、これをもっとマトモに言うならば…

『南無』はサンスクリット語のnamoで、『ワタシは帰依します』と解釈します。
『阿弥陀仏』はサンスクリット語のamitayus『無限の寿命を持つもの、無量寿』とamitabha『無限の光明を持つ者。無量光』で、単なるamita(無量)を音写したモノではないのです。

ツマリ…

法然上人は、
『阿弥陀仏にワタシを救ってくださいとお願いしましょう。そして阿弥陀仏に極楽浄土に導いていただこうではございませんかぁ』
と説いたのでございました。
それが『南無阿弥陀仏』なのでございます。


ではなぜ『南無阿弥陀仏』なのでしょうか…
ではなぜ法然上人お教えが大人気になったのでしょうか… 

法然上人が世に出る前のこと…、時は平安時代末期、当時の仏教は皆が成仏できるとは限らないという考え方が主流でした。

成仏できない人というのは、例えば…
・戦って人を殺すことが仕事である『武士』
・生き物を殺すことが仕事である『漁師や猟師』
・死んだ動物を扱う仕事の『比較を扱う職』
・『女性』は子供を産んだり生理などで血で穢れている
…という理由で『成仏』することは出来ないとされていたのです。

でも、しかし、but…
法然上人は、
『そんなアホなことはないでぇ! みんな成仏できるハズや。なんかエエ方法はないやろか…』
と一生懸命に勉強しはったんです。
法然さんは幼少の名前は『勢至丸』。子どもの頃からすっごく頭が良くって、『智恵第一の法然坊』。ワタシら凡人とは違い、智恵があるし利口の上に、更に勉学を重ねるのですからスゴイですよねぇ。
爪の垢が欲しい…!?

そして…
勉強に勉強を重ね、膨大な教典を読破し、研究するなかで『南無阿弥陀仏』を見いだし、これこそが衆生を救うものだと確信された…と解釈します。

法然上人の教えは当時の『罪深き人』『救われないとされていた衆生』に圧倒的人気を得ました。武士から一般大衆までこぞって法然上人の教えにすがったのです。

しかし、そうなっては反発も出てきて『弾圧』があり、ついには島流しという刑を受けることとなった話しは有名ですよね。

当時の旧仏教は『念仏』は低レベルだと考えていたのです。仏教の修行はそこから段々とレベルアップしながら究めていかねばならないと。
しかし、法然の念仏は『南無阿弥陀仏』と唱え、それが究極だとしたトコロに決定的な差があったのです。

つまり…
旧仏教からすると念仏しか唱えられない人間は愚か者でレベルが低い…としました。
しかし、それに対し法然は…
人間は全て愚者であり凡夫、つまり普通の人やっちゅうねん~と主張し、愚者でも賢者でも、そして身分に関係なく『人間はみんな平等』であると言ったのです。
身分制度の厳しい当時とすれば、この主張は社会の混乱を起こすと危惧され、弾圧されることとなった…と。簡単に言えばこういうコトですね。


さてさて、そういう難しいお話しは置いときまして、とにかく、それまでの仏教の考え方とはかなり違う宗派が出来たということで、日本の仏教界は大きく替わりましたよね。
仏教はこれによって一般大衆の前に救いの手をさしのべてきました。
そういう意味では、法然上人の功績は大きいモノがあります。

とかく世の中は『変化する』『改革する』と言うことには反目するという風潮があります。今あるモノを変えていくということはとても難しく反目は大きい…でも、変えていかないといけないことだっていっぱいあります。
常に良い方向に向けて、また望まれる方向に向けて『変革』していくことは重要ですが、『出る杭は打たれる』の言葉通り、決して安易な道ではないのです。しかし、誰かがそれを成し遂げないといけないのですよね。出る杭は打たれますが、出る杭が多くなってくれば打ちようもないのです。
そういうこと…ですよね。

で、話しがそれました…


今回の記述について、ちょっとした結論めいたことを…

この世の中のことは全ては『人間の営み』です。文化にしたって、経済にしたって、人間関係にしたって、宗教にしても。
要は人間にとって一番大事なのは『人間』なのだということ。でも『人間の存在とは』などと言うクソ難しいことよりも『人間の営みにおける仏教の意義』というのを考えないといけないと思います。

極論めいておりますが、こう思うのです。
仏教は『宗教』ではない…と。

少し乱暴な言い方ですが、仏教は広く一般的に解釈されている『宗教』という概念にあたらないのではないのかとワタシは解釈しています。
そもそも『Religion』を宗教と訳し、その意味世界の中に、元より存在していた日本語の『仏教』を混在させたところにマチガイがあるのかもしれません。もっと言えば、仏教は哲学だと表現した方が的確だから…。
要は『仏教は人間探求』であり『仏教とは人間のあるべき姿の追求』であるということではないでしょうか。
だから『宗教』と言うより、モノの見方考え方を教えてくれる学問…と言った方がわかりやすいと考えるのです。

言い換えれば、人間を追求することが仏教の目的であって、人間の存在や人間の置かれた現実を知ることによって法(無我であり縁起)をさとる智恵を得ることだと言うことでしょう。ですから、こういういとなみにより『人格の完成』が目標として存在するのです。

では『人格の完成』とは…
自らの心の安定を得ることによる幸福感、とでも言っておきましょうか。
問題点を極論すれば、物質や経済的力量で人間的価値が左右される価値観に問題があるのかもしれません。本当の豊かさとは『物、金』ではないはず。何ものにも拘束されない『心の自由』を持つことが大切なことなのに。
でも、人間は物欲に執着する…。
持たない物は持ちたいと願い、持っている物はそれを守ろうとする…。自己の欲望と執着からはなかなか逃れないのが人間の弱いところだと思うのです。しかし、そこから解放され、その呪縛から自由になること…すなわちこれが『心の自由』と解釈できますよね。

仏教は人間の持っている欲望や執着心から解放され『心の自由』を得ることを説いているのではないでしょうか。
これが人間の主体性の確立と言えるのかもしれません。

無の境地……
さとり……

仏教は奧が深く、そして涅槃寂静の世界は誰もが生きて到達できるものではないかもしれません。しかし、仏教は『いかにして生きていくか』という道しるべを与え続けてくれています。
ですから、仏教は『人づくりの道』だと言えますよね。


ややこしい話しになりました。
ワタシの浅学で偉そうなことを書きましたが、ド素人の勝手解釈とお笑いください。
でもね…、このセチガナイ現在社会にあって『人間性の回復』だとか『心の自由』を得られるのが仏教であり、その道筋を勉強させてくれるのも仏教だと思います。


江戸時代を境に『葬式仏教』になってしまった感はありますが、仏教は本来そうではなくて、『生きているワタシ達のもの』なのです。
もっと勉強して、そして精進して『人間性』を磨きたいものですね。


ああ、こんな偉そうなことを言っても実践できないワタシ…
ああ、煩悩に取り憑かれているワタシ…
ああ、108つの煩悩がワタシを惑わす…

まぁ、そんな愚者のワタシですが、出来るだけ精進していければナァ~などと頭の片隅にはあるのです…!?

なんまいだぁ~!