大患難と携挙について(B)   その②

大患難前携挙説を信じる人たちの

◎   3つ目の憶測

前携挙説を信じる人たちは、福音書の中の弟子たちは、すべてユダヤ人の弟子たちを指しており、教会を指してはいないという。なぜなら、教会は五旬節(ペンテコステ)の時まで形造られなかったからだと言う。

結論を言うと、4福音書の中のユダヤ人の弟子も現代のクリスチャンも同じである。

4福音書において主は、救われた者がすべて1度に携挙されるなどとは決して言っていない。主はいつも、ただ目を覚まして用意している者だけが携え上げられると言っている。前携挙説を主張する信者は、全教会が救われた者たちから構成されていることは知っているが、すべての者が目を覚まして用意しているわけではないことを知らないのではないか。当時の12弟子は間違いなくクリスチャンである。その理由 ‥

①   確かに、当時の弟子たちはユダヤ人であった。しかし、五旬節の時にも、彼らはあの時の集団の中にいたはずである。教会の柱と呼ばれた人たちも同じ集団の人々であった。五旬節の前に、また教会が設立される前に、主はすでに彼らを選ばれていた。主はこれらの者たちを養って、種とし、土台とされたのであった。さらに主は、教会の中で責任を負うことを特別に意図された。確かに教会はまだ設立されてはいなかったが、このことの前に主イエスから直接受けた教えを用い、また後に使徒パウロから受けた教えを用いて、教会の建造に役立てたのである。

②   大患難前携挙説を信じる人たちは、12弟子はユダヤ人であるからクリスチャンでないかのように言うが、○  使徒の働き12:26に「弟子たちは、アンテイオキアで初めて、キリスト者(Christians)と呼ばれるようになった」と書いてある。

さらにまた、クリスチャンという名称は、当時、他の人々が弟子たちを揶揄(やゆ)するために用いた名称だった。人々はこの名称を弟子たちにつけて、彼らがキリストのようであることを嘲(あざけ)った。人に2つの名前(弟子、クリスチャン)があるからといって、その人が2人であるとは限らない。弟子たちが後にクリスチャンと呼ばれたからといって、彼らが弟子たちと呼ばれた時に彼らと関係のあったすべての事柄が、クリスチャンとしての彼らに関係が無いと言うことができるだろうか?弟子たちはまぎれもなく、クリスチャンであり、教会であった。

③   マタイの福音書28:19

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授(さず)け、…   」。

ここでは、あらゆる国の人々を弟子とするようにと言っている。つまり、この世の救われた人すべてが弟子たちであり、ユダヤ人だけが弟子たちではないということである。上記のみ言葉にある「あらゆる国の人々」とは異邦人のことである。大患難前携挙説を主張する人たちは、弟子たちとはユダヤ人であると言うが、聖書も主も弟子たちの間にはユダヤ人がいるだけでなく、異邦人もいると言っている。(因みに新聖書辞典によれば、12弟子の1人ルカは異邦人であったと記している。)

目を覚ましていることと用意をすることに関して、主イエスが弟子たちに対して語られた言葉は、すべてのクリスチャンに対して語られた。したがって、主が命じたように目を覚まして用意することをしない者はすべて、主が来られる時に損失を被るであろう。

以上の考察から、前携挙説を信じる人たちが言う、教会全体が目を覚ましているかいないか、用意しているかいないかにかかわらず、大患難の前に全教会が携挙されると言うことができるだろうか?

 

大患難前携挙説を信じる兄弟姉妹の

◎   4つ目の憶測

彼らは主が4福音書の中で語られたすべての言葉、すべての教えは、ユダヤ人のためであった、と言う。今、当blogは、主のみ言葉が律法の下にある人に対するものであるか、それともクリスチャンに対するものであるかを見てみたいと思う。

①   主ご自身はどのように語られたか

○   マタイの福音書28:20

「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

これは主が地上で生きておられた時に、主がすべての弟子たちに語ったものである。主は弟子たちに、行ってすべての国民を弟子とするようにと命じられた。したがって、福音書の中のすべての教えは、クリスチャンに対して語られたものであって、ユダヤ人に対して語られたものではない。主のご命令は、当時の弟子たちだけに与えられたのではなく、使徒たちの教えを聞いて信じた人たちにも与えられたのである。

②   では、聖書はどのように語っているか

○   ヨハネの福音書14:26

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

聖霊はすべての言葉を、たとえそれらが何であろうと、わたしたちに思い起こさせてくださる。

③   使徒パウロはどのように語ったか

○   コロサイ人への手紙3:16

「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊か住むようにしなさい。」

これは、パウロがコロサイのクリスチャンたちに行うように命じたことである。

全教会が大患難が来る前に携挙されると信じる友人たちは、4福音書の教えはユダヤ人に対して語られたものであり、クリスチャンに対して語られたものではないと言う。しかし、これは間違っている。聖書は明らかに4福音書の中の主イエスの教えにわたしたちを戻そうとしている。

なぜ前携挙説を信じる人たちは、4福音書の教えは教会と関係がないと言うのだろうか?それは、4福音書の中の多くの場所が、『誰でも目を覚まして祈らず、用意して待っていない者は、主が来られる時に後に残される』と述べているからだとする。もし、彼らに反論してクリスチャンが携挙されることの条件は『目を覚まして用意していること』であると、4福音書から引用して言うと、彼らは、確かに福音書にそのように書いてあるが、それはユダヤ人に対する言葉であってクリスチャンに対するものではないと答える。前携挙説を信じる人たちによれば、信者が目を覚まして用意していてもいなくても、教会(それがどのような教会であろうと)の中にいる限り大患難が来る前に携挙されると言う。しかし、主はこのようには言われなかったし、聖霊もこのようには言われなかったし、パウロもこのようには言わなかった。したがって大患難前携挙説を主張する人たちのこのような理論は憶測に過ぎない。

* 全教会が目を覚まして用意していない限り、大患難が来る前に全教会が携挙されることは不可能なのである。

                ーーー    つづく

 

 

              2024.10. 7

         次回 ‥     2024.10.17

               大患難と携挙について(C)

 

    集会所 ‥     札幌市西区八軒6条東4丁目4ー11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大患難と携挙について(B)     その②

大患難前携挙説を信じる人たちの

◎  2つ目の憶測

前携挙説を信じるクリスチャンは、こう主張する。

「大患難の間には、聖霊はもはや地上におられない。なぜなら、主イエスが教会を天へと携え上げる時、聖霊をも天へと携え上げ(携挙し)た、そのため聖霊はもはや地上におられない。」

彼らのこの主張は第2テサロニケ2:6ー8を根拠としている。「不法の者がその定められた時に現れるようにと、今はその者を引き止めている者があることを、あなたがたは知っています。不法の秘密はすでに働いています。ただし、秘密であるのは、今引き止めている者が取り除かれる時までのことです。」そして前携挙説を信じる人たちが言うには、ここに大いなる罪人がおり、それは滅びの子であり、一般的に言われる反キリストである。「引き止めている者」とは、聖霊である。あるいは教会である。聖霊が取り除かれた後、不法の人が現れる。聖霊はどのようにして取り除かれるのかといえば、聖霊は携挙されることによって取り除かれる。この後、反キリストが現れ、次いで大患難が始まる。彼らは次のように結論する。「聖霊がすでに地上におられないのに、どうして教会が依然として地上にいることができるか?したがって全教会は、大患難前に携挙されていなければならない。」と。

これは推測に過ぎない。このような推測が間違っていることを聖書の証拠をもって指摘しなければならない。

 

①  先に書いた聖書第2テサロニケ2:6ー8の中に、不法の者(反キリスト)を引き止めているものがあるとあるが、この引き止めている者は何であるか、という前携挙説を信じる人たちは、それは聖霊であると解説するが、果たしてそうであろうか?

聖書は聖霊を多くの名称で呼んでいる。たとえば、霊、知恵の霊、啓示の霊などである。また、「霊」という言葉がついた名称がその他にも多い。確かに、聖書は聖霊のことを慰める方(かた)、あるいは慰め主と呼んでいる。しかし、このすぐ後で、聖書は、これは真理の霊でもあると告げている。

さて、聖書の中のどの節が、「聖霊は引き止めている者である」と述べているであろうか?聖書の中には、聖霊が引き止めている者であると述べている節はどこにも無い。「引き止めている者」は聖霊であると言うのは明らかに憶測に過ぎない。

 

②  先に述べたテサロニケ第2の2:7にある「今引き止めている者が取り除かれる時まで」の中の「今引き止めている者」を前携挙説を信じる人たちは聖霊と解釈し、次の「取り除かれる」を携挙のことと解釈する。「取り除かれる」をどうして携挙と言えるのか?これも一種の憶測推測である。

 

③  大患難前携挙説を主張する信徒たちは、大患難の期間には聖霊は地上におられないと言うが、では聖書はそのように言っているであろうか?彼らはまた、大患難の間には無数の人々が救われると言う。これら2つの事は、どのように調和させることができるのか?

聖霊はすでに携挙されたからもはや地上におられないと言う。それにもかかわらず、聖霊が地上におられた時よりも多くの人々が救われると言う。これはどんな教えであろうか?もし大患難の間に1人でも救われるとしたら、それはやはり地上に聖霊がおられることになるだろう。なぜなら、肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれるのは霊であるのだから。

 

④  聖書は、聖霊が大患難の前に天に携え上げられる、つまり携挙されるとは決して言っていない。

逆に聖書は、大患難の間に、聖霊が後の雨のように大いに注ぎ出されると述べている。このことに関する聖書を挙げてみよう。

○  ヨエル書2:28ー32(B.C400年ごろ)

「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも、女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。わたしは天と地にしるしを現れさせる。それは血と火と煙の柱。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主のみ名を呼び求める者はみな救われる。」

○  使徒の働き2:15ー21

「今は朝の9時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られたことです。『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主のみ名を呼び求める者はみな救われる。』」

 

上記の聖書の中で、ペテロはこう言っている。「これは、預言者ヨエルによって語られたことです。」と。(使徒2:16) ペテロは、五旬節(ペンテコステ)の日がヨエルの語ったことを成就したとは言わなかった。五旬節の日は、ヨエルが語ったことを文字通り、その通りには成就しなかった。

五旬節の日には、「① 血と②火と③煙の柱。主の大いなる恐るべき日が来る前に、④太陽は闇に⑤ 月は血に変わる。とヨエル書2:30ー31で描写された5つの特別な光景は無かった。では、ヨエルの預言はいつ成就するのか? それは大患難の時に成就する。今述べたヨエル書の5つの特別な光景は黙示録の中に見出すことができる。

○  黙示録6:12

「子羊が第6の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。太陽は毛織りの粗布(あらぬの)のように黒くなり、月の全面が血のようになった。」

ここの太陽と月の特別な光景は、ヨエル書の言葉と一致する。

○  黙示録8:7ー10では、第1と第2のラッパが鳴る時、火と血がある。第3のラッパが鳴る時にも、やはり火がある。これらは、火と血の特別な光景に関するヨエル書の言葉と一致する。

○  黙示録9:2では、第5のラッパが鳴る時、底知れぬ穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上がる。これは、煙の柱の特別な光景についてのヨエル書の言葉と一致する。

さて、以上の事柄は大患難の間に成就されている。聖霊はその時に大いに注ぎ出されている。五旬節のあの時(使徒の働き2:1ー6)は、ほんの前味わいぐらいに過ぎなかった。それで、ペテロは立ち上がって、それがヨエルの語ったことを「成就した」とは言わなかった。ペテロは、五旬節の日の朝のあの出来事は、預言者ヨエルによって語られたことであると言っただけだった。つまり、あの時(使徒2:1ー6の五旬節)の状況がヨエルが語ったことに幾らか似ていたということである。

前置きが長くなってしまった。つまり大患難前携挙説を主張する信徒たちは、聖霊はすでに携挙されたから地上にいないと主張するが、それは違う。ヨエルによれば、大患難の期間中に聖霊は空前の働きを行われるであろう。その時には、聖霊の力が無ければ、人々は決して多くの迫害と苦難に耐えることはできないであろう。もし大患難の間に聖霊が依然として地上におられるのであれば、前携挙説を信じる信者たちが言う、聖霊の携挙は教会の携挙であるという理由は、もはや何の聖書の根拠もないことになる。

 

                         ーー つづく

 

 

             2024.9.27

          次回‥2024.10.7

          大患難と携挙について(B)その②

          大患難前携挙説を信じる人たちの

          3つ目の憶測

 

           集会所‥札幌市西区八軒6条東4丁目4-11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大患難と携挙について(B)   その①

 

◎  大患難前携挙説を信じる兄弟姉妹は多くの憶測をもってその根拠としている。憶測は言うまでもなく聖書ではないので、彼らが言う憶測を1つ1つ指摘しなければならない。真実のために…  。

 

前携挙説を信じる人たちの

◎  1つ目の憶測

前携挙説を主張する兄弟姉妹はこう言う。(因みに前号に書いたラジオ伝道者も全く同じことを言っていた。)

黙示録3章の後、同19章までパタっと教会という文字が消えている。黙示録1ー3章まではこの時代の教会について述べている。教会という語が出てこないということは、地上に教会が無いからだ、すなわち地上の全教会が携挙されたからだと論ずる。

さて、果たしてそうであろうか?

物事を論じる時に、ある特定の用語(ここで言えば『教会』が言及されていないことを根拠にして憶測することは危険である。)

『教会』という用語は黙4ー19まで明確には言及されていないが、しかし教会という『事実』はそこにある。幾つかの例を挙げてみよう。

○  黙示録5: 9

「 …   あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い …  」

「主の血によって買われたこの人々…   」とある。教会という文字は使われていないが、この人々とはまぎれもなく教会である。

○  黙示録6: 9

「子羊が第5の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たちのたましいが、祭壇の下にいるのを見た。」

聖書はこの節の中で『教会』という言葉を用いていないが、この節の「人々」はまぎれもなく教会である。

前号に書いたラジオ伝道者は「天上にも祭壇があるんですね」と無理やり解釈して説教していたが、祭壇は地上にあるものであり、殉死したクリスチャンのたましいは今に至るも祭壇の下すなわち地下にいる。○  使徒の働き2:34に「ダビデは天に上ったのではありません。」とある。

○  黙示録7:14

「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。」

上記のみ言葉に教会という語は無いがこの人たちは教会である。教会でなければ彼らは誰であるというのか? 言うまでもなく、教会だけが子羊の血によって衣を洗うのを経験することができる。

○  黙示録12:17

「女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒(いまし)めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たち、…   」

この人たちは誰のことを言っているのであろう?もしこの人々が教会でなければ、彼らは誰だというのか?聖書はここで「教会」という語こそ用いてはいないが、この人たちはまぎれもなく教会である。

○  黙示録17:6

「私は、この女が聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。」

もしこの殺された人々が教会でなければ、彼らは誰だというのか?ここで言っている「この女」とはローマ・カトリック教会を指している。過去、無数の聖徒たちがローマ・カトリック教会によって迫害された。歴史によれば、スペインではおびただしい数の聖徒たちがローマ・カトリック教会によって殺された。先程来述べているように、聖書はここで「教会」という言葉を用いてはいないが、ここで殺された大勢の聖徒たちが教会でないと言うことができるであろうか?

○  黙示録19:11ー14

「見よ、白い馬がいた。それに乗っている方(かた)は、『確かで真実な方(かた)と呼ばれ、』…   その方(かた)は血に染まった衣をまとい、その名は『神のことば』と呼ばれていた。天の群勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。」

○  聖書研究者の多くは、これは、主イエスが教会と共に地上に来られる時の光景であることを認めている。全教会が大患難の前に携挙されることを信じるクリスチャンたちでさえ、このことを認めている。しかし、聖書はこのみ言葉の中で「教会」という語を明確に用いているであろうか?聖書がここで「教会」と言っていないということをもって、全教会は地上にもはや無い、すなわち携挙されてしまったからだ、と結論づけることができるであろうか?

○  黙示録22:6

「み使いは私に言った。『これらのことば(黙4ー19章を含む黙示録全体)は、真実であり、信頼できます。』預言者たちに霊を授ける神である主は、み使いを遣わして、すぐに起こるべきことをしもべたちに示された。」

○  黙示録22:16

「わたしイエスはみ使いを遣わし、諸教会についてこれらのこと(つまり黙示録全体、当然同4ー19章を含む)をあなたがたに証しした。」

大患難前にクリスチャンすなわち全教会が携挙されると信ずる人たち、特に説教者、牧師たちは、「教会」という語が、黙示録4章から、ぱたっと消えて、同19章まで現れていないことをその説の有力な根拠としているが、「教会」という言葉こそ黙4ー19章中に述べられていなくても、それらのことを述べる唯一の目的は諸教会のために他ならない。したがって黙4ー19章に「教会」という語が無いことをもって前携挙説を正解とするわけにはいかないのである。

以上幾つかの聖句を挙げて説明して来たように、黙示録4ー19章に「教会」という語は無いものの教会が実存しているからには、大患難前にクリスチャンが全部携挙されるという説は成り立たないことになる。もし大患難が到来した時に、教会に属する信徒がこの地上にいる以上、全教会が大患難の前にすっかり携挙されるなどと、どうして言うことができるだろうか?

                 ーー  つづく

 

              2024.9.17

              2024.9.27

        (次回 ‥    大患難前携挙説を信じる人たちの ◎ 2つ目の憶測)

 

 

    集会所 ‥   札幌市西区八軒6条東4丁目4ー11

 

 

 

 

 

 

 

 

大患難と携挙について(A)    その④

 

○  大患難前携挙説を主張する人たちが持つ7つの理由のうちの7つ目

 

◎  7つ目の理由 ‥

黙示録3:10にこうある。

「あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。」

前携挙説を信じる人たちは、この節を最も強い証拠と考えている。彼らは、この節は、教会が患難を経過しないことをはっきりと約束しているではないか、と言う。

確かにこの節は1つの約束である。しかし、この節は、『すべての』クリスチャンが大患難から守られることを述べているであろうか? 答えはNOである。なぜなら、この節にもやはり条件があるからである。つまり、この節は無条件で教会が大患難を経過しないとは言っていない。条件がある。その条件とは、「あなたが主の忍耐について言ったことばを守る」という条件である。主が守られるのは、主の忍耐についての言葉を守る者たちだけである。主が、信者が主の言葉を守るか守らないかにかかわらずに、全てのクリスチャンを守るわけではない。

 

では、「わたしの忍耐についてのことば」を守るとはいったい何の事であろうか?

黙示録1:9には次のようなみ言葉がある。「あなたがたとともにイエスにある苦難とみ国と忍耐にあずかっている者」

このみ言葉は、今日はわたしたちがキリストと共に忍耐する時であることを告げている。わたしたちがキリストと共に支配することは、必ずしも将来のことではない。今日はキリストが忍耐しておられる時である。人々は主イエスを罵(ののし)るが、主はその人たちを打ったりはしない。人々は主イエスを呪(のろ)うが、主はそれを聞いておられないかのようにさえ振る舞われる。人々は主に反対するが、主は彼らを脅(おびや)かすことをなさらない。世の人々が主をどのように扱おうが、主は気にされないかのようである。今日は主が冒とくされる時である。これがキリストの忍耐についての言葉である。キリストは今日このようである。すべてのクリスチャンも今日このようであるべきである。今日、多くの反対、無関心などがあるが、キリストはそれらすべてを忍耐しておられる。クリスチャンもキリストと共に忍耐すべきである。2000年以上過ぎたが、キリストが1度でも復讐されたことがあるだろうか。主はそのような程度にまで忍耐されるので、主イエスはこの宇宙に存在してさえおられないかのようである。

しかし、再生され、救われ、血に信頼しているクリスチャンがすべて、キリストの忍耐についての言葉を守っているだろうか?もしすべてのクリスチャンが忍耐についての言葉を守っているのなら、その信徒たちが大患難を経過することはないであろう。もしキリストの忍耐についての言葉を守っていない者がいるなら、この約束はそのクリスチャンたちのものではない。黙示録3:10は前携挙説を主張する人たちにとっては、この節こそ我らの有力な根拠と思っている人が多いが、残念ながらこの節にも条件がある。クリスチャンがキリストの忍耐についての言葉を守らなければ、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時から守られることはないであろう。

 

黙示録1:11から同3章の終わりまで、主が7つの教会へあてた手紙の内容が書かれている。先程来述べている黙示録3:10はフィラデルフィアにある教会のみ使いにあてて書かれた中にある。前大患難携挙説を信じた人たちは、この黙3:10へ来た時、大いに喜んだ。なにしろ「‥‥   地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。」とあるのだから…   。恐らくその前半は見たくなかったであろう。この節だけであれば、前患難説を信じる人たちは、バンザイ!と心中に思ったことであろう。しかし、そうはいかない。聖書は一字一句みな聖書である。前半には明確に「あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので…    」という条件がある。

それでも諦め切れない前大患難携挙説を信じたい人たちはこう言う。(ここまで来るともうこじつけである。)

「主はフィラデルフィアに対して、試練を経過しないと約束されたではないか!(黙3:10)

フィラデルフィアにある教会は全教会を代表していると言えないか?だから、これは前大患難携挙説の証拠ではないか?」

主は確かにフィラデルフィアにある教会に対して約束を与えられた。しかし、すべての教会がフィラデルフィアにある教会であるわけではない。したがって、主はすべての教会に対して約束されたのではない。

黙示録の冒頭の2章と3章は、当時のアジアにあった7つの教会について語っているものである。これらの7つの教会は、その当時、実際に同時に存在していた。この7つの教会は後の7つの時代を予見している。① エペソ ② スミルナ ③ ペルガモ ④ テイアテイラ ⑤ サルデス ⑥ ラオデキヤ に対して、⑦ フィラデルフィアと同じ言葉を語られているだろうか? 同じではなかった。主がフィラデルフィアに対してだけ、このように語られたということは、フィラデルフィアにある教会がすべての教会を代表してはいないことになる。もしフィラデルフィアが全教会を代表していたのであれば、他の教会へも同じ言葉を与えられたはずである。

 

さて、ここまで書いて来て感ずることは、大患難前携挙説を信じる人たちの、どうにかして恐ろしい大患難を免れたいという『動悸』(どうき)がひたひたと聞こえてくる。しかし、聖書はどこまでも聖書である。

 

                2024.9.7

      (次回 ‥  2024.9.17 「大患難と携挙について」(B)その①

 

    集会所‥   札幌市西区ハ軒6条東4丁目4−11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◎  大患難と携挙について(A)   その③

○  大患難前携挙説を主張する人たちが持つ7つの理由のうちの4つ目

 

◎  4つ目の理由 ‥

第1テサロニケ4:16ー17にこうある。

「すなわち、号令とみ使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

大患難前携挙説を信じる人たちは上記の聖句を引用して、「この句は携挙を指している」と言う。それは確かにその通りである。しかし、上記の聖句つまり第1テサロニケ4章は、わたしたちの携挙の『時』について述べているであろうか?上記の聖句は、携挙について言及していることでよく知られている箇所であるが、この聖句は、わたしたちの携挙の『事実』を告げているだけであって、わたしたちクリスチャンが『いつ』携挙されるかについては何も語られていない。したがって全教会が大患難前に携挙されるという根拠を見い出すことはできない。

 

○  大患難前携挙説を信じる人たちが持つ5つ目の理由

 

◎  5つ目の理由 ‥

第1コリント15:51ー52にこうある。

「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」

大患難前携挙説を信じる人たちはこう言う。わたしたちはみな、生きている者であれ、死んでいる者であれ、みな変えられると書いてあるのだから、これはすべての人が大患難前に携挙されることを意味しているはずだ、と…   。

さて、はたしてそうだろうか? この聖書も携挙に関して述べられていることで、よく知られている所である。

実はこれもまた、教会が携挙される事実を告げているだけであって、全教会が大患難前に携挙されるという『時』に関しては何も述べられていない。その反対に携挙は大患難の『後』に起こるという証拠がある。このことは上記の聖句の次の部分から分かる。

第1コリント15:51「終わりのラッパとともに、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」

終わりのラッパとはどのラッパであろうか?黙示録だけが、7つのラッパについて語っている。上記の終わりのラッパとは7番目のラッパである。上記第1コリント15章で語られている終わりのラッパは、黙示録で述べられている第7のラッパに一致する。もしこの第1コリント15章の終わりのラッパが大患難前に鳴るのであれば、この終わりのラッパの後に、別の7つのラッパが大患難の時に鳴ることがあり得るであろうか?もし「終わりの」ラッパが大患難の前に鳴るのであれば、大患難の間に別のラッパが鳴ることはないはずである。もし終わりのラッパが黙示録の第7のラッパでないなら、終わりのラッパはどのラッパに属するのであろうか?たとえば、誰かが「これは私の最後の1万円です。しかし、私にはまだ7万円あります。」と言うことが可能だろうか?もしその人がそのように言うなら、それは全く意味をなさない。したがって冒頭に書いた第1コリント15章:51ー52は、全教会が大患難前に携挙されるという根拠には、とうていならないことになる。かえって、それは携挙が大患難の後であることを証明することになるだろう。

 

○  大患難前携挙説を主張する人たちが持つ7つの理由のうちの6つ目

◎  6つ目の理由 ‥

ルカによる福音書21:36にこうある。

「しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃がれて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」

前携挙説を信じる人たちは、上記の聖句を根拠にして、「やがて起ころうとしているこれらすべてのことから逃れ、人の子の前に立つことができるように。」とはっきりと述べているではないか、と主張する。したがって全教会は、大患難前に携挙されると約束されていると言う。

いかにも上記の聖句は約束である。しかし、この節は、全教会が大患難の前に携挙されることの証拠と考えることができるであろうか?上記の節ルカ21:36は、いったん人が救われるなら大患難を経過しないと約束しているものではないし、人が早く主を信じて大患難を免れるようにと勧めるものでもない。この聖句は、「いつも油断せずに祈っていなさい。」と言っている。これは、救いの後に起こることであって、人が救われるのは、油断せずに祈ることによるのではない。わたしたちが救われるのは、恵みにより、信仰を通してである。携挙と救いとの間には、直接の関係はなく、携挙されるのは、油断せずに祈っていることを通してである。このルカ21:36の別訳によれば「あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことから逃れ、人の子の前に立つのに『ふさわしい者とされる』ように、いつも油断せずに祈っていなさい。」となっている。したがって携挙というものは、恵みの問題ではなく、ふさわしいかふさわしくないかの問題なのである。この聖句は約束ではあるが、条件を伴った約束であり、その条件とは、『すべての』のクリスチャンはいつも油断せずに祈っていることである。もしあるクリスチャンたちがそうでなければ、全教会が患難の前に携挙されることの根拠として、この節(ルカ21:36)を用いることはできないであろう。

 

○  大患難前携挙説を主張する人たちが持つ7つ目の理由

◎  7つ目の理由 ‥

*7つ目の理由以下は次号に回します。

 

           ーーー ・ ーーー ・ ーーー

 

ところでiPadに、ラジオ伝道というチャンネルがある。伝道者は50歳代のクリスチャンで数千回も続いており、海外にまで流れているという。誠に敬服する。

この伝道者のお話しは、既存の牧師や神父が語るような硬(かた)いものではなく、砕いて平易な口調で語るので視聴者の人気も高いという。

この伝道者がiPad で携挙について解説しているのを見た。この人もまた前携挙説を堅く信じる人であった。その内容つまり前携挙説を信じる論拠は、ここまで書いてきたもの及びこれから書く予定の続編とほぼ同じである。

彼は最後にこう言って締めくくった。

「大患難前携挙説が正しいと私は信じる。それは何と言っても神のご性質である。神の本質は『愛』であるから、イエスの尊い血で贖った信者であり、神の子どもであるクリスチャン、そして教会を大患難に遭遇させることなどあろうはずがない!」

見終わって筆者はiPad をぱたんと閉じて独りごった。

 

「神の慈愛と峻厳とを見よ」とも書いてある。ローマ11:22(口語訳)

「モーセは彼らに言った『イスラエルの神、主はこう言われる。各自腰に剣を帯びよ。宿営の中を入口から入口へ行き巡り、各自、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺せ。』」(出エジプト記32:27)

神には愛もあれば厳しさもあるのである。

 

                2024.8.28

            (次回 ‥  2024.9.7 大患難と携挙について(A) その④

 

 

     集会所 ‥    札幌市西区八軒6条東4丁目4−11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◎  大患難と携挙について (A)  その②

 

○  大患難前携挙説を主張する人たちが持つ理由7つのうちの2つ目

 

◎  2つ目の理由 ‥

②  大患難前携挙説を主張する人たちは、次の聖書をその理由としている。

○  エレミヤ書30 : 6ー7にこうある。「さあ、男に子が産めるか、尋ねてみよ。なぜ、わたしは勇士がみな産婦のように腰に手を当てているのを見るのか。また、どの顔も青ざめているのを。わざわいだ。実にその日は大いなる日、比(くら)べようもない日。それはヤコブには苦難の時。だが、彼はそこから救われる。」

○  ダニエル書12:1 にこうある。「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。」

 

大患難前携挙説を信じる人たちは、上記の聖句をもってその理由としている。彼らはエレミヤが「それはヤコブにも苦難の時である」と述べ、ダニエルが「あなたの民はすべて救われる」と述べたことを、指摘する。そこで彼らは大患難はユダヤ人だけに臨み、教会には臨まないと強く主張する。なぜなら教会はヤコブの家やイスラエルの民ではないからだと言う。

もし私たちが、エレミヤとダニエルが述べたことだけを考えるなら、大患難は確かにユダヤ人だけに限定されるだろう。しかし別の聖句によれば、大患難はユダヤ人だけに臨むものではないことが分かる。

○  黙示録3: 10

「あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。」

上記の聖句が大患難を指していることには、すべての人が同意するだろう。それは正に試練の時であり、ユダヤ人だけでなく「全世界に来ようとしている。」したがって大患難はヤコブの苦難の時だけでなく、今や「全世界」に来ようとしている試練の時なのである。

 

大患難前携挙説を信じる人たちの

◎  3つ目の理由 ‥

 

○  黙示録4:  1

「その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。『ここに上れ』」

○  黙示録4:  4

「また、み座の周りには24の座があった。これらの座には、白い衣をまとい、頭に金の冠をかぶった24人の長老たちが座っていた。」

 

大患難前携挙説を主張する人たちは、黙示録の2章と3章は教会時代を指しており、上記の黙示録4: 1の『ここに上れ』は、全教会が携挙されることを指していると言う。ヨハネは教会を代表した。したがって、声がヨハネに『ここに上れ』と言っているということは、全教会が携挙されるに違いない。24人の長老たちもやはり教会を代表した。したがって、24の座に座っている24人の長老たちは、天にいる全教会を指しており、さらに栄光化された全教会を指している、と主張する。さらに、黙示録の大患難は、6章から始まっている。しかし、上記の黙示録4章では、全教会はすでに天にあるではないか。これこそ教会は大患難を経過せず、大患難の前に携挙される動かぬ証拠であると言う。

ここまで聞けば、大患難前携挙説こそ正解だと思う人が多いであろう。

 

ところが、彼らの説明はあまりにも大ざっぱ過ぎる。それを詳しく説明して行きたい。

まず、上記のみ言葉、黙示録4:1「その後、私は見た。…    あの最初の声が言った。『ここに上れ。』」は、黙示録2章3章に出てくる7つの教会に対して語られたのではなく、ヨハネ個人に対して語られている。そしてこの事は過去のことであって、将来のことではないのである。

上記の黙示録4:1「…  『ここに上れ』」は、ヨハネがパトモス島にいた時、主がヨハネ個人に対して語られたものである。ヨハネはその後パトモス島から引き上げられた。なぜなら、主は彼に、これらのことの後に何が起こらなければならないかを示したかったから…。

さて、黙示録は、ヨハネが見たことの記録である。もしこの節を引用して、全教会が患難の前に携挙されることの証拠として引用することができるのであれば、たとえば使徒の働き8:39の「主の霊がピリポを連れ去られた」も、全教会が大患難前に携挙されることの証拠となってしまうであろう。主の霊はピリポを連れ去りはしたが、後で彼はアゾトで発見された。(使徒の働き8:40「それからピリポはアゾトに現れた。そして、すべての町を通って福音を述べ伝え、カイサリアに行った。ーー 因みにアゾトとは旧約のアシュドデのギリシャ名)

したがって上記の「主の霊がピリポを連れ去られた」をもって証拠とすることはできない。

 

また、大患難前携挙説を主張する人たちは、24人の長老たちは全教会を代表すると言うが、聖書によれば24人の長老たちが全教会の代表であるとは言っていない。

なぜなら ‥

(1)  聖書は決して24という数を用いて教会を代表させていない。教会を代表する数は7かあるいは7の倍数である。

(2)  聖書は決して長老たちを用いて教会を代表させていない。確かに、旧約ではユダヤ人たちの間に長老たちがおり、新約でも教会の中に長老たちがいる。しかし、教会は長老ではない。歴史の事実によれば、神はまず天使たちを選び、次にユダヤ人を選び、最後に教会を選ばれた。教会が長老たちと見なされないだけでなく、ユダヤ人たちも長老たちとは見なされない。

(3)  大患難前携挙説を主張する人たちは、24人の長老たちもヨハネも教会を代表する、と言うが、黙示録7:13ー14にこうある。

「すると、長老の1人が私に話しかけて、『この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか』と言った。そこで私が『私の主よ、あなたこそご存じです』と言うと、長老は私に言った。『この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。」

上記の聖句に、3種類の人がいる。すなわち、長老たち、私(つまりヨハネ)、大患難を経てきた者たち、である。長老はヨハネに、彼らが誰であるのか、また彼らがどこから来たのかを尋ねている。私つまりヨハネは答えた、「主よ、あなたこそご存じです。」

もし彼らが言うように24人の長老たちもヨハネも携挙された教会を代表していると言うならば、おかしなことになる。というのは、長老たちがヨハネに尋ね、ヨハネが長老たちに尋ねている。これは、代表が代表に尋ね、予表が予表に尋ねるということになってしまう。

 

大患難前携挙説を信じる人たちが持つ4つ目の理由

◎  4つ目の理由 ‥    

* 以下は次号に回します。

 

             2024.8.18

       (次回 ‥  2024.8.28

        大患難と携挙について(A) その③

        大患難前携挙説を主張する人たちが持つ4つ目の理由‥)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◎  大患難と携挙について ーー (A)   その①

 

* 携挙(けいきょ)とはクリスチャンが携え上げられる、または引き上げられるの意

 

この主題は非常に重要である。

携挙は聖書中、特別な用語であり、その意味は、主が再臨される時にわたしたちクリスチャンが天へと取り去られることを指す。

○  マタイの福音書24 : 40ー41

「そのとき、男が2人畑にいると、1人は取られ、1人は残されます。女が2人臼(うす)をひいていると1人は取られ、1人は残されます。」

以前、ipadを見ていたら、超教派の有名な牧師が、「取り去られた」のは信者です。「取り残された」のは不信者です。と説教していたが、これは最も基本的な間違いである。聖書は信者と不信者を同時に置いて何かを語ることはない。また同様のたとえがマタイ25章にある。

○  マタイの福音書25 : 1−3

「そこで天のみ国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る10人の娘にたとえることができます。そのうちの5人は愚かで、5人は賢かった。…   」

先の牧師の論法によれば恐らく「愚かな5人の娘は不信者です。賢い5人の娘は信者です。」ということになるのだろう。述べたようにこれは間違っている。なぜかというと、愚かな娘も賢い娘も10人、皆ともしびすなわち油を持っている。その油に多少の差があった。不信者が油すなわちキリストを持っていることはあり得ない。ところで聖書は「完全」を象徴する時、しばしば「12」を用いる。(12使徒、12の門、12部族など)しかし、ここでは「10」であるのはなぜだろう?(10人の娘) あとの「2」は先ほど来述べている1章前のマタイ24:40−41

すなわち、「男が2人畑にいると、女が2人臼(うす)を引いていると…  」に出てき、これで

「12」となる。そういうわけで、畑にいる男2人も、臼を引いている女2人もどちらもクリスチャンである。つまり信者の中に携挙される者とされない者があることを物語っている。

 

さて、話しを本題に戻そう。

聖書が語っているように、主イエスは地に下って来られる前に、わたしたちを天へ連れて行き、その後に主は下って来られる。主がわたしたちクリスチャンを天へ連れて行ってくださることを携挙という。

わたしたちクリスチャンの前にあるもの、わたしたちが仰ぎ望んでいるものは携挙である。しかしながら、恐ろしい大患難もわたしたちの前にある。この大患難は、試みと呼ばれたり、あるいは最後の3年半とも呼ばれる。聖書はこの患難は極めて大きなものであると言っている。

○  マタイ24 : 21

「そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。」

携挙と患難の両方が、わたしたちの前にある。もしわたしたちが携挙されるのでなければ、必ず患難を経過するだろう。またもしわたしたちが患難を経過するのでなければ、必ず携挙されるだろう。

 

携挙に関して3つの異なる見解がある。このblog はその各々をよく検証して最も聖書に合致するもの、すなわち正解を導き出したいと思う。

 

1. 大患難前携挙説

 

○  この説は全教会が大患難前に全員携挙されると説く。この説を信ずる説教者は多い。しかし、この説は正解だろうか?

 

○  第1コリント15章と第1テサロニケ4章を注意深く読めば、この説すなわち全教会が、皆患難前に携挙されるというのは間違いであることが分かる。よくよくこの2つの章を読んでみよう。

○  第1コリント15 : 52

「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」

○  第1テサロニケ4 : 13−17

「眠(ねむ)っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが望みのない他の人々のように悲しまないためです。イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。すなわち、号令とみ使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

 

さて、以上2か所の両方とも携挙について語ってはいるが、これら2か所のみことばのどこの部分が、彼らが言う全教会が大患難の前に携挙されると述べているであろうか?

聖書を考察すれば、「大患難前携挙説」を説く人たちは2つの大きなあやまちを犯している。その1つは、彼らが引用する聖書の節は、全教会が大患難前に携挙されることを証明していない。その2つは、彼らは多くの憶測に信頼し、それらを事実として用いている。

さらに、大患難前携挙説を説く人たちは、その根拠とする理由を7つ持っている。

◎  1つ目の理由 ‥

①  ローマ人への手紙5: 9

「ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方(かた)によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。」

②  第1テサロニケ1 :  10

「 …   み子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。このみ子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方(かた)、やがて来るみ怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。」

大患難前携挙説を信じる人たちは、上記のみ言葉を使って以下のように説明する。

上記のみ言葉は、「私たちがイエスの血を通して怒りから救われることと、主が私たちを来たるべき怒りから救い出してくださることを告げている。」

またこのように説明する。

「来たるべき怒りとは、大患難を指しているではないか。」したがって来たるべき怒りから救い出されるとは、来たるべき大患難から救い出されることに違いない。私たちは携挙されて来たるべき大患難から救い出さなければならない。もしわたしたちが携挙されなければ、大患難を経過しなければならなくなる。したがって携挙はどうしても大患難以前に起こらなければならない。」

大患難前携挙説を主張する人たちは、またこのように言う。

「大患難は神の大いなる怒りである。神はクリスチャンを怒りに会うように定められたのではないから、私たちクリスチャンは大患難を経過することはあり得ない。」

しかし、先述した第1テサロニケ5: 9−11の中には、大患難については何も語られていない。

たとえ「み怒り」が大患難を指していると認めたとしても、これらの部分を理由の根拠として、全教会が大患難前に携挙されると言うには無理がある。確かに、大患難は神からの怒りに違いない。また、確かに上記の聖書はクリスチャンが神の怒りに会わないことを述べている。しかし、上記の聖書は、クリスチャンがサタンの怒りを被らないことや、サタンによって苦しめられないことは何も述べていない。なぜなら、大患難では、サタンからやって来る怒りと苦しみもあるからである!神はもちろん未信者を罰せられるが、サタンは信者を苦しめもする。

                  ーー  つづく

 

              2024.8.8

     (次回 ‥   2024.8.18  [大患難と携挙について(A)その①のつづき]

            (大患難前携挙説を主張する人が持つ2つ目の理由)

 

 

   集会所 ‥   札幌市西区ハ軒6条東4丁目4ー11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◎  特稿  blog   NO. 300号を記念して

 

2016年5月から、ほんの数号のつもりで書き始めたこのblogが、今回2024年6月ちょうど8年で300回目となった。これはひとえに読者がおられたからである。主に感謝し、聖霊に感謝し、読者の皆さまに衷心から感謝します。

さらに、忘れてはならないのは地方に住む筆者の弟の存在である。弟は現在76歳。大きな会社の夜の警備員として働く傍(かたわ)ら、筆者が原稿を書き、妻がそれをiPad に打ち込んだものを紛失してはならないの一心から一字一字を丁寧に校閲して製本してくれている。彼は元より製本などずぶの素人であるが、製本技術を努力して習得し、玄人はだしの本に仕上げてくれる。これは何にも勝って筆者の励ましとなっている。ハレルヤ。

弟のことをもう少し書きたい。弟は小学生の頃はひどく病弱で、しばしば『おたふくかぜ』(両のほっぺたが大きく膨らむ)にかかり、高熱を出したりした。その頃は薬とてなく、安静に寝ているほかなかった。しかし、成人になってからは丈夫になり、大学時代は格闘技に打ち込んだ。彼が信仰を持つきっかけは、彼が地方に住んでいて久しく疎遠であった頃、彼は69歳の春、食道癌と咽喉癌を同時に発症した。私は本人に「祈り」を教え、私ども夫婦も、彼の病気の快癒を懸命に祈った。結果、2つの癌はみごとに摘出され、跡形もなくなったし、再発も全く無い。

今、弟へ感謝の思いを込めて、イエス・キリストの言葉を贈る。

『主がお入り用なのです。』(マルコの福音書11 : 3)

 

◎  ベタニヤなつかし …   

 

◎  ルカ24: 50ー51

「それからイエスは、弟子たちをベタニヤの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。」

 

上記の「ベタニヤの近く」とは、オリーブ山のことである。(ベタニヤはエルサレムの南東約3km、オリーブ山のふもとにあった村)

オリーブ山は、正に主イエスが天へ上って行った所である。(使徒の働き1:11−12)ゼカリヤは終末の時、メシヤがオリーブ山に立つ、と預言している。

ところで、ルカはなぜイエスが天に上って行った場所をオリーブ山と書かずに、「ベタニヤの近く」と置き換えたのであろうか?

イエスは一生の間に何回となく、ベタニヤという小さな村を訪れている。主は働きの3年間で、神の奇跡、不思議なみ業、病気の癒し、悪霊の追い出し等を皆行った。遠からぬ日、主イエスには恥と苦痛の十字架が待っていた。しかし主には依然として枕する所は無く、安心して休む家が無かった。そんな時、ルカ10章で、イエスの一行はベタニヤの小村に入り、マルタの接待を受けたのである。

○  ルカ10: 38

 「さて、一行(いっこう)が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。」

主イエスはめったに人の家に寝泊まりされなかった。主はむしろ野宿された。ましてや不信者の家に泊まらなかった。律法学者や宗教人は主を拒絶したが、ただベタニヤの家だけは、主が好んでその疲れた体をしばし休ませ、くつろげる家であった。

 

マルタがつぶやいた。「主よ。私の妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」(ルカ10 : 40)

誠に、あなたや私の生活、仕事などを主はどのように思っておられるだろうか?主が気がかりに思っておられることはただ1つ、すなわち地上でご自身の言葉を聞こうと願う者がいるだろうか、ということであった。主が地上におられた時、非常に大勢の人が主に押し寄せ、彼を見、彼に乞い願いなどした。しかし、誰が救い主のお心を知ろうとしただろうか?また誰が主の心の中の秘密を知っていたであろうか?

妹のマリアは、主の足元でよく耳を澄まして聞いていたが故に、主の先行きが短いことを悟ることができた。それゆえにあの高価なナルドの香油を主に注ぐというすばらしいことができたのであった。 

○  ヨハネ12: 2−3

「マルタは給仕をし、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」

主のみことばに良く傾聴する人はその人生観が変わる。ユダの価値観にどれだけの変化があっただろうか。またその他の弟子たちの人生観に変化はあっただろうか?彼らは自分たちの救い主を市井( しせい )の天秤( てんびん )にかけて銀貨30両をもって主の価値を論じていた。彼は主イエスは殺されるが3日後に復活することを何1つ心に留めてはいなかった!しかし、マリアはしっかりと聴いていた。さればこそ彼女の行動は主の近親者の誰もができなかったところの主の葬りをしたのであった。

○  ヨハネ12:7

「イエスは言われた。『そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。』」

( 因みに主イエスが十字架で死なれ、墓に葬られたその翌朝早く、数名の姉妹たちがイエスのご遺体に塗るために香料を持って墓へ行った。しかし、墓の中は空っぽで、主イエスのからだはそこに無かった。したがって人類の中でイエスのからだに香料を塗ることができたのは、マルタの妹マリアただ1人ということになる。 )

ところで長女マルタが変わったことにお気付きだろうか?

以前のマルタは、数人の客の食事を用意していたとき、不満だらけであった。よくしゃべる姉妹であった。ところが、ヨハネの福音書12章にくるとガラッと違うマルタがそこにいる。

○  ヨハネ12:2には、

「人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕をし…」とある。状況は○ルカ10:40の時と同じであるが、以前のマルタは自分が1人でもてなしの準備をするのが不満でいっぱいだったが、ここでのマルタはただ黙って「 給仕をしていた 」のである。いったいどんな力が働けば信徒の一生は変わるのであろうか?

マルタは主に叱られた。( ルカ10:41 )彼女は主の言葉を聞いた。○「マルタ、マルタあなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱している」( ルカ10:41 )

しかし、彼女の主に対する奉仕の心は変わらず、ずっと十字架に至るまで続いている。

 

◎  価値観の変化

 

マリアが高価な香油をイエスの頭に注いだ時、( マルコ14:3 )元来それを阻止する権利を持つのは姉のマルタのはずであった。なぜなら彼女は長女であり、家計のやりくりを握っていた。以前のマルタであれば、ユダが何かを言う前に、家計のことを考えればやり過ぎではないかと妹へ再考を促すところであった。しかし、マルタはかつて主の声を聞いていた。彼女の奉仕と彼女の価値観はすっかり異っていた。

 

◎ルカは忘れることができず、聖霊も忘れることができなかった。

 

先述したように、主イエスはベタニヤにある小さな村、そこに住む3兄弟姉妹の家をこよなく愛された。ベタニヤという小村はオリーブ山のふもとにある。主はオリーブ山から天に上げられ、そしてオリーブ山へ帰ってこられる。

さて、ルカをして「オリーブ山」と書かずに「ベタニヤの近く」と書かしめた動機とはいったい何であったか?前述したように主イエスはオリーブ山に帰ってくる。しかし、ルカはあえてその場所をほとんど同じ場所なのにわざわざベタニヤの近くと書いた。そのわけは、主イエス・キリストにとってそれほどマルタ、マリア、ラザロ3兄弟姉妹の家がなつかしかった。それをルカは主のそばにいてひしひしと感じ取っていたからであった。

ひるがえって、この3兄弟姉妹の家とは何であったか。それはとりもなおさず、神と人とが安息する家であり、言い換えれば、キリストのからだなる教会に他ならない。

 

実は、このテーマは数年前NO.110号「マルタは変わった」の中で書いたのであるが、ペンが流れるにまかせて重ねて書いてしまった。

 

* ルカという人は医者であったから、細かい事や物によく気がつく人であった。この事は上述したマルタのことやオリーブ山をベタニヤの近くと書いたことなどにみられる。また同じくルカが書いた「使徒の働き」その他随所に見られる。たとえば、

○  使徒の働き3章に、生まれつきの足の不自由な人が、毎日宮の門の前で施しを求めていた話が書いてある。ある日彼はペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て施しを求めると、ペテロが言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして彼の右の手を取って立たせた。するとたちまち彼の『足とくるぶしが強くなり、』踊り上がって立ち、歩き出した。

普通の人なら、あの現場で『くるぶし』にまで目が行くだろうか?

 

 ◎  主イエスは教会へ戻って来られる。

 

                 ーー  blogNO.300号記念 ー 完

 

             2024.7.29

          (次回 ‥   2024.8.8 「大患難と携挙について(一) )

 

   

     札幌市教会集会所‥  札幌市西区八軒6条東4丁目4−11

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◎  神の預定 (預定とは、あらかじめ定めたの意)

 

神の選びは、神の永遠のご計画を達成するためにどうしても必要な第1歩の手続きである。神の選択は神のご計画の最終的な目標である。さらに、わたしたちはそのために選ばれただけでなく、わたしたちがその目標に到達するために神の預定の中に入れられたのである。そしてその目標は限りなく栄光なものであり、わたしたちの想像をはるかに超える。

○  エペソ1:4−6

「神は『キリストにあって』、『み心の良しとするところに従って」、わたしたちを選ばれただけでなく、『わたしたちをあらかじめ定めておられた』」

わたしたちは自分の身の上に起こったさまざまな事を見るとき、なんと折よく、なんと良いタイミングで、その事が起こったことかと認めざるを得ないのではあるまいか。たとえば、父親が母親と出会って良い時に自分を産んでくれたこと、ある日、自分の心に苦しみ悩みがあり、心中が飢え乾いていた時、なんと折よく福音を聞いて救われたことなど…   。しかし、これは決して偶然や幸運であったからではない!! これはあらかじめ定められていたと聖書は語るのである。

わたしたちが預定されたのは、神の永遠のご計画のためであり、神の永遠のご計画はキリストのためである。したがって神は、キリストにあってわたしたちをあらかじめ定められたのである。

エペソ1:5

「神はみこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

では、神はわたしたちを預定して、いったい何をなさろうとしておられるのであろうか?

○  使徒の働き13:48

「そして、永遠の命にあずかるように定められていた(預定されていた)人たちはみな、信仰に入った。」

この永遠の命はいわゆる道教の修業とか、中国の秦(しん)の始皇帝が追求していたという不老長寿といったものではなく、神ご自身である。神こそ永遠に常に存在する方であり、神の命だけが永遠の命である。なぜならおよそ血気のもの、肉なるものは、草花のようにその美は草は枯れ、花は凋(しぼ)む。

○  第1ペテロ1:24−25

「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ」

ある日、

「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。」(第2ペテロ3:10)

ましてやその他の人、事、物は、当然暫時的なものであり、皆過ぎ去ってしまう。しかし、神があらかじめ定めた人は神と共に永遠に存在する。

○  第1ヨハネ5:11−12

「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちがみ子のうちにあるということです。み子を持つ者はいのちを持っており、神のみ子を持たない者はいのちを持っていません。」

○  第1ヨハネ5:1

「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。」

では、どのようにして信ずることができるのであろうか?それは「すべて永遠のいのちを得るように定められたものは皆信じた」のである。以上の節がわたしたちに語るのは、およそ信ずる者は皆神によってそのように定められていたと言うことである。

○  第1ヨハネ3:1

「私たちが神の子どもと呼ばれるために、み父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。」

○  エペソ1:5-6

「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

さて、言うまでもなく、神から生まれたならば神のいのちを持っている。しかし、神の命が有るだけでは十分ではない。さらに成長しなければならない。そうしてこそ内も外も神の子たる身分を得ることができる。

○  ローマ8:29-30

「神は、あらかじめ知っている人たちを、み子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中でみ子が長子となるためです。神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」

○  第1コリント2:7

「神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。」

私たちが栄光を受けるとは、すなわち完全に神に似、神を現わすことにほかならない。

○  ローマ9:23

神は「栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器( つまり人 )に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるために….   」

わたしたちはあらかじめ備えられたあわれみの器、すなわち地上の教会にいる。教会は神が創世の前に、主イエス・キリストにあって定められたみこころである。

 

                      2024.7.19

        ( 次回‥2024.7.29 特稿 『 blog NO.300号を記念して』)

 

     集会所‥札幌市西区八軒6条東4丁目4-11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◎ 「クリスチャンは天国へ行っても訓練を受ける」の文末

「王国と新天新地の違い」のつづき ーー

 

前号の末尾と重複するが、

○  黙示録19:6-8

「また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。『ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。花嫁は輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。』」

 

ここに、花嫁は細い亜麻糸で織られたこの亜麻布の衣を着ることが許された。と記されている。この『亜麻布』は信徒の正しい行ない、つまり『義』を示す。行為における義という意味である。わたしたち自身の義なる行ないを指している。

 

○  黙示録20:4-6

「また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。残りの死者は、千年が終わるまでは生き返らなかった。これが第1の復活である。この第1の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第2の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。」

これらの節は、千年の間キリストと共に支配する王たちは誰であるかを告げている。王国はすべての人のためにあるのではない。王国は殉教者のためのものであり、サタンと反キリストを拒む人たちだけのものである。このような人たちだけが千年の間、支配する(治める)ことができる。それゆえ殉教者だけが支配し、サタンと反キリストを拒む人だけが王となるだろう。このことから、千年王国は無代価の褒賞として与えられるのではなく、神のみ前での良い働きを通して獲得されるものであることを、見ることができる。

 

* 新天新地の時代

 

○  黙示録21:1-7

「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。私はまた、大きな声がみ座から出て、こう言うのを聞いた。『見よ、神の幕屋が人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみ、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。』すると、み座に座っておられるかたが言われた。『見よ、わたしはすべてを新しくする。』また言われた。『書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。』また私に言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは乾く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」

王国を描写するとき、聖書が語るのは人が何をしたかということである。ところが新天新地を描写する時、人が何したかについては何も述べられていない。黙示録21章からは、聖書はただ神が何をなされたかについてのみ語っている。神は「わたしはすべての事を新しくする」、とか「第1の天と第1の地が過ぎ去って、もはや海もない」と語っている。これらのすべては、神によって成された。

黙示録22章も新天新地について述べている。

黙示録22:1-5

「み使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊のみ座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、12の実をならせるいのちの木があって、毎月1つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒した。もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊のみ座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕(つか)え、み顔を仰ぎ見る。また彼らの額には神のみ名が記されている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされているので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世世限りなく王として治める。」

新エルサレムにおける主要なものは、命の水の川である。この川は神と小羊のみ座から出て来る。これは命の川であるから、そこには命の木があって、命の実を結んでいる。黙示録の最後で、王国も終わり、教会も終わった後、「み霊と花嫁が言う。『来てください。』これを聞く者も『来てください。』と言いなさい。乾く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」(黙22:17)

すなわち、すべての人は新天新地に迎えられる。この新しい天と新しい地には、1つのみ座があり、み座から1つの川が流れている。この川は神から流れており、み座がその源であり、そのみ座は新天新地の中心である。さらに『子羊』という言葉は、王国に関しては決して述べられていない。しかし『子羊』は、新天新地に関して多く述べられている。黙示録22:1にある通り、み座は神と子羊のものである。全能者にして主なる神と子羊は、都の宮であり、(黙21:22)子羊は都のともし火である。(黙21:23)

子羊が新天新地に関連づけて述べられているということは、これが恵みの時代を表わしていることを示している。黙示録の最後に来ると、もはや教会も、王国も、患難も述べられていない。ただ乾いている者は、誰でも命の水の泉から値なしに飲むことができると言っている。これはあなたや私が新天新地に招かれていることを意味する。すべてのものは無代価である。無代価であるとは、それが恵みであることを意味する。そういうわけで新天新地は、王国とは全く異なる。新天新地は、私たちに値なしに与えられる。黙示録の教えによれば、新天新地では、神は人を恵みによって取り扱われるが、王国では、神はクリスチャンを義によって取り扱われるのである。

したがって神がわたしたちを対処されるのは、王国時代においてであることを認めざるを得ない。新天新地では、すべては値なしに受けられる。

 

* 今の時代と来たるべき時代との関係

 

わたしたちが今日、この世を愛し、肉によって歩き、気ままな生活をするなら、来たるべき世において、神の懲らしめを受けるだろう。しかしそうではなく、わたしたちが今日、神を愛し、主のためにすべてを捨てるなら、神の恵みと神の褒賞を受けるだろう。

なるほど人は今日、永遠の命を享受することができる。しかし、王国は神が神の子たちを対処される時代である。もし私たちが今日、気ままな生活をしているなら、将来、私たちは訓練を受けることになるだろう。確かに、私たちには永遠に救われているという保証がある。しかし私たちは同時に、また暫時的であったとしても、危険を背負っている。私たちには新天新地の保証がある。しかし同時に、私たちには王国の危険も存在する。王国には厳しい罪定めと懲罰がある。

救いは主イエスのみわざによって達成された。しかし、褒賞を得るには人の働きによる。救いは主イエスのみわざによって来るが、褒賞は私たち自身の働きによって来るのである。私たちが神のみこころに従い、その歩みも自分の思いによらないなら、私たちは晴れて褒賞を受けるだろう。私たちはこのクリスチャン人生、神からの警告と訓戒を受け、王国の褒賞を追い求めてひたすら前へ進まなければならない。

 

        ーー「信徒は天国へ行っても訓練を受ける」 ひとまず完

 

               2024.7.9

            (次回‥  2024.7.19「神の預定」)

 

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