◎ 「クリスチャンは天国へ行っても訓練を受ける」の文末

「王国と新天新地の違い」のつづき ーー

 

前号の末尾と重複するが、

○  黙示録19:6-8

「また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。『ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。花嫁は輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。』」

 

ここに、花嫁は細い亜麻糸で織られたこの亜麻布の衣を着ることが許された。と記されている。この『亜麻布』は信徒の正しい行ない、つまり『義』を示す。行為における義という意味である。わたしたち自身の義なる行ないを指している。

 

○  黙示録20:4-6

「また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。残りの死者は、千年が終わるまでは生き返らなかった。これが第1の復活である。この第1の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第2の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。」

これらの節は、千年の間キリストと共に支配する王たちは誰であるかを告げている。王国はすべての人のためにあるのではない。王国は殉教者のためのものであり、サタンと反キリストを拒む人たちだけのものである。このような人たちだけが千年の間、支配する(治める)ことができる。それゆえ殉教者だけが支配し、サタンと反キリストを拒む人だけが王となるだろう。このことから、千年王国は無代価の褒賞として与えられるのではなく、神のみ前での良い働きを通して獲得されるものであることを、見ることができる。

 

* 新天新地の時代

 

○  黙示録21:1-7

「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。私はまた、大きな声がみ座から出て、こう言うのを聞いた。『見よ、神の幕屋が人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみ、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。』すると、み座に座っておられるかたが言われた。『見よ、わたしはすべてを新しくする。』また言われた。『書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。』また私に言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは乾く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」

王国を描写するとき、聖書が語るのは人が何をしたかということである。ところが新天新地を描写する時、人が何したかについては何も述べられていない。黙示録21章からは、聖書はただ神が何をなされたかについてのみ語っている。神は「わたしはすべての事を新しくする」、とか「第1の天と第1の地が過ぎ去って、もはや海もない」と語っている。これらのすべては、神によって成された。

黙示録22章も新天新地について述べている。

黙示録22:1-5

「み使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊のみ座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、12の実をならせるいのちの木があって、毎月1つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒した。もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊のみ座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕(つか)え、み顔を仰ぎ見る。また彼らの額には神のみ名が記されている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされているので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世世限りなく王として治める。」

新エルサレムにおける主要なものは、命の水の川である。この川は神と小羊のみ座から出て来る。これは命の川であるから、そこには命の木があって、命の実を結んでいる。黙示録の最後で、王国も終わり、教会も終わった後、「み霊と花嫁が言う。『来てください。』これを聞く者も『来てください。』と言いなさい。乾く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」(黙22:17)

すなわち、すべての人は新天新地に迎えられる。この新しい天と新しい地には、1つのみ座があり、み座から1つの川が流れている。この川は神から流れており、み座がその源であり、そのみ座は新天新地の中心である。さらに『子羊』という言葉は、王国に関しては決して述べられていない。しかし『子羊』は、新天新地に関して多く述べられている。黙示録22:1にある通り、み座は神と子羊のものである。全能者にして主なる神と子羊は、都の宮であり、(黙21:22)子羊は都のともし火である。(黙21:23)

子羊が新天新地に関連づけて述べられているということは、これが恵みの時代を表わしていることを示している。黙示録の最後に来ると、もはや教会も、王国も、患難も述べられていない。ただ乾いている者は、誰でも命の水の泉から値なしに飲むことができると言っている。これはあなたや私が新天新地に招かれていることを意味する。すべてのものは無代価である。無代価であるとは、それが恵みであることを意味する。そういうわけで新天新地は、王国とは全く異なる。新天新地は、私たちに値なしに与えられる。黙示録の教えによれば、新天新地では、神は人を恵みによって取り扱われるが、王国では、神はクリスチャンを義によって取り扱われるのである。

したがって神がわたしたちを対処されるのは、王国時代においてであることを認めざるを得ない。新天新地では、すべては値なしに受けられる。

 

* 今の時代と来たるべき時代との関係

 

わたしたちが今日、この世を愛し、肉によって歩き、気ままな生活をするなら、来たるべき世において、神の懲らしめを受けるだろう。しかしそうではなく、わたしたちが今日、神を愛し、主のためにすべてを捨てるなら、神の恵みと神の褒賞を受けるだろう。

なるほど人は今日、永遠の命を享受することができる。しかし、王国は神が神の子たちを対処される時代である。もし私たちが今日、気ままな生活をしているなら、将来、私たちは訓練を受けることになるだろう。確かに、私たちには永遠に救われているという保証がある。しかし私たちは同時に、また暫時的であったとしても、危険を背負っている。私たちには新天新地の保証がある。しかし同時に、私たちには王国の危険も存在する。王国には厳しい罪定めと懲罰がある。

救いは主イエスのみわざによって達成された。しかし、褒賞を得るには人の働きによる。救いは主イエスのみわざによって来るが、褒賞は私たち自身の働きによって来るのである。私たちが神のみこころに従い、その歩みも自分の思いによらないなら、私たちは晴れて褒賞を受けるだろう。私たちはこのクリスチャン人生、神からの警告と訓戒を受け、王国の褒賞を追い求めてひたすら前へ進まなければならない。

 

        ーー「信徒は天国へ行っても訓練を受ける」 ひとまず完

 

               2024.7.9

            (次回‥  2024.7.19「神の預定」)

 

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