先日、公式LINEのお友だちの方が、「最愛の人を亡くしたとき、どう乗り越える?過ごす?のがいいでしょうか?・・・ブログ記事にしていただけたらありがたいです」とご質問を送ってくださいました。

 

最近最愛の人を亡くされたブロ友さんのことを想い、わざわざ私に連絡をくださったようなのです。

 

(・・・いただいたlLINEチャットを拝見していると、「こんなにも心を傾けて心配してくださる方がいれば、私の記事など不要かもしれない…」と思うほど、この方の優しさが私の胸を打ちました)
 

 

実は私はこれまでも、「我が子を失っても、前向きに人生を生きているように感じるので・・・」という理由から同じようなご質問をいただくことが多くありました。

 

そのように感じていただけるのはとてもありがたいことですし、もし、ほんの少しでもお役に立てたらそれほど嬉しいことはありませんので、私が渓太郎を亡くしたとき、どのように過ごしていたのかという個人的な経験、想いを書かせていただきたいと思います。
(私は専門家ではありませんので正しい答えはわかりかねますことをご了承ください)

そして最初にお伝えしておきますと、「悲しみ」を消す方法や「乗り越える方法」は私にはわかっていないと思います。

なぜなら、私は今でも悲しくて、それを「悲しみを乗り越えている」とは言えないかもしれないからです。

 

渓太郎を愛している以上、悲しみが消えることはないと思っています。

 

なぜなら、「愛しているからこそ、いなくなって悲しい」のだとすれば、悲しいのは愛している証だとも言えます。(もう悲しみが癒えていても、愛していることもあると考えています)

 

『「愛している気持ち」と「悲しみ」はコインの裏表』ですね。

 

だとすれば私は、悲しみを大切に抱きしめながら、前向きに生きているのかもしれません。

 

 

・・・と、前置きのはずがこんなにも長くなってしまいました。

 

それでは、私の経験をお伝えしていきますね。

 


*****

 

最愛の方を亡くされた方はきっと同じような想いをご経験されていると思うのですが、渓太郎の旅立ちにより込み上げた気持ちは、言葉では表現することができないほど深く、激しく、重いものでした。

 

それを「悲しみ」と言っていいのか、「寂しさ」と言っていいのか、「絶望」と言っていいのか・・・

 

あの頃の感情に適切な言葉が見つけられないのは、今でも変わりません。

 

そのため私は仕方なく、あの時の感情を「悲しみ」とか「寂しさ」とか「心の痛み」といった言葉で表現しているのが正直なところです。(このブログでも・・・)

 

それくらい、深く、激しく、重い感情でした。

 

 

そのような状態の私がどう過ごしていたのかというと、実はひとつ、私自身でも明確にわかっている特徴的なことがあります。

 

これまでまったくお伝えしたことがなかったのですが、その明確になっている特徴的なことというのは・・・

 

―――私は自分の心に湧きあがる感情にまったくふたをすることなく、放置状態で溢れ出させていました。そうしていると、そこから数々の問いが生まれてきのです。

 

例えば、「なんで渓太郎は死んだんだ・・・」とか「こんなに苦しいのはどうしてだ!!」とか「渓太郎はいま、どこにいるんだ・・・」といった問いです。

 

それを私は、外側ではなく自分の内側に向かって問い続けていました。

 

すると、時間がかかっても必ず、自分が最も納得できる、自分唯一の答えが見つかったのです。

 

そして、ひとつ、またひとつと自分の身に起きた我が子との死別を許していくことができました。

 

・・・これが私にとって、渓太郎との死別を受け入れるためになにより必要で、なにより納得感がありました。(あくまでも私個人の意見です)

 

 

というのも、当時はスマホもネットもない時代です。

 

画面に向かって、自分の心の中に湧きあがる問いを検索することができなかったことが、もしかしたらよかったのかもしれないとも思います。

 

なぜなら「渓太郎はなぜ死んだの?」とスマホに問いかけても、自分の心にピッタリの、納得できる答えは決して探し出すことはできませんし、見つかったとしても「一般的な答え」でしょう。

そして時には、より傷つく言葉を目にしてしまうことがあるかもしれません。

 

私が自問自答をしていたころの様子は、これまでブログ記事でも数多く書かせていただいてきましたので、そのようなことが書かれた過去記事をここからご紹介していきたいと思います。

(あまりにも記事が多く、一部しか探し出せていないことをお許しください)

 

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【記事の一部より】

 

「どうして死んじゃったの!親より先に死ぬのは、親不孝なんだよ!」

「お母さんはこんなに泣いているのに、どうして渓ちゃんは笑っていられるの!」

 

そして・・・

 

「もう、いっそのこと、渓ちゃんとなんて出逢わなければよかった!」と言った時、やっと、あの頃の感覚が全身に蘇った。

 

~中略~

 

「渓ちゃん、楽しかったね・・・」

「お母さんのところに生まれてきてくれて、本当にありがとう」

 

ーーー別れは私から、幸せを奪ってはいなかった。

 

 

 

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【記事の一部より】

 

私は渓太郎を失ったのではない。私は渓太郎に出会えたのだ。

 

 

 

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今日は二つの記事をご紹介させていただきました。

明日と明後日にかけて、ふたつずつ記事を紹介させていただきますね。

 

 

 

 

「悲しみ」と「愛」はコインの裏表

 

「後悔」と「愛」もコインの裏表。

 

 

「消えない悲しさ」も「消えない後悔」も、愛が消えていない証です。

 

(ご質問をいただかなければ、今回のような記事を書くことはなかったと思います。想いのこもったご質問、本当にありがとうございます♡)

 

 

※ここに書かせていただいていることは、私個人の経験です。
心の状態によっては、専門知識のある方にご相談くださることをお願いいたします。

 

 

 

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