パリ・オペラ座の前で立ち尽くしていたジョーに気づいて、フランソワーズは声を失いそうになるほど驚いていた。
夢にも思わなかったからだ。
そしてジョーもまた、突然目の前に現れたフランソワーズに驚きを隠せず、身動きが出来なかった。
逢えないだろうと、諦め掛けていた。
だからこそ、この偶然はジョーにとって思わぬ出来事だったのだ。
「 フランソワーズ…。」
次に逢うことが出来たら、自分の気持ちをあらためてきちんとフランソワーズに伝えよう…。そう心に決めていた筈だった。
けれども、何から伝えて良いのか、ジョーは心の中で迷った。
そしてフランソワーズは昨夜アルベルトから聞いた話を思い出していた。
彼から聞いたジョーの想い…。本当に大切に思ってくれたらこそ、敢えて逢いに来なかったという事を、アルベルトから聞き、やっとその気持ちを冷静に受け止める事が出来たのだ。
「 ジョー…あたし…は。」
フランソワーズの胸に再び、ジョーへの熱い想いが込み上げそうになった。
その時、彼女は思い出してしまった。
自分がジョーに対して浴びせた心無い言葉を…。
そして、ジョーを忘れる為とは言え、ジェロームに一時でも心を寄せてしまった事を…。
「 フランソワーズ。君にちゃんと伝えたかった。
どんなに離れていても、そして逢えなくても…
僕は君を忘れた事など一度もなかった…。
それどころか、月日が経つに連れて、君への想いが強くなっていったんだよ。この気持ちには決して偽りなどない…。」
熱く、そして真剣な眼差しでフランソワーズを見つめながら、ジョーは自分の想いを吐露する。
例え、この気持ちがフランソワーズに伝わらなくともそれでも良いのだと、ジョーは思った。
やっと自分の気持ちを伝える事が出来たのだから…。
ジョーの言葉はフランソワーズにとってどれほど幸せに感じた事だろう。
けれども、心からジョーの言葉を喜ぶ事が出来なかった。何故ならば、フランソワーズはどうしても自分がジョーに対してして来た事が許せなかったのだ。
「 どうして…?どうしてあなたはこんなあたしをそれほどまでに…?
あたしはあの時、あなたに酷い事を言ったのよ…!理由はともあれ、心無い言葉であなたを傷付けてしまったのよ。そして…あたしは、あなたを忘れる為…あなたがあたしを忘れてしまったという不安から、ジェロームに…。
あたしはあなたを裏切ったのよ。」
今にも溢れ出しそうになる涙を、フランソワーズは必死で堪えていた。
「 僕は何とも思っていないよ。」
自分を責めるフランソワーズに、ジョーは優しい笑みを浮かべて見つめた。
「 フランソワーズ…。明日の千秋楽の舞台が終わったら、僕はパリを経ち、日本へ帰る…。
もし、君さえ良かったら、一緒に来て欲しい。
僕は、アレクサンドル3世橋で待っているよ。」
そうジョーはフランソワーズに伝えると、その場を後にした。決して振り返ることなく…。
「 ジョー…」
次第に遠くなっていくジョーの後ろ姿を、フランソワーズはただ呆然として見つめる事しか出来なかった。
こんな不実な自分に対してジョーはどうしてあれほどたでにも優しい態度を取るのだろう。フランソワーズにはジョーの気持ちが辛く思えてならなかった。
「 明日…ジョーは日本へ…。」
ジョーの言葉を思い起こし、フランソワーズは胸が締め付けられるのを覚えた。
ジョーは一緒に来て欲しい、そう言ってくれた。
その彼の気持ちは嬉しかったのだ。
だがまだ自分を許す事が出来なかったフランソワーズは、ジョーの気持ちを受け入れる事が出来なかった。
ふとフランソワーズは腕時計を覗く。
稽古の時間がギリギリに迫っていた事に気づくと、大きく深呼吸をして気を取り直した。
( さあフランソワーズ。稽古が待ってる。行かないとね。)
そう自分に言い聞かせた時だ。
フランソワーズは背後に人の気配を感じ、思わず後ろを振り返った。
そして次の瞬間、フランソワーズは声を失いそうになるくらい驚いてしまう。
そこに居たのは、親友のジョアンヌだったからだ。
「 ジョアンヌ…あなた、いつからそこに…?」
ジョーと話している所をジョアンヌに見られてしまった…?
もしそうだとしたら、何と彼女に説明したら良いのだろう?
フランソワーズは戸惑いを隠せなかった。
そしてジョアンヌはフランソワーズ以上に驚いて居る様子でフランソワーズを見据えていた。
「 立ち聞きするつもりはなかったのよ、フランソワーズ。レッスンに遅刻しそうになって、それで急いで走って来たのよ。そしたらあなたの姿が見えて…」
「 それで…ジョアンヌ、あなた…。
ジョーと話している所を…?」
フランソワーズは恐る恐るジョアンヌに尋ねた。
「 こんな所で立ち入った話は出来ないわ。
それにレッスンの時間も迫っているわよ。」
そうジョアンヌはフランソワーズに声を掛けたかと思うと、フランソワーズより先に稽古場へと向かって行く。
フランソワーズは気を取り直し、慌ててジョアンヌの後を追うのだった。
基礎練習のバーレッスンから、センターレッスン。そしてバリエーションレッスンと、フランソワーズは何かに取り憑かれたように打ち込んだ。
それはまるで辛い事を忘れるかのようであった。
その日のレッスンが終わって直ぐに、ジョアンヌは他に誰も居なくなったのを見計らって、フランソワーズを掴まえると開口一番に尋ねた。
「 フランソワーズ、今朝、あなたと一緒に話をしていた人…。何処かで見たことがあると思ったら、確か、F1レーサーの島村ジョーね。
まさかあなたが彼と知り合いだなんて、驚いたわ。もっと驚いたのは、彼と深刻そうに話していた事よ。パリ・オペラ座バレエのエトワールとF1レーサーの取り合わせか。それって凄い事だけど、お互いにファン同士って雰囲気じゃなさそうだったわ。もしかしたら…まさか彼があなたの本当に好きな人じゃ…。」
この感の鋭い親友に対して、フランソワーズはこれ以上嘘を突き通す事が出来ないと悟った。
全て、ジョアンヌに話してしまおう、そうフランソワーズは心に決める。
「 ジョアンヌ…。もうあなたには嘘は付けないわ。そうよ、あなたの言う通り、彼が…ジョーが
…。詳しい事は言えないけど、訳があってあたし達は離れ離れになって…」
フランソワーズは少しづつではあったが、これまでの経緯を親友に話した。
離れ離れになっても尚、ジョーへの気持ちは変わらなかった事。けれども彼からの音沙汰もなくなり、もしやジョーはこの自分を忘れてしまったのでは?と思うようになり、その不安から逃れるために、ジェロームに心を寄せた事…。
そして何の前触れもなくパリを訪れ、自分の前に現れたジョーに対して、心無い言葉を浴びせてしまった事…。
「 ジョーはあたしに言ったわ。あたしの幸せのために、敢えて逢いに来なかったのだと。
それを初めてジョーの口から聞いた時、心が乱れてしまい、彼を責めたのよ。
けれども、ジョーはそんなあたしを責めなかった。ジェロームに心を寄せたことさえも…。
それなのに、あたしはそんな彼の優しさを受け入れる事が出来なかったのよ。本当は嬉しかった。
けれども、どうしてもジョーに対してして来た事が許せなかった。
そして、ジェロームに対しても酷い事をした事も許せないの。いくらジョーを忘れる為とは言え、
彼の気持ちに甘え、そして婚約さえも受け入れてしまったのよ。」
ジョアンヌはこの親友の言葉を黙ったまま耳を傾けていた。
暫くの間、沈黙を保っていたがやがてゆっくりと彼女は口を開く。
「 フランソワーズ。あなたが羨ましいわ。
そんなにもジョーに想われて…。
あなたの幸せのために、敢えて逢いに来なかった。あなたからしたら、不本意だったかも知れない。女心って、そんな物よ。
逢いに来なかった理由さえも、最初は受け入れる事が出来なかったことも分かる。
けれどね、フランソワーズ。彼の気持ちが理解出来たのなら、素直にならなきゃね。
そうじゃないと、後悔するわよ。
もし、このまま又離れ離れになってしまったら…。辛いのはあなたよ、フランソワーズ。」
「 ジョアンヌ…。あたしは…。」
親友にそう言われても、それでも尚、フランソワーズは割り切れずにいたのだ。
心の中で迷いは消えてはいなかった。
そんなフランソワーズとジョアンヌの話を偶然にも聞いてしまった者があった。
それは他ならない、ジェロームだったのだ…。
続く…