宮沢賢治論

宮沢賢治論

宮沢賢治の作家論、作品論

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宮沢賢治全集〈5〉貝の火・よだかの星・カイロ団長ほか (ちくま文庫)/宮沢 賢治

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■「よく利く薬とえらい薬」に関する感想
「賢治童話の中ではやや軽い作品」と天沢退二郎が述べるように、物語に奥行きというものがほとんど見られない。ほとんど日本昔話程度のあらすじと物語の展開である。

偽金使いの大三が罰せられる理由は、自らの欲望ゆえ自滅すると解釈できるが、なぜ清夫には「よく利く薬」が与えられるのかという理由は言及されていない。強いて言うなら、母親思いというぐらいであろうか。

現存草稿は、「四百字詰原稿用紙十二枚にブルーブラックインクで清書、手入れは1 同じインク、2 細いペン・青っぽいインク、3 太いペン・青っぽいインクの順」と、かなり手を加えていることが分かるのだが、手が入っている割に読後感がほとんど湧かない作品である。

本作が創作された大正十年から十一年にかけて、賢治は菜食を礼賛していたことから、ばらの実による浄化を本作でとりあげ、それは後の「ビヂテリアン大祭」につながっていったと井上寿彦は指摘するのだが……。

原初的な物語と言ってしまえば、それまでだが、この頃の賢治は、こういう簡単な構造の作品が創りたかったのだろうか。


■「よく利く薬とえらい薬」あらすじ
母が病気であるため、清夫はひとり森の中でばらの実を集めている。森の生き物はそんな清夫を気遣って、母の容態を彼に尋ねる。

たくさんの実を集める清夫だったが、不思議と籠の中に実が増えていかない。ぽたぽたと汗を流しながら疲れてしまった彼は、ふと一粒のばらの実を唇に当てる。すると、「唇がピリッとしてからだがブルブルッとふるひ、何かきれいな流れが頭から手から足まで、すっかり洗ってしまったやう、何とも云へずすがすがしい気分に」なる。清夫は飛び上がって喜び、母の元に急ぐ。その実のおかげで母の様態は全快するのであった。

不思議なばらの実の話はまたたくまに広がり、それを聞きつけた偽金使いの大三はばらの実を集める。森の生き物たちは、欲深い大三をよく思わないのであった。

いくら探してもあのばらの実が見つからないものだから、大三は十貫目ものばらの実を持ち帰り、自分であのばらの実をつくろうとする。ガラスのかけらと水銀と塩酸をばらの実に加えて、るつぼで灼いたものを飲んだ大三は、死んでしまう。るつぼのなかにできたものは昇汞という毒薬であった。
宮沢賢治全集〈5〉貝の火・よだかの星・カイロ団長ほか (ちくま文庫)/宮沢 賢治

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■「とっこべとら子」に関する感想
狐が人をだますことを作者は、話を進めるにつれ徐々に嘘であることを読者に諭しているようである。「実に始末におえないものだったそうです」から、「こんな話は一体ほんとうでしょうか。どうせ昔のことですから誰もよくわかりませんが多分嘘ではないでしょうか」、「私はその偽の方の話をも一つちゃんと知ってるんです。それはあんまりちかごろ起ったことでもうそれがうそなことは疑いもなにもありません」。

そもそも狐にだまされている者とは、欲が深い上に酒に酔っていた六平じいさん、そして祝宴に参加し酒に酔っていた客である。このことから、狐が人間をだましているのではなく、人間の愚かさが人間に狐が人をだますという幻を見せているのである。

風刺とユーモアが調和している。後の「雪渡り」に通じるような、すばらしい作品である。事実、残された草稿を見ても、「四百字詰原稿用紙十二枚にブルーブラックインクで清書、手入れは1 同じインク、2 細いペン・青っぽいインク、3 太いペン・青っぽいインクの順」となっており、再度に渡り賢治が本作に手を加えていたことが分かる。そして欠損した原稿もないことから、作者自身作品の出来に関して納得した模様が伺える。

本作は、柳田国男と早川孝太郎が著した「炉辺叢書 第二編」にある「おとら狐の話」と、盛岡地方に伝わる「斗米(とつこべ)とら子」の伝承を結びつけたものである。


■「とっこべとら子」あらすじ
とっこべとら子という狐が人をだまし、悪さをするのはほんとうに手に負えないものであった。

第一話
ある晩、欲の深い六平じいさんがひどく酔っぱらって帰宅する途中、立派な侍に会う。これから遠くの国に向かっている途中である侍は、金貸しをしている六平じいさんにお金を預かってくれないかと頼む。もし自分に万が一のことがあったらそのお金はそのまま「そちに遣わす」という言葉とともに、千両箱をじいさんに渡した。欲深いじいさんは「ほくほくするのを無理にかくし」、千両箱を受け取るが、そのあまりの重さに返事さえできない。夢中で千両箱を担ぎ、よろよろしながら帰宅すると、じいさんを見た娘が、
「あれまあ、父さん。そったに砂利しょて何しただす」と叫ぶ。

第二話
村会議員になった平右衛門は自宅で祝いの席を催す。多くの人が駆けつけ、盛り上がる中、小吉という意地悪な百姓だけはこの酒宴がつまらないものだから、先に一人帰ろうとする。平右衛門のとめるのも聞かず、宴席を後にする。田の畔にあった疫病除けの張り紙である「源の大将」が自分をにらんでいると思った小吉は、それを路のまん中に立て直し、そのまま帰ってしまう。酒盛りが済んだので、酒宴に集まった人たちも帰宅しようとするが、さっき小吉が立て直した「源の大将」を「とっこべとら子」と見間違えて、全員がおびえてしまう。
宮沢賢治全集〈5〉貝の火・よだかの星・カイロ団長ほか (ちくま文庫)/宮沢 賢治

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■「カイロ団長」に関する感想
たのしくて、愉快な作品である。雨蛙たちが、「苦境をたとえば反抗や革命によって克服するのでなく、『王様のご命令』によって都合よく救われる設定に甘さをみる向きもあろうが、これはむしろ、雨蛙たちの基本的な弱さ・限界に対する作家の優しい見極め」と天沢退二郎が指摘する。

殿様蛙から搾取される雨蛙たちが、ついに革命を起こして殿様蛙を打倒するというのも面白そうだが……。造園を楽しい仕事とする彼らが、階級闘争により問題を解決するというのは、やや考えがたいし、そもそも彼らの造園業という仕事と矛盾していないだろうか。

あくまで本作の構図とは、雨蛙たちを支配する、非生産的な殿様蛙と、自然と調和した仕事をして生きる雨蛙という対立である。この対立する二極の関係を解決する方法は、両者の話し合いであるとか、先に挙げた革命による方法ではなく、超越的な存在である王様による命令である。

他者との調和とは、自らの働きかけによってなされるものではない、と作者はいいたいわけではなかろうが、殿様蛙の言い分が通る世界を認めることはできず、一方で、反抗・革命による解決も選択できない。本作における対立構造を解消する方法は王様による命令によるものしかないのである。

小説の奥深さとしては問題があるが、本作はたいへんユーモアに溢れており、読んでいて楽しい。愉快なかえるたちのユーモラスな物語が進行し、最後は水戸黄門のような強引なまとめ方で大団円を迎える。ある意味われわれの好きな予定調和のパターンである。

現存する草稿は二種類ある。
「(1)四百字詰原稿用紙八枚の裏面に鉛筆で書かれた下書稿で、手入れが鉛筆によるもののみ」
「(2)四百字詰原稿用紙二十四枚にブルーブラックインクで清書、手入れは1 同じインク、2 青インク」
ちくま文庫に所収されたものは(2)の2のものである。


■「カイロ団長」あらすじ
三十匹のあまがえるたちが、みんなでたのしく庭を造る仕事をしている。ところがある日、仕事が終わったあまがえるたちが一本の桃の木の下を通りかかると、そこには「舶来ウィスキー 一杯 二厘半」という看板が掛かっていた。あまがえるたちにはウィスキーがめずらしいものだから、ぞろぞろと店の中に入っていく。そこは、とのさまがえるが経営する飲み屋であった。酒盛りを始めるあまがえるたち。ウィスキーがあまりにおいしさから、おかわりを繰り返すあまがえるたちだったが、一匹、また一匹と酒の酔いからみんな眠ってしまう。

とのさまがえるは、あまがえるたちを順々に起こし、代金を請求するのだが、たくさんウィスキーを飲み過ぎてしまったため誰も代金を支払うことができず、全員がとのさまがえるの家来になってしまうのであった。

「いいか。この団体はカイロ団ということにしよう。わしはカイロ団長じゃ。あしたからはみんな、おれの命令にしたがうんだぞ。いいか。」

あまがえるを家来にしたが、これといった仕事もないので、とのさまがえるは適当な仕事をあまがえるたちにいいつける。だが、その仕事は彼らには過酷な労働だったので、自分たちにはこんな仕事はできないと言って抗議するが、とのさまがえるは全員を警察につきだすと脅迫する。

そこに王様からの命令が下る。人に物を言いつけるものは、まず自分がその仕事を行うこと。そして、続いての王様からの命令は、あらゆる生き物は憎み合ってはいけないというものであった。悔悟するとのさまがえる。三十匹のあまがえるたちは庭を造る楽しい仕事に戻るのだった。
宮沢賢治全集〈5〉貝の火・よだかの星・カイロ団長ほか (ちくま文庫)/宮沢 賢治

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■「若い木霊」に関する感想
木霊とは一体何者なのだろうか? という具合に考え始めると宮沢賢治の作品を読むことが苦しくなるので、あまり問わない。が、少し気になるので巻末にある解説を読む。天沢退二郎は「土地の精霊的存在」、「妖精的な(おそらくん人間の目には見えない)存在」と書いており、この妖精的なものが「妖しい、あたかもこの世ならぬ雰囲気を湛えている」という感想を述べている。

いったいどのあたりの記述をして、「妖しい」のか自分には解しかねるが、妖精的な存在が登場する物語が「この世ならぬもの」であるのは当然なのだから、天沢氏の解説にも苦しいところがある。

現存する草稿は二種類ある。
「(1)下書稿。「馬の頭巾」草稿のうち五枚の裏に鉛筆で書いたもの。手入れはその鉛筆によるもののみ。」
「(2)清書稿。四百字詰原稿用紙にブルーブラックインクで清書一枚。」
とあり、ちくま文庫に収められている本作は(1)(2)の重複箇所以外を併せたものとなっている。なお、本作には題名がなく、十字屋版全集以来「若い木霊」と書くことが慣行となっている。

現存する草稿のほとんどが清書された後に手入れされていないところをみると、作者は本作を手に負えなくなり、投げ出してしまったのではないか。

主人公である「若い木霊」が鴇にだまされるというおちを作ってみたが、精霊である存在に何らかの性格付けをすることもできないまま、これといった山場もなくおちをむかえてしまう。


■「若い木霊」あらすじ
若い木霊は、「明るい枯れ草の丘の間」を歩いている。春が来ているというのに、まだ眠っている柏の木を起こしてみたりしていると、小さな窪地を一匹のヒキガエルがのそのそと地面を這っているのを見つける。ヒキガエルは、「鴇(とき)の火」について話しているようである。「若い木霊の胸はどきどきして息はその底で火でも燃えているやうに熱くはあはあする」。窪地を離れる木霊。

ふたたびふらふらと歩き出した木霊は、栗の木が眠っているのを起こそうとしたり、かたくりの葉の上に「紫色のあやしい文字」を見つけたりする。桜草が「鴇の火」のことを話しているのを聞いた木霊は「胸がまるで裂けるばかりに高く鳴り出して」しまう。

その時、一匹の鳥が飛び立つ。鴇であった。
「お前、鴇の火といふものを持ってるかい。持っているなら少しおらに分けて呉れないか」。
火をあげることを気前よく承諾した鴇は、桜草のちらばっている場所に行く。そこには「桃色のかげろふのやうな火がゆらゆらゆらゆら燃えてのぼって」いた。
飛び去る鴇に火をくれとせがむ木霊に、そこいらじゅうにあるのだから「持っといで」と言われ、自分がだまされたことを知る。
宮沢賢治全集〈5〉貝の火・よだかの星・カイロ団長ほか (ちくま文庫)/宮沢 賢治

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■「十力の金剛石」に関する感想
大塚常樹は「宮沢賢治 心象の記号論」の中で、本作がメーテルリンクの「青い鳥」の「基本的枠組み」を踏襲していることを指摘している。「ほんとうのさいはひ」を求めての旅であり、「青い鳥」を「蜂雀」、チルチルとミチルのように王子と大臣の子は、旅の成果に「世界を見る豊かな目を獲得する」。

虹の絵具皿を求める王子は、性急に先を急ぐ。脚に絡みついた藪の茨を剣によって切り離す王子であったが、十力の金剛石を体験した後、「王子はかがんでしずかにそれ(一本のさるとりいばら)をはずしました」という仕草からも読みとれる。

賢治の童話に「『あちら』と『こちら』」の発想があることを読む松田司郎は、「世界は(あちら)には常に十力の金剛石が降り注いでいるのに、それを体感することができないのは、人間が自ら作り出した日常生活(こちら)にどっぷりとつかっているせいである」と本作のテーマを指摘している。

あたり一面に転がる宝石を拾わずにむしろ馬鹿げたことに思う二人は、すでに(あちら)と(こちら)の境にあったと見てよいだろう。

十力の金剛石に対する解釈は、恩田逸夫が「宮沢賢治の宇宙観」の中で行っている「宇宙根源力そのものの姿」が妥当だと思う。

現存する草稿は、「四百字詰原稿用紙二十四枚にブルーブラックインクで清書、1 同じインク、2 青っぽいインク、3 墨・毛筆、他に一箇所紫鉛筆」による四通りの手入れがなされている。

「十力の金剛石」という題は、「虹の絵具皿」と鉛筆で直されて見えることから、青空文庫では後者を本作のタイトルとしているが、改題に関する改作メモ等は見つかっていないため、ちくま文庫版の全集では「十力の金剛石」としている。

「構想全く不可 そのうちの 数情景を 用ひ得べきのみ」とする賢治のメモが残っており、本作品に対する作者自らの評価は低い。


■「十力の金剛石」あらすじ
霧の深い朝、王子は同じ年である、大臣の子の家に遊びに行く。そこで「虹の脚もとにルビーの絵の具皿がある」ことを聞かされた王子は、大臣の子をともなって霧の中を森の方へと走っていく。

目も覚めるようなみごとな虹が空高く架かっているのを見つけた二人は、その脚もとにどんどんと進んでいくが、虹もどんどんと遠ざかっていく。虹を追うあまり森の奥へ分け入ってしまう二人。そこに現れる蜂雀に導かれるまま進んでいくと、空模様が急変してしまう。雨があられに変わり、二人はいつしか森に囲まれたきれいな草の丘の頂上に立っていた。

あられと思ったものが「ダイアモンドやトパァスやサファイア」であることに驚く二人。あたりいちめんが宝石できらきらしているので、「もうなんだか拾うのがばかげているような気」がしてしまう。

美しい宝石に囲まれた中で暮らしている草や木がかなしんでいることを不思議に思う王子はその理由を野バラにたずねると、
「十力の金剛石がまだ来ないのです」と答える。

「十力の金剛石は今日も来ない。
その十力の金剛石はまだ降らない。
おお、あめつちを充てる十力のめぐみわれらに下れ」

にわかに蜂雀がさけびをあげる。空から十力の金剛石が大地に下ってきたのであった。十力の金剛石がすべての生き物に自らを浸透させると、「みなめざめるばかり立派に変わって」いた。悦びと敬虔な思いから二人は草の上にひざまずくのであった。-15
宮沢賢治全集〈5〉貝の火・よだかの星・カイロ団長ほか (ちくま文庫)/宮沢 賢治

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■「けだもの運動会」に関する感想
現存する草稿は、「未使用原稿用紙二枚の裏に鉛筆で下書きしたものに、1 同じ鉛筆、2 黒っぽいインクで手入れ」されたもので、タイトルは本来不明である。十字屋版全集以来本作を「けだもの運動会」と呼ぶことが慣行となっている。

本作を読むと、オリンピックなどの国際競技におけるルールの改変や、第一次世界大戦後に創設された国際連盟へのアメリカの不参加、核拡散防止条約などのことがふと頭を過ぎる。

作者は、力や特性がそれぞれ異なっている者たちの間における、真の「公平」とは何かを探ろうとしたのかも知れないが、「公平」であると一致した競技に参加しない豹と獅子と象は、真の「公平」の存在そのものを否定する強者であると解釈することもできる。

最初と最後が欠損しており、おまけにタイトルさえないという本作であるが、すこし穿って読んでみると、案外面白い一面を有していることに気がつく。


■「けだもの運動会」あらすじ
動物たちが運動会を企画しているのだが、競技種目がなかなか決められない。虎は「引き裂き競争」を主張するが、獅子ににべもなく却下される。そこで象が提案した「鉄棒ぶらさがり競争」が「猿が得手のやうにも見えるけれど」、「公平」な競技であるとみんなの賛同を得る。

さて、運動会当日、「鉄棒ぶらさがり競争」が開始されようとするが、審判官の豹と賞品係の象、そして運動会長の獅子は参加しない。競技が始まるとみんなの予想に反して、開始から五十秒で猿が脱落してしまう。
宮沢賢治全集〈5〉貝の火・よだかの星・カイロ団長ほか (ちくま文庫)/宮沢 賢治

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■「クンねずみ」に関する感想
ねずみ三部作の最後を締めくくる本作が、技巧において他の作品よりも勝っていると思える。

クンねずみがあおむけに寝転んで、「ねずみ競争新聞」なるものを手に取ると、そこにはツェねずみとねずみとりの話が掲載されている点など、まるでジョイスの常套手段を思わせる。

話している相手が漢字の熟語を器用に使うときに、決まってクンねずみが咳払いするところから、クンねずみは、熟語を巧みに使いこなせることが偉いとする価値観を持っているようだ。「これらのほとんどが、明治以後西洋から移入された概念の熟語であること」を中野新治が指摘し、「新来の概念を漢字化できたことが日本の近代化の成功」を促したとする一方で、「言葉の使用可能量による選別が制度化され、人々を威圧したことを意味する」と続け、クンねずみをその被害者と見ることもできると解釈する。

ここまで複雑に解釈しなくとも、自分を偉いと思い上がって、まわりの人に対して高慢な態度で接していると、自らのうちに不平が生じて「ブンレツ」してしまい、挙げ句の果てに我が身に破滅が及ぶということを揶揄っているだけでもよいと思う。

「現存草稿は四百字詰原稿用紙十五枚にブルーブラックインクで清書したものに、1 同じインク、2 青っぽいインク、3 黒っぽいインクの順に手入れされている」。ちくま文庫に所収されているものは2の段階のものを、また、青空文庫のものは3のもののようである。


■「クンねずみ」あらすじ見晴らしのいいところに家を構えるクンねずみは、自分が誰よりも偉いと思っている。ねずみの仲間と話をしていても、相手が難しい言葉を使う度に「エヘン、エヘン」と咳払いをして嫌がらせをする。

ある日、議論が上手なテねずみがしゃくにさわって、「エヘン、エヘン」とやってしまうと、「ブンレツ者」としてみんなの前で暗殺されそうになってしまう。

そこに猫大将が現れ、ねずみたちはちりぢりばらばらに逃げ出すが、しばられたままのクンねずみは逃げられない。クンねずみの事情を知った猫大将は自分の四人の子どもの家庭教師としてクンを助ける。ところが、猫の子どもの方が自分よりもずっとかしこいことを知ったクンねずみは「エヘン、エヘン、エイ、エイ」とやってしまう。
「何だい。ねずみめ。人をそねみやがったな」。
クンねずみを食べ終わった四人のもとに戻ってくる猫大将は、何を先生から習ったのかと子どもたちに問う。四ひきが一緒に答える。
「鼠をとることです」。
宮沢賢治全集〈5〉貝の火・よだかの星・カイロ団長ほか (ちくま文庫)/宮沢 賢治

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■「鳥箱先生とフウねずみ」に関する感想
鳥箱先生とは、鳥箱がすなわち先生となったもので字面の通りの存在である。思わず筒井康隆の作品に出てきそうな、シュールな登場人物である。

本作の主題は、末尾に猫大将が述べる台詞に集約されているので、あえて述べるまでもない。

中野新治は、鳥箱先生がフウねずみに述べる訓示はどれも「子ねずみの現実を無視した届かない言葉」であり、このことから、生徒に「届かない言葉」が教育界に充満していることを賢治は実感していたのだと指摘する。

本作の現存草稿は「四百字詰原稿用紙十枚にブルーブラックインクで清書したものに、1 同じインク、2 赤鉛筆、3 青っぽいインクで順に手入れ」されたもの。

鳥箱先生とフウねずみのやりとりがユーモラスであるが、結末は残酷であり、そして、批判的である。


■「鳥箱先生とフウねずみ」あらすじ
「天井と、底と、三方の壁とが、無暗に厚い板でできてゐて、正面丈けが、針がねの網でこさへた戸」でできているのが「鳥箱先生」である。

彼は自分の中に入れられてくる小鳥にことごとく訓示をするのであるが、鳥は饑えたり、病気になったり、また、あまりの寂しさから箱の中で死んでしまうのであった。

ある日、小鳥が箱の中にいるにもかかわらず、戸を開けたまま居眠りをしてしまった鳥箱先生。目を覚ますと、すでに猫大将が小鳥を捕まえて、ニヤニヤ笑いながら向こうに走り去っていた。それ以来、信頼を損なった先生は、物置の棚へ放置される。

物置で出会った母親ねずみから、フウという名前の子ねずみの教育を頼まれた先生は、フウに向かって、
「男といふものは、もっとゆっくり、もっと大股にあるくものだ」とか、
「男はまっすぐに行く方を向いて歩くもんだ」
と訓示を述べるが、まったく効果のないことに腹を立てる。先生が、ねずみの親子に説教をしているところに猫大将が嵐のように現れ、フウをつかんで地面にたたきつけた。
「ハッハッハ、先生もだめだし、生徒も悪い。先生はいつでも、もっともらしいうそばかり云ってゐる。生徒は志がどうもけしつぶより小さい。これではもうとても国家の前途が思ひやられる。」
宮沢賢治全集〈5〉貝の火・よだかの星・カイロ団長ほか (ちくま文庫)/宮沢 賢治

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■「ツェねずみ」に関する感想
ユーモア溢れる作品とはこういったものを言うのだろう。「ツェねずみ」「鳥箱先生とフウねずみ」「クンねずみ」をねずみ三部作と呼びたい。

本作は、自分の身に降りかかった不幸を他人のせいにしたがるエゴ丸出しの人物のカリカチュアである。主題は簡単にして明瞭であり、解釈の分かれる余地もなかろう。

中野新治は、「賢治は、現実の受容=無私という世界に生きようとした人であったから、その対局にある肥大したエゴだけで生きている人間がたまらなくいやであったにちがいない」と指摘する。

主題は大雑把だが、細かなディテールにこだわった作品である。

蟻の兵隊が金平糖を護るために四重の非常線を張り、蟻の特務曹長がねずみを追っ払う。
ねずみとつきあいだした柱は、目の前で転ぶねずみに「ケガはないかい?」とからだを曲げながら問いかけるのだが、ねずみに散々当たられた後、おいおいと泣く。
ねずみに同情するねずみとりは、「ねずちゃん、おいで、おいで」と誘いかけ、餌を与える。このねずみとりとのやりとりは本当におかしい。

全集巻末には、「現存草稿は四百字詰原稿用紙十三枚にブルーブラックインクで清書した後、1 同じインク、2 青っぽいインクで手入れされたもの」とある。

「ツェねずみ」の「ツェ」とはつまらないことに舌打ちする擬音「チェ」から来たものか?

■「ツェねずみ」あらすじ
ここはある古い家の真っ暗な天井裏。きょろきょろ四方をみまわしながら、この床下街道を歩いてきたのは本作の主人公であるツェねずみである。

いたちから金平糖の在処を教えてもらったねずみは、急いで戸棚に向かい、こぼれている金平糖を拝借しようとするが、そこにはすでに蟻の兵隊が四重の非常線を張ってあり、手出しができない。すごすごと引き返すツェねずみであったが、どうにもおもしろくないものだから、いたちのところにいって、自分が金平糖を食べられなかったのは、あなたにだまされたのだとぶちまける。思いも寄らぬねずみの態度に、いたちは手にしていた金平糖を投げつけ、その場を後にする。

こんな具合だからあらゆる生き物から嫌われたツェねずみは次第に柱やちりとり、ばけつ、ほうきとの交際を始めたのであった。だが、ここでも彼らを困らせる結果になり、とうとう彼とつきあうのは、できの悪いねずみとりだけとなった。

最初は良好であった両者の関係も、ツェねずみの横柄な態度に次第に腹を立てるねずみとりが、誤ってツェねずみを捕らえてしまうことに。
そこに、顔のまっ赤な下男が来て見て、こおどりしてこう言う。
「しめた。しめた。とうとう、かかった。意地の悪そうなねずみだな。さあ、出て来い。こぞう。」
宮沢賢治全集〈5〉貝の火・よだかの星・カイロ団長ほか (ちくま文庫)/宮沢 賢治

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■「馬の頭巾」に関する感想
「この童話は途中二箇所と終わりの部分とがなくなっていて、現存するのは四百字詰原稿用紙九枚分の清書稿」だけである。原稿用紙の裏を他の作品に転用したため本作品の結末は不明である。だが、ぢいさんの予言のとおり、黒馬は種馬所で大騒ぎとなり、大変な富を甲太にもたらすことになるかも知れない予感がある。

ただ、そうなった場合、甲太は自分が可愛がる黒馬を取るのか、金を取るのかという選択を迫られるに違いない。

馬に寄せる甲太の愛情や、おかみさんのやさしさが短い作品の中によく表されている。

結末が気になる。


■「馬の頭巾」あらすじ
まちはづれにおかみさんと二人で暮らす甲太は、一疋の黒い馬と一台の荷馬車を持っていた。馬はたいそう立派なものであったが、残念なことに少しびっこを引いていた。甲太がたいへんその馬を可愛がるので、彼を馬鹿にする人もいた。

おかみさんは黒馬のために服をつくってやる。服はあいにく耳のところがすこし垂れ下がっていたのだが、甲太はそれを馬に着せて大喜びする。だが、子どもたちはこの馬を見て大笑いする。「おらの馬、うさぎ馬だよ」と言うと、納得する子どもたち。

そこに「ごま塩ひげの洋服を着たぢいさん」が、少ししたらこの馬のびっこは治るから種馬所に連れて行けという。
「びっこがなほれば大さわぎが起きるぞ」。