5-15 十力の金剛石 | 宮沢賢治論

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宮沢賢治の作家論、作品論

宮沢賢治全集〈5〉貝の火・よだかの星・カイロ団長ほか (ちくま文庫)/宮沢 賢治

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■「十力の金剛石」に関する感想
大塚常樹は「宮沢賢治 心象の記号論」の中で、本作がメーテルリンクの「青い鳥」の「基本的枠組み」を踏襲していることを指摘している。「ほんとうのさいはひ」を求めての旅であり、「青い鳥」を「蜂雀」、チルチルとミチルのように王子と大臣の子は、旅の成果に「世界を見る豊かな目を獲得する」。

虹の絵具皿を求める王子は、性急に先を急ぐ。脚に絡みついた藪の茨を剣によって切り離す王子であったが、十力の金剛石を体験した後、「王子はかがんでしずかにそれ(一本のさるとりいばら)をはずしました」という仕草からも読みとれる。

賢治の童話に「『あちら』と『こちら』」の発想があることを読む松田司郎は、「世界は(あちら)には常に十力の金剛石が降り注いでいるのに、それを体感することができないのは、人間が自ら作り出した日常生活(こちら)にどっぷりとつかっているせいである」と本作のテーマを指摘している。

あたり一面に転がる宝石を拾わずにむしろ馬鹿げたことに思う二人は、すでに(あちら)と(こちら)の境にあったと見てよいだろう。

十力の金剛石に対する解釈は、恩田逸夫が「宮沢賢治の宇宙観」の中で行っている「宇宙根源力そのものの姿」が妥当だと思う。

現存する草稿は、「四百字詰原稿用紙二十四枚にブルーブラックインクで清書、1 同じインク、2 青っぽいインク、3 墨・毛筆、他に一箇所紫鉛筆」による四通りの手入れがなされている。

「十力の金剛石」という題は、「虹の絵具皿」と鉛筆で直されて見えることから、青空文庫では後者を本作のタイトルとしているが、改題に関する改作メモ等は見つかっていないため、ちくま文庫版の全集では「十力の金剛石」としている。

「構想全く不可 そのうちの 数情景を 用ひ得べきのみ」とする賢治のメモが残っており、本作品に対する作者自らの評価は低い。


■「十力の金剛石」あらすじ
霧の深い朝、王子は同じ年である、大臣の子の家に遊びに行く。そこで「虹の脚もとにルビーの絵の具皿がある」ことを聞かされた王子は、大臣の子をともなって霧の中を森の方へと走っていく。

目も覚めるようなみごとな虹が空高く架かっているのを見つけた二人は、その脚もとにどんどんと進んでいくが、虹もどんどんと遠ざかっていく。虹を追うあまり森の奥へ分け入ってしまう二人。そこに現れる蜂雀に導かれるまま進んでいくと、空模様が急変してしまう。雨があられに変わり、二人はいつしか森に囲まれたきれいな草の丘の頂上に立っていた。

あられと思ったものが「ダイアモンドやトパァスやサファイア」であることに驚く二人。あたりいちめんが宝石できらきらしているので、「もうなんだか拾うのがばかげているような気」がしてしまう。

美しい宝石に囲まれた中で暮らしている草や木がかなしんでいることを不思議に思う王子はその理由を野バラにたずねると、
「十力の金剛石がまだ来ないのです」と答える。

「十力の金剛石は今日も来ない。
その十力の金剛石はまだ降らない。
おお、あめつちを充てる十力のめぐみわれらに下れ」

にわかに蜂雀がさけびをあげる。空から十力の金剛石が大地に下ってきたのであった。十力の金剛石がすべての生き物に自らを浸透させると、「みなめざめるばかり立派に変わって」いた。悦びと敬虔な思いから二人は草の上にひざまずくのであった。-15