宮沢レポート 【イマヌエル・カント(1724~1804)】 | 宮沢たかひと Powered by Ameba
竹田先生の著書から、カントの哲学の要点をまとめてみました。偉大すぎてコメントなどできず、レポートになっていませんが、その後のヘーゲル、フッサール、ニーチェ、ハイデカーに至る近代哲学の歴史の中、間違いなく巨匠であることがわかりました。

「純粋理性批判」、「実践理性批判」、「判断力批判」の三批判書を読んだわけではないので、本当に表面的理解とは思いますが、今の私の能力ではこれが限界です。

しばらくの間は近代哲学の歴史的巨匠それぞれの要点をまとめることに専念します。問題ありましたら、遠慮なく指摘してください。

以下は竹田先生の著書からの引用です。

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■ 哲学に新しい、しかも本来的なテーマを置きなおしたのは、ソクラテス=プラトンであり、ニーチェ、フッサール、ハイデカーという系譜。カントはそれを徹底したかたちではやらなかったが、人間の言葉、思考、理論といったものそれ自体に対する徹底的な批判をはじめて行った。(p154)

■ カントは道徳の哲学者。

■ カントの主張(p155)

①「物自体」という考え方・・・人間の認識は限定されたものだから、世界のあるがまま(=本質)は人間に認識できない。
②現象界と可想界・・・人間が認識できるのは人間にとって現われる(現象する)限りでの世界だけ。世界のあるがまま(本質としての世界)は、人間にとってただ想い描かれるだけの世界(=可想界)である。
➂ここから、人間にとっての世界は、ただ現象としてあるザイン sein の世界と、世界はかくあるべきだと思い描かれる当為ゾルレンsollen の世界、という二つの区分を必要とする。
④ゾルレンの世界は、人間のかくあるべきを求めるもので、それは道徳に帰着する。

■ カントによると、ギリシャ哲学以来ずっと考えられていた「世界とは何か」という問いは、人間の理性の能力では答えの出ない問い、本来理性の能力では答えの出ない問い、本来理性の能力を超えた問いだったのだ、ということになる。故に、カントの哲学は、理性批判の哲学、哲学批判の哲学と呼ばれる。(p161)

■ 理性というものは推論の能力であって、ものごと(現に与えられているもの)の存在理由、その原因結果の連鎖(=条件)をとことん問い続けて、最後にその「完全性」、「全体性」にまでいきつかないと、決して「なぜ」と問うのを止めないような本性を持つ。(p161-2)

■ 人間が確実なものとして言える能力を理性の要求は原理的に超えている。だから、「世界とは何か」という問いに対する結論が出ない。カントは今までの哲学的問題の解答不可能性を宣言した。(p163-4)

■ カントから見ると、スピノザの神=世界一元論は、人間の理性が原理的に堪えられないことを無理やり答えようとしている典型的な例。(p165)

■ カントの行った理性の「批判」、哲学の「批判」の功績は、世界の全体について完全な答えを見い出すこと、それを一元論的に言い尽くすことは、言葉(理性)の本性から言ってもともと不可能だ、ということを”証明”したことに尽きる。この考えは大変説得的であるし、哲学が論理上の問題にはまり込んで、ますます人間の実際から離れてしまう傾向に対する、とても有効な解毒剤になっていると言っていい 。(p167-8)

■ 理性の能力をいたずらに使用して、世界のすべてを捉えようとしたいままでの哲学は、不可能な望みの中で混乱していたにすぎない。人間は具体的に経験できる世界の因果関係だけをそれなりに正しく認識できるだけだ。そしてそれは科学に任せればいい。(p168)

■ そうである以上、哲学に残る重要な問題は、人間の自由の問題だけだ、ということになる。「世界は何であるか」ではなく、「人間はどういう世界をめざせるか」ということ、存在の認識ではなく、人間の当為、あるべきをどう考えるかということ、ここに哲学の根本がある。(p168)

■ カントは「何がよいことか」ばかりに頭がいって、それがなぜ簡単に実現しないのかについては深く考えが回っていない。人間の自由ということをすべて「道徳」の問題に帰着させてしまっている。(p170)

参考: 竹田青嗣著「自分を知るための哲学入門」(筑摩書房)