情報って「からだ」にとってどんな体験なんだろう?…「からだ」考2ー④
~「情報って「からだ」にとってどんな体験なんだろう?…「からだ」考2-③」の続き~
情報という体験を「からだ」に即して考えてみる
私達は文字を読めなければならない
ここまで来ればあと必要な前提は当然こうなります。私達は文字を読めなければならない―まさにこれです。(もし、自分自身が読めなかったとしても他の誰かがこれを読んで理解出来れば“見えない現実”に私達は届くはずだ―という確信)
「からだ」は文字を解読する能力を持つ
いま私が問いたいのは、「からだ」で起こっていることなので、“私”や“誰か”という主語から、「からだ」という感覚の渦へと焦点を移してみます。すると、「からだ」は文字を解読する能力を持つという風に言い換えることが出来そうです。
「わかった!」と感じる場面へとさらに降りてみる
ただこれだけだと、「からだ」にとって“解読する”ってなんだ?となりそうです。“解読したと感じる”感覚は具体的には一体どんな風なんだ?となってしまうからです。さらに考える必要がありそうです。文字を読んで「わかった!」と感じる場面をさらに降りていってみましょう。
本を読んでいる場面を想像してみて下さい。
スラスラと読めてしまう時、“解読する能力”は意識されません。文字を追うことに集中してる間に次々と「わかった!」を生成し続けます。まるでオートマチックに進行するプログラムのような感触です。
けれども、難しい文章に出くわして何度も同じ文章を繰り返し読んでしまっていて突然「わかった!」が降りてくることがあります。そんな時こそ“解読する能力”の内実が露わになってきます。
では、わからなかった文章が「わかった!」へ飛び移った瞬間なにが起こっているでしょうか?それは普段から馴染みのあるイメージや感覚へ文字によって引き起こされた「からだ」感覚が接続された時ではないでしょうか?文章の内容自体がイメージや感覚として立ち上がってきて、それが感触としてある種の整合性をもって組み立てなおされた時ではないでしょうか?
~「情報って「からだ」にとってどんな体験なんだろう?…「からだ」考2ー⑤」へ続く~
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