情報って「からだ」にとってどんな体験なんだろう?…「からだ」考2ー①
なんでそんなことを考えるのか?
自分の感覚で感じる「からだ」
普段、私達が“体”と呼んでるものを、私は個人的に「からだ」:体:身体 と三つに分けて考えるようにしています。(→「体、身体、「からだ」の私的使い分け 」http://miyazakiharikyu.com/post-262/)
三つに分けて考えることで今までゴッチャゴッチャになっていたややこしい問題がある程度見透しがききやすくなってくるのではないか―と考えています。(→「なんで「からだ」にこだわってしまうのか?…「からだ」考1まとめ」)
「からだ」と情報の関係を考えてみたい…
その内の 一つである自ら生々しく感じられる「からだ」 と情報といわれるものの関係について少し考えてみたいと思います。
考えるキッカケは、今、世界をかき回しまくってる新型コロナウイルス(Covit-19)の騒動です。そこから“外邪”という昔の日本や中国の概念から現代の伝染病との違いを点検してみた時です。(→「トイレットペーパーを買いに走ってしまうのも“新型コロナ”の症状なのかもしれない…」)
そこで「どうも“外邪”という視点からは情報と“外邪”はかぶりながらやってくるらしい」という結びに行き着きました。
情報って「からだ」にどつてどんな体験なんだろう?
そこから、
「では、情報とは自分で感じる「からだ」にとってどういうものなんだろう?」
という疑問にぶつかりました。
先ほど述べたように、自ら生々しく感じられる「からだ」という風に私自身で規定したのですから、この枠内で考える限り“情報”も感じられる感覚として捕まえる他はありません。
なので、先ほどの疑問は、
「情報とは、感じられる「からだ」の中でどのような姿で現れているのだろう?」
「情報を得るとは、「からだ」にとってどんな体験なんだろう?」
に言い換えることが出来ると思います。
以後はこの設問に沿う形で考えてみたいと思います。
~「情報って「からだ」にとってどんな体験なんだろう?…「からだ」考2ー②」へ続く~
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