3002.仁(5)仁に里るを美と為す | 論語ブログ

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仁(5)仁に里るを美と為す

 

子曰わく、仁に里(お)るを美と為す。擇(えら)びて仁に處(お)らずんば、

焉(いずく)んぞ知なるを得ん。

 里仁第四 仮名論語371行目

 伊與田覺先生の解釈です。

先師が言われた。「仁に行のより所を持つのが美わしい。択んで仁によらねば、

どうして知者といえようか」

 

「子曰わく、仁に里るを美と為す。擇びて仁に處らずんば、焉んぞ知なるを得ん」・・・自分の身を「仁」という立場におく、つまり「仁」という徳を行いの拠り所とするのが美しく結構なことである。この「仁」にいるかいないかの選択は、自分の自由であるにもかかわらず、自ら選んで「仁」の立場にいないとすれば、真に智ある者といえない。と言っています。

「仁に里る」を自分の身を「仁」という立場に置くと解しましたが、子罕第九仮名論語118頁4行目の章では、「君子是之に居らば、何の陋しきか之有らん」と言っています。君子がそこに住めば、だんだん野蛮でなくなってゆくよ。という事です。

「仁に里る」とは、何処に居住しても人の仁徳が我が心の栖む里と致していればと仰せられたのでしょう。仁徳に安住してこれを我が心の栖む里と心得ている人は、これによって立派な人格を作り上げられ、心広く體豊になれるのです。

もし心を名利に奪われ私欲にまみれてその日を暮らす人に至っては、他より見ても醜いもので、誠実さも人情も心の美しさも感じられません。されば仁徳を心の安住地とはせず。そのような者は智者とは言えません。眞正の智者は必ず「仁」に一致し、「徳」に一致すべきです。「徳」から離れて「智」はなく、「仁」を外れた「智」はないのです。

もし、ここに人が居て心を「仁徳」の上にたて、これに安住すれば、ただその人だけが心広く、體豊になるだけではなく、その家庭にも仁厚の風が吹き渡り、ついには郷党にもだんだんとこれを推し及ぼして、仁徳の美俗を成すようになるものです。

郷党を仁風に化すのは先覚者の任務なのです。

南宋の思想家朱子は「里は仁なるを美と為す」と読み、「村里に仁の風俗のある処を美しい所という」と解釈しています。

里とは、二十五軒の家からなる集落です。村でも仁の徳に富んだ人の多く住んでいるところがよろしい、だから選んで「仁に処らずんば焉んぞ知なるを得ん」・・・住居を選択する場合にも、よく考えて、そうした所に住まなければ、聡明な、知性のある人物とはいえない、ということになります。つまり人間は、環境が大切だから、環境のいい所に住むのがいい、ということになりますね。

「仁」とは孔子学団で理想とされる道徳で、字の解釈からいえば人と二とからなり、二人の人間の間に生まれる親愛の情です。

でも仁には他人に対する面と、自己に対する面とがあるのです。前者(他人に対する面)は惻隠の心(他人の不幸を黙って見過ごせない心)から出る思いやりの心(恕)で、人を愛する気持ちが中心となるものであり、後者(自己に対する面)は克己復礼(自分の我欲、わがままに打ち克ち、礼すなわち公衆道徳を実践すること)であると考えられます。

この両者があいまって修身(身を修め)、斉家(家を整え)、治国(国を治め)、平天下(天下を平らかにする)の徳知政治へと発展します。そのような仁の徳を身につけようとするかしないかの選択は自由ですが、仁の徳を身につけようとしないとすれば、そのような人は智者とは言えないというのです。

 

 つづく

                                                                                           宮 武 清 寛

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